032 ②
「クヒヒッ。さいっこーですわ。これほど強い敵と戦えるなんて、興奮を抑えきれる自信がありません。ごめんなさい」
と、愉悦に満ちた声音で言ったのは、闇の魔鎧を纏ったラプラスだった。
その手には闇の魔剣が握らており、彼女が魔力砲を放ったのだ。
精霊の加護で護られ、炎への耐性が高いドロロにも多少のダメージを負わせる程の魔力砲が直撃したにも拘わらず、黒山羊の悪魔は樹角を除いて殆ど無傷である。
黒山羊の頭から双角のように生えている黒い樹の角は、鋼鉄以上の硬度こそあるが、見た目通り樹で出来ており、炎が弱点なのだ。
樹角を燃やす程の魔力が込められた爆炎を放つラプラスの出現に、黒山羊の悪魔は警戒を強める。
『危険な人間がもう一人いたとは、驚いた』
と、黒山羊の悪魔はラプラスを見詰めながら言った。
「いいや、更にもう一人だ!」
と、悪魔の背後で揺れる爆炎の中から、突如男の声が聴こえてきた。
声に反応した黒山羊の悪魔が振り返るよりも速く、ドロロが爆炎の中から飛び出し、炎を帯びた左腕を撃ち出す。
彼の拳が悪魔の腹を捉え、黒山羊の悪魔の胴体はくの字に折れ曲がり、轟音と共に一直線に吹き飛んでいく。
黒山羊の悪魔は中空で体を捻り、足で地面を削って勢いを殺すと、倒れそうになった体をグッと堪える。
「おいおい、今の一発を受けて倒れないのかよ」
と、ドロロは驚愕の表情を浮かべた。
『あぁ……いやぁ、今のは効いた。咄嗟に腹に力を込めていなかった、内臓の一つか二つが破裂していたよ。こいつもまた恐ろしい人間だ』
と、黒山羊の悪魔は腹部に残る炎を手で払いながら言った。
――何故、二人が此処に?
と、バグが怪訝な表情を浮かべたが、即座にゼフィール皇帝がラプラスとドロロを解放したのだと理解する。
バグは手足を動かし、まだ体が動くのを確認した。筋肉が動く度に激痛に襲われるが、既に慣れてしまい、痛みに顔を歪めることは無い。
「バグって言ったか? お前はもう休んでいろ。この山羊の悪魔は俺が殺す」
と、ドロロはバグの前に立ち、黒山羊の悪魔と対峙した。
「いいえ、貴方も休んでいて構いませんよ? 私があの悪魔と戦いますから」
と、ラプラスは張り合うように言うと、同じようにバグの前に立つ。
二人の後姿を見詰め、バグは鼻で笑う。
「手助け無用だ。俺はまだ戦える」
と、彼は言うと二人の間を抜け、黒山羊の悪魔に向かって歩き出した。
『……三人の危険な人間。これは私も想定外だ』
と、黒山羊の悪魔は淡々とした声音で呟くと、言葉を続ける。
『だが、それでも私の方が強い。舐めるなよ人間共』
と、殺気に満ちた重い声音で言い放った。
燃えた樹角を再生させると、分裂させ、大樹のように伸ばし広げた。
百を超える樹角の鞭を撃ち出そうとした瞬間、ラプラスの魔剣から魔力砲が放たれ、黒山羊の悪魔諸共に樹角を爆炎が呑み込んだ。その爆炎は樹角を一瞬で燃やし尽くす。
「させないわ。その頭に生やした樹は良く燃えるみたいね」
と、ラプラスは言った。
炎と煙に包まれた黒山羊の悪魔は少し苦しそうに四つの目を細め、脳裏で言葉を走らせる。
――厄介だな。声からして女の人間と思われるが、鎧騎士の桁外れな魔力から放たれる魔力爆発と、炎を帯びた左腕を持つ男の人間。どちらも私と相性が悪い『炎』を使う人間か。男の左腕に帯びた炎は、おそらく精霊の炎か。しかも、上位精霊の……いや、最上位の精霊を宿しているようだ。精霊の炎には対魔の効果があると聞く。あの炎を受け続けるのは危険だ。
炎と煙が晴れると、三人の死刑囚と黒山羊の悪魔が対峙する。
バグは全身が血に塗れていながらも、薄紅色の瞳には禍々しい殺気を宿している。
ドロロの淡い金色の瞳には、誰よりも強く荒々しい力が込められている。
闇の魔鎧の隙間から夥しい魔力を噴き出し、兜の中で不気味に笑っているラプラスは、早く戦いたくてウズウズと体を動かしている。
ジッと睨み合う中で最初に動き出したのは、黒山羊の悪魔だった。
炎と煙が晴れる前、体の陰に隠した樹角を地中へ潜らせ、一帯に無数の樹角の根を張り巡らせていた。
そして、その樹角を槍の如く地上に突き出そうとした瞬間、ラプラスが闇の魔剣を足元に突き刺した。
「隠しているつもり?」
そう言った彼女は、地中に張り巡った樹角の根よりも更に広範囲に魔力を流し込む。
赤く光る大地が焼けるような熱気を放つと、一帯を呑み込む大爆発が起きた。地中に張り巡る樹角を根こそぎ燃やし、大地を灰燼と化し、全てを破壊する。
黒山羊の悪魔を呑み込んだ火柱は上空まで高く昇り、帝都に高熱の爆風が吹き荒れる。
爆炎の花が咲き、そして散っていく。炎と煙の中では魔鎧を纏うラプラスと、樹角を失った黒山羊の悪魔が激しい剣戟を繰り広げていた。
闇の魔剣と白銀の聖剣が無数の火花を散らす。
剣を交えながら黒山羊の悪魔は思考を巡らせる。
――樹角を使った攻撃は全て無力化されるか。まあいい。そもそも樹角は武器の一つでしかない。それに、そろそろ体を思い切り動かしたいと思っていた。
『よかったのか? 仲間諸共燃やしてしまって』
と、黒山羊の悪魔は魔剣を防ぎながら言った。
ラプラスはフッと小さく笑うと、魔剣を振りながら口を開く。
「仲間ではありませんし、構いません。それに――」
と、彼女が言い切るよりも前に、黒山羊の悪魔の背後に舞い上がる炎と煙の中からドロロが現れた。
荒々しく燃え上がる精霊の炎を纏った左腕を撃ち出す。はち切れんばかりに隆起した左腕が吸い込まれるように黒山羊の悪魔の胸に迫る。
「燃えるのはお前だけだよ」
と、ドロロは言った。
――左腕の炎が更に大きくなっている? これは避けられないな。
と、焦りを覚えた黒山羊の悪魔は胸中で言葉を走らせた。
咄嗟に振り返り、聖剣で炎の拳を受け止めるが、腕の骨が軋む程の衝撃と炎が襲い、体を吹き飛ばされる。
炎の中から吹き飛ばされ、外へ飛び出した黒山羊の悪魔は足で地面を削り、勢いを殺す。
全身に残る炎を払おうとした時、背後から迫る『影』の気配を感じ、首を振り返らせる。
すぐ背後に迫っていたバグが小太刀を振り、黒山羊の首を狙っていた。
間一髪で体を反らし、小太刀を躱すと同時に聖剣を振り下ろす。
バグは聖剣を握る悪魔の右手首を左腕で受け止めると、小太刀が黒山羊の悪魔の脇腹を斬り裂く。
『――ッ!』
黒山羊の悪魔は痛みに襲われ、四つの瞳を細めた。
黒い樹角を再生すると、懐に潜り込んだバグを目掛けて樹角を槍の様に伸ばす。
その時、炎と煙の中から放たれた魔力砲が黒山羊の悪魔を目掛けて一直線に迫る。
樹角を止め、跳び退くことで魔力砲を紙一重で躱す。同時にバグも跳び退いて魔力砲の巻き添えを免れる。
遠く離れた場所で家屋に直撃した魔力砲は爆発し、帝都の一部を焼く。
炎と煙が晴れると魔力砲を放ったラプラスとドロロが姿を現す。
すると、バグはラプラスを横目に睨む。
「さっきの大爆発と言い、俺ごと焼き殺すつもりだった」
と、バグは怪訝な瞳を向けた。
「この程度で死ぬくらいなら、黒山羊の悪魔には勝てませんよ。それに、私だけで十分ですから。お二人がいてもいなくても関係ありません」
と、ラプラスは言い返した。
「お前こそ邪魔だ。俺は皇女を手に入れる為に一体でも多く悪魔を殺さなきゃいけない。だから、横取りするな」
と、彼女の横に立つドロロは淡い金色の瞳に敵意を滲ませながら言った。
ラプラスはクスリと笑う。
「精々頑張ってください。ですが、前みたいにユーリスを不正に奪おうとしたら、私が貴方を殺します。例え地の果てまで逃げても、追い駆けて必ず殺しますので、肝に銘じて下さいね」
と、彼女は兜のスリットから殺気に満ちた碧い瞳を覗かせた。
ドロロは鼻で笑い飛ばすと、
「はいはい、分かってますよ」
と、軽薄な声音で返事をした。
『人間共。何を勘違いしているか知らないが、私の前から生きて帰れると思うなよ』
と、黒山羊の悪魔は四つの紅い瞳を鋭く睨ませて言った。
黒山羊の悪魔は体から夥しい魔力を噴き出すと、全身の筋骨が隆起していく。
そして、無数に伸ばした樹角を自らの体に隙間なく巻き付けた。さながら黒い樹で出来た鎧のようだ。
樹角の兜の隙間から四つの紅い瞳を不気味に覗かせる。
筋骨が隆起し、一回り大きくなった体躯に黒い樹の鎧を纏った黒山羊の悪魔は倍近い大きさに変貌した。
それに合わせるように聖剣も大きさを変え、白銀の大剣と化した。これも聖剣の能力である。
悠々と三人の死刑囚を見下ろす黒山羊の悪魔は威圧感だけではなく、全身に帯びている魔力が増している。噴き出す魔力は、まるで暴風のように吹き荒れる。
ふと、気付くと曇天から降り注ぐ雨が勢いを増していた。
放たれる殺気がピリピリと肌を刺す。三人の死刑囚は口論を止め、目の前の悪魔に意識と視線を向ける。
黒山羊の悪魔が遂に本気を出し始めたのだと察し、無意識に身構えた。
すると、巨大化した黒山羊の悪魔は残像を走らせ、一瞬でラプラスの眼前に迫る。その巨大な体躯から振り払われた聖剣は避ける間も無く彼女を捉える。
咄嗟に魔剣を構え、巨大な聖剣を受け止めた。しかし、闇の刀身は一撃で砕け、魔鎧を纏ったラプラスの胸部を打つ。
魔鎧が砕ける轟音と共に吹き飛ばされ、一瞬で姿が見えなくなると、遠くの家屋を破壊していく。
透かさず、黒山羊の悪魔は左腕を振り、傍に立っているドロロを拳が捉える。
黒山羊の悪魔が放った巨拳を左腕で受け止めたドロロは、一直線に吹き飛んでいく。ラプラスと同様に遠く離れた家屋を突き破り、次々と破壊していく。
振り返った黒山羊の悪魔は聖剣を振り被ると、最後に残ったバグに巨大な刀身を振り下ろす。
「……さっきより少し遅いな」
と、口にしたバグは最小限の足捌きで斬撃を躱した。
ゆらりと体を揺らすと踏み出し、小太刀を突き出す。
『お前の力では私の鎧は貫けな――』
と、黒山羊の悪魔が言葉を言い終えるよりも早く、バグの小太刀が胸を突き刺した。
『何故――』
と、言葉を詰まらせたが、即座に理解する。
樹角の鎧の僅かな隙間を狙って突き刺したのだ。
――間近で見なくては分からないような僅かな繋ぎ目の隙間に、正確に刃を刺し込んだのか。しかも、あの一瞬でそこまで見抜いたのだとすれば、恐ろしい動体視力だ。
と、黒山羊の悪魔は思考を巡らせた。
完全に不意を突いた一撃だった。しかし、隆起した筋肉に阻まれ心臓までは届いていない。
全身を覆う樹角の鎧から、黒い棘が無数に突き出し、バグを蜂の巣にしようとする。
小太刀を引き抜き、跳び退いて棘を躱すと大きく距離を取る。
黒山羊の悪魔は思う。
――やはり、侮れないな。早く勝負を決めなくては。
そう思考を巡らせていると、突如背後から二つの強大な魔力の気配を感じ、黒山羊の首を振り返らせる。
『……あれは一体』
と、怪訝な瞳を浮かべた黒山羊の悪魔は声を漏らした。
ラプラスとドロロを遠く吹き飛ばした場所に出現した巨大な魔鎧人形と、帝都の壁よりも高く燃え上がる黒い炎。
距離が離れているにも拘わらず、ズシリと重い魔力の波動が黒山羊の悪魔に届く。
そして、姿を見せたのは全身に黒炎を帯びたドロロと、巨大な魔鎧人形を纏ったラプラス。
二人は黒山羊の悪魔に向かって歩を進める。
遂に、死刑囚と黒山羊の悪魔が互いに本気を出した。
ようやく、本当の戦いが始まろうとしている。
その意味を全員が理解している。これで決着が付くのだと。
囲むようにして立つ三人の死刑囚は一斉に駆け出した。
『……さあ、かかってこい』
と、言った黒山羊の悪魔は全身に力を込めて筋肉を怒らせると、三人を迎え撃つ。
そして、帝国の存亡を賭けた戦いが始まる。




