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Baldwin Memoria  作者: 雪本歩
序章
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序章

 短い夏と秋を越え、風の谷に寒風が吹き始めた。山間に築城された白壁の城と、裾に広がる城下街を新月の空が覆っている。営みの灯りは消え、梟が子守歌を響かせる。

 そのバルデュワン公国の城下、東に位置するトロネ教会の教皇庁にポツリと灯りが残っていた。関係者以外の立ち入りを禁ずる庁内でもさらに選ばれた者しか許されぬ区域に、日も変わる刻であったが多数の気配が在る。


「もはや一刻の猶予もありますまい」


 夜の帳を壁に薄暗い室内に響く声。楕円の卓に並べられた三つの蝋燭が、座する十名以下の者たちを照らしている。教会関係者だけではない、城側の人間とおぼしき者も数名共に卓を囲んでいた。

 その中でも上座に近い位置に座る司祭が最初に口を開いた。やや豪奢な祭服を身に纏う四十半ばの男の嗄れた声が、言葉を続ける。


「戴冠式を終えてしまえば面倒になりますでしょう、ただでさえ奴は若い。先王と同じようにしてもバルデュワンに妙な噂が広まるのみ」


 企みは自然と潜められていたが、外界からの音が消えた宵の刻はその声を際立たせる。さらに小さな囁きが卓のあちこちで生まれては消えていく。


「若造が君臨したところで放っておけば勝手に自滅するのではないか? 無知の政道に民がついてくると思えんが」


「レイモンド陛下の片腕は今もその座に就いている、よほどでなければ下手はすまい。それに、老師の存在も忘れたか」


「奴に政治権限はないだろう」


「成人まで師と仰いでいた人間だ、いくら王子とてその言葉を無碍にはできまい」


 入り乱れる思惑の応酬に、一人の男が含み笑いのような声を出した。漣のように広がっていた囁きがぴたりと止み、部屋中の視線が一斉に男へ向けられる。


「何か、名案がおありですかな? トライシオン男爵」


 全員の心中を始まりを口にした司祭が代弁する。

 名を呼ばれた男――トライシオンが横柄な仕草で卓の全員を一瞥した。

 誰もその振る舞いを咎めようとはせず、司祭は僅かに眉を顰める。


「なに、考えれば簡単なこと。若く活発な王子は城下に行くこともままあります。そこで何か事件に首をつっこみスラムの路地裏で命を落とす……なんてことが、不運にも起こるかもしれませんでしょう?」


「なるほど……事件に巻き込まれたと見せかければ、疑いは宙に消えますな」


「スラムはいくら小さいとはいえ、治安が良いとは言えぬからな」


 肯定の囁きが方々から生まれ、トライシオンは満足げな様子で口元に性悪な笑みを浮かべた。身の丈の小さな肥えた腹がほんの僅かに揺れる。

 髪を綺麗に眉上で切りそろえ、場内では幾分若い司祭が発言権を求め、手を上げる。静まったところで手元の羊皮紙を指でなぞり、紙面を読み始めた。


「明日から儀典室の者がイヴェール城に参ります。黒を紛れ込ませ、王子の傍に置くのが得策かと。行動が把握できれば城外で襲うことも不可能ではありません」


「城内でも隙があれば黒なら可能だ」


「いかがでしょう、他に策もありませぬ」


 若い司祭が視線を部屋の奥へ向けた。

 それが合図のように部屋中が一瞬で静まり返った。トライシオンへ集まっていた視線は彼含め、全て上座へ向けられる。

 卓の中央に置かれた燭台から一番遠く、光の届かぬ場所に座する男が悠然とした態度で椅子の背もたれに寄りかかった。


「聞いていたな、レティセンシア」


 尊厳な声がゆっくりと響く。

 卓に着く者たちに緊張が走った。囁きはおろか呼吸すら許されぬような空気が張りつめる。まるで谷底を伺うように、それぞれが上座の男、そのさらに後ろを見た。

 暗闇にとけ込むように黒衣を纏う青年が一人、奥に佇んでいた。

 法衣と同じ色の髪を後ろで束ね、前髪は顔の右半分を隠すほど長い。そこから覗く黒に近い赤茶の瞳にも、色素の薄い乳白色の肌にも、男にしてはずいぶんと整った小振りの細い顔にすら生気は感じられない。最初から居たのであろうが気配もなく、そこに在った、という言葉がふさわしいかもしれない。

 卓のどこからともなくひそりと「あれが死神か」という呟きが青年――レティセンシアの耳にも届く。言葉の裏に隠された怯えを感じとっても、彼は眉一つ動かさなかった。


「戴冠式までにアーノルド王子を殺せ」


「……御意に」


 絶対的な命令の声に、レティセンシアが軽く頭を垂れる。閉じられた瞳が何を思うのかは伺い知れず、ただ静かに承諾の言葉を述べた。透き通ったテノールの声は張りつめた空気をわずか揺らし、瞬く間に消え失せる。


「正義は神と共に、全ては導きである……神の国が近いこと、忘れるでないぞ」


 男が口元に深い笑みを浮かべた。まるで全ての罪を許す神のような笑みに、卓の幾人かが震えた事実には誰も気づいていない。

 思惑の渦巻く室内にも鐘の音が届いた。公国のシンボルたるイヴェール城と教皇庁それぞれの鐘が梟の子守歌を一時かき消し、宵闇の空が厚い漆黒の雲で覆っていく。

 何事も無かったかのように誰一人喋らず、誰とも目を合わせず、粛々と己の住処へ帰っていく。唯一最後まで残った黒い影が動いたのは、全員が教皇庁から出た後のこと。

 バルデュワン公国の二代目国王レイモンド=アーデン=エルフィンストンが急死してからおよそ半年の月日が経つ。その死に付きまとう謎はうっすらと忘却され始め、民は新たなる国王誕生を指折り数え始めていた。

 新王の戴冠式まであと七日。

 日の始まりを告げる鐘の音が、バルデュワン中に響き渡った。



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