030 ①
030
黒山羊の悪魔が放った魔力の斬撃は、大爆発を起こし、帝都の門を吹き飛ばした。
その凄まじい爆発から放たれた熱と爆風は壁の上にいたバグ達にも届いていた。
「ヒィッ!」
と、騎士の青年は何とも情けない声を上げ、尻もちをついた。
爆発の衝撃で大地が揺れ、壁がグラグラと揺れる。
黒山羊の悪魔の一撃で千を超える騎士が負傷したに違いない。それほどの威力だった。
門は破られ、悪魔達が帝都へ侵入していく。
黒山羊の悪魔も門を潜り、侵入を果たしてしまった。
バグは帝都側の胸壁に飛び移ると、すぐ真下を見下ろし、黒山羊の悪魔(レベル3)の姿を目で追う。
小太刀を握る手に僅かだが力が籠ると共に、彼から気配がスゥーと消えていく。
すぐそばでバグを見ている騎士の青年は、目の前にいるはずの彼の姿が何故かぼやけて見える。
へたり込むレイを殺そうと黒山羊の悪魔が聖剣を振り上げた、その瞬間にバグは飛び降りた。
敵を仕留める瞬間、必ず一瞬の隙が生まれる。勝利を確信した時、心に僅かな緩みが生まれるのだ。
それを待っていたバグは壁沿いに落下し、そして壁を蹴ると一瞬で黒山羊の悪魔(レベル3)の頭上に迫る。
「……誰か助けてくれ」
と、雨の音に混ざってレイが心の声を漏らした。
研ぎ澄まされた聴覚で、その声を聴いたバグはおもわず言う。
「だから、お前には無理だと言っただろ」
その声は雨音に掻き消され、聴こえるはずも無いのだが、レイはその声を確かに聴いた。
一瞬で頭上に迫ったバグは手に持つ小太刀で黒山羊の悪魔の首を捉える。
刃が首を斬り裂く寸前、黒山羊の悪魔は首を傾げ、刃の軌道からズレた。恐ろしい程の反応速度で刃を躱し、首が斬り落とされるのを間一髪で防がれ、バグは戦慄を覚える。
小太刀は首の肉を少しばかり削いだだけで致命傷とは言えない。
ぐるりと首を捻った黒山羊の悪魔は、バグの姿を視界に捉えると聖剣を振り下ろす。
咄嗟にバグは体を捻り、小太刀で聖剣を往なすと同時に足蹴を黒山羊の頭に撃ち込んだ。
しかし、完全に不意を突いた足蹴を軽々と片手で受け止めると脚首を掴んでバグを放り投げる。
凄まじい怪力で放り投げられた体を中空で回転させ、家屋の屋根に着地する。
それを見越していたかのように、黒山羊の悪魔はバグの頭上に迫り、魔力を帯びた聖剣を振り下ろした。
咄嗟に跳び退いたバグは、聖剣を躱す。
魔力を帯びた聖剣が振り下ろされた家屋は爆発し、一帯の家屋を爆炎が呑み込む。
その爆風に巻き込まれたバグは吹き飛ばされ、別の家屋の屋根に降り立つ。
舞い上がる爆煙をジッと見詰め、黒山羊の悪魔の姿が現れるのを待っていた。
『初めてだよ。危険だと思った人間に出会ったのは』
と、バグの背後から唐突に悪魔の声が聴こえてきた。
バグですら、背後に回られていたことに気付けなかった。
彼は驚愕のあまり目を丸くし、全身の神経を総動員して振り返る。
黒山羊の頭から枝分れした樹角が一瞬で伸び、バグの体を捉える。
黒い樹角の槍が彼の全身を貫いた。
かと思われたが、バグの体は影のように霧散する。樹枝の槍が貫いたのは残像だった。
バグの本体は、壊れた噴水がある広場にいた。
『……人間。お前は危険だ。数万の人間よりも、お前という一人の人間の方が遥かに危険だ』
と、黒山羊の悪魔は言った。
「奇遇だな。俺も同じことを思っていた」
と、バグは悪魔の姿を仰ぎながら言った。
黒山羊の悪魔は広場へ降り立ち、バグと対峙する。
悪魔の紅い瞳が彼の姿をジッと見詰めていると、徐に口を開く。
『手を抜いている余裕は無さそうだ』
と、言った黒山羊の悪魔の全身から魔力が荒れ狂うように噴き出す。
すると、その紅い瞳とは別に黒山羊の頭に二つの目がギョロリと出現し、四つの紅い瞳がバグを見詰める。
黒山羊の悪魔の魔力を目の当たりにしたバグは大きく溜息を吐くと、
「……全速力を出すのは嫌なんだ。全身の骨が砕けるから」
と、気怠そうな声音で言った。
そうは言ったが、バグは全身から夥しい魔力を放つ。嵐の如く魔力が吹き荒れる。
「だけど、これも主を生き返らせる為だ。主の為なら死んでもいいさ」
と、バグは言った。
そして、彼の全身の筋骨は膨張し、薄紅色の瞳に怪しい光が宿る。
両者が臨戦態勢に入った。
先に動いたのは黒山羊の悪魔である。
黒山羊の頭に生えている黒い樹角を伸ばし石畳を砕くと、一瞬で地中に無数の樹を這わせていく。無数に分裂した樹角は噴水広場を中心に、周囲一帯の地中から槍の如く突き出し、家屋諸共バグを襲う。
無数の黒い樹角の槍によって一帯の家屋や噴水を破壊し、帝都に黒い樹林を生む。
地中から現れるまで何処から襲って来るか分からない攻撃をバグは容易く躱し、突風の如き勢いで黒い樹林の間を駆け抜け、一瞬で悪魔の眼前に迫る。
全速力を出したバグの動きはまるで、瞬間移動をしたのかと思える程に異次元の速さだった。
褐色の肌を持つ彼が駆け抜けた場所には黒い残像が生まれ、黒い風が吹き抜けたかのようである。
それは、まるで『死神の足跡』のようだ。
『――ッ!』
想定外のバグの速さに不意を突かれた黒山羊の悪魔は、四つの紅い瞳に動揺が走った。
樹角を地中に這わせている所為でその場から動けない黒山羊の悪魔は即座に伸ばしていた樹角を戻す。
それはコンマ一秒にも見たない隙だったが、バグにとっては十分過ぎる時間である。
薄紅色の瞳を光らせ、魔力を帯びた小太刀を黒山羊の首を目掛けて走らせる。
咄嗟に黒山羊の悪魔は聖剣を盾にし、バグの小太刀を受け止めた。
ガキィーンと、凄まじい金属音が大気を震わせた。
『速さだけではなく、力も上がっているという訳か。やはり、恐ろしい人間だ』
と、黒山羊の悪魔は冷静な声音で言った。
小太刀の一撃を防がれたバグは勢いそのままに黒山羊の悪魔の脇を抜け、背後に回った。
透かさず、悪魔が振り返る前に追撃を仕掛けようと脚の筋肉を膨らませた時、鞭のように撓った黒い樹角の一本がバグの頭上から振り下ろされる。
体を捻り、紙一重で躱す。空を斬った樹角は石畳を粉砕し、その下の大地は深く抉れた。砲弾でも落ちたのかと思えるような衝撃音が響き、足元が揺れる。
踏み込めば死ぬと察したバグは跳び退き、黒山羊の悪魔と距離を取る。
地中を這っていた樹角は元に戻っていた。無数に分裂した樹角は宙に浮き、ウネウネと蠢いている。黒い双角は、樹のように見えるがその重量と硬度は鋼鉄以上であり、直撃すれば肉は裂け、骨は砕けるだろう。
黒山羊の頭から生えている、百を超える黒い樹角を自由自在に操り、全てを破壊するのが黒山羊の悪魔の戦い方なのだ。
かなり厄介と言える。一撃で家屋を破壊し、鋼鉄以上の硬度を持ちながら鞭のように放たれる攻撃はバグの動体視力を持ってしても完全には捉えきれていない。
容易に踏み込めば一瞬で肉片と化すだろう。
『人間。さっきの一撃で仕留められなかったのを後悔させてやる』
と、黒山羊の悪魔は言った。
ふと、バグは百を超える樹角を仰ぎ、その樹角が帯びている禍々しい魔力が膨れ上がったのを見逃さなかった。
百を超える樹角が一斉に薙ぎ払われ、無数の鞭となり、バグに襲い掛かる。
彼は咄嗟に駆け出し、樹角の鞭を躱す。
しかし、一本を躱したところで、残る百本を超える樹角の鞭が次々とバグを殺さんと襲い掛かってくる。
バグは足を止めず、黒山羊の悪魔の周囲を駆け回ることで樹角による打擲を紙一重で躱し続ける。
悪魔の四つの紅い瞳が全方位を捉え、いくらバグが超高速で動き回っても正確無比に樹角の鞭を打ち込む。
黒山羊の悪魔が放つ百を超える樹角の鞭は、半径五十メートル超の周囲一帯を粉砕し、噴水や家屋の瓦礫が木端微塵と化していく。無差別にも思える打擲は一撃一撃がバグを狙うだけではなく、彼の行動を数手読んだ上で先回りした場所に樹角の鞭を撃ち放っているのだ。
バグは一度の行動に数回のフェイントを入れ、黒山羊の悪魔の予想を乱しているが、それでも躱し切れない攻撃を小太刀で往なし、紙一重で避ける。
バグと黒山羊の悪魔の遣り取りは、常軌を絶する超高速で行われ、常人では残像すら視認出来ず、悪魔の周囲で無数の衝撃波と火花が生まれているようにしか見えない。
一秒にも満たない一瞬で樹角の鞭による百を超える打擲が放たれ、その衝撃波が降り注ぐ雨を吹き飛ばしていく。
黒山羊の悪魔が放つ攻撃は凄まじく速い。十秒余りの時間で千を超える打擲が放たれ、その攻撃を躱し続けるバグも速さという点では互角である。
しかし、怪物揃いの死刑囚の中で最速を誇るバグの脚を以てしても、全てを躱すことは出来ていなかった。
既に数千を超える攻撃と回避の遣り取りが行われ、躱し切れなかった樹角の鞭がバグの肉を削ぎ、褐色肌の全身に幾つもの赤い傷が走っている。
防戦一方に見えるバグも無抵抗に攻撃を受けている訳では無かった。
無数の攻撃を躱し、針の穴よりも細い隙に身を潜り込ませると黒い疾風が駆ける。その黒い疾風は一瞬で距離を詰めると黒山羊の悪魔の首を小太刀の斬撃が襲う。
咄嗟に聖剣で小太刀を弾き、バグの攻撃を往なした。
攻撃を防がれたバグは黒い残像を走らせ、黒山羊の悪魔の脇を駆け抜けていく。彼の背後を無数の黒い樹角が襲う。だが、即座に最高速まで脚を走らせた彼の背後を捉えることは出来ない。
再び、百を超える樹角の鞭を躱し続け、千を超える攻撃を躱した頃にバグは一瞬の隙に悪魔の首を目掛けて小太刀を走らせる。その度に聖剣で防がれ、仕留めるには至っていない。
黒山羊の悪魔が放つ数千の攻撃を躱し、一瞬にも満たない隙にバグが一撃を滑り込ませる。
そんな異次元の戦闘が繰り返し行われてから既に五分が過ぎていた。
樹角の鞭による攻撃は数万を超え、周囲一帯の瓦礫を粉砕し、跡形も無くなっている。
激しさを増す戦闘音は帝都中に響き、民衆達は耳を傾けていた。皇城に籠っているゼフィール皇帝は玉座がある大広間の窓から帝都の戦況をジッと見詰めていた。




