028
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戦争の火蓋が切られたのは、唐突だった。
騎士の青年が小太刀を持って壁の上に登り終えると同時に、黒山羊の悪魔の咆哮が帝都を呑み込んだ。
鼓膜が痛む程の咆哮に、五万の騎士が耳を塞ぐ。
咆哮を合図に、黒山羊の悪魔を除く三千の悪魔が一斉に突貫してくる。
胸壁から顔を出し、その悍ましい光景を見た騎士の青年は、戦慄する。
「戦争が始まった」
と、騎士の青年はポツリと呟いた。
帝都の中では、多くの民衆が壁の外から聴こえてくる戦争の音に耳を傾けていた。
遂に、戦争の火蓋が切られ、始まったのだと分かると、祈るように壁を見詰める。
逃げようとする者は一人もいなかった。
例え、逃げたとしても帝国が滅びれば、どちらにしても生きてはいけない。
多くの民衆は、新たな『英雄』に希望を託し、帝都に残る道を選んだ。
バグは胸壁の上に立ち、戦争を傍観し続けている。
騎士の青年が持ってきた小太刀を受け取り、戦争に加わるのかと思われたが、悪魔と騎士が戦争を始めてもバグは一向に動く気配を見せない。
その姿に騎士の青年は首を傾げ、怪訝な表情を浮かべる。
「あ、あの。戦争に加わらないのですか?」
と、彼は思わず尋ねた。
バグが戦争に参加するからこそ、悪魔の軍勢に勝てる可能性が生まれるのだ。
つまり、バグが戦わなければ帝国に勝機は無い。もし、黒山羊の悪魔を前に彼が心変わりを起こしていたらと考え、騎士の青年は不安に駆られる。
不安そうに見上げてくる騎士の青年を一瞥するとバグは口を開く。
「……黒山羊の悪魔と正面から戦うのは危険過ぎる。奴が隙を見せた時に、一撃で仕留める。それまで気付かれる訳にはいかない」
と、戦争を傍観しながら言った。
「な、なるほど」
と、騎士の青年は頷いて見せたが、実際はあまり意図を掴めていない。
未だ丘の上から一歩も動き出さない黒山羊の悪魔を見遣るが、その禍々しい姿に隙という隙は一切見られない。そんな悪魔を一撃で仕留められるとは到底思えなかった。
帝国の騎士団は師団長と副師団長を中心に、悪魔の猛攻を辛うじて堪えているが、確実に押されている。
すると、唐突に騎士団の一部が崩れるように倒れていくと、悲鳴と血飛沫が上がる。
悪魔の軍勢から数体の中級悪魔が現れたのだ。中級悪魔が出現しただけで、戦況は一気に悪化し、騎士団は更に押され始める。
即座に数人の師団長と副師団長が中級悪魔と対峙し、どうにか食い止めるが、師団長クラスでは勝てる保証は無い。戦況の悪化は食い止められていない。
五万の騎士の中でも精鋭である聖騎士は五千を少し超える数しかいないのだ。しかも、騎士王を除いた聖騎士の英雄『十騎士』が不在である。
戦力は悪魔が圧倒的に優勢。
そこに十騎士一人と同等以上の力を持つ中級悪魔が数体。
まさに絶望的な戦況に陥っている時、黒山羊の悪魔が遂に動き出した。
黒山羊の悪魔が一歩、踏み出した瞬間、戦場の空気がズシリと重くなる。
中級悪魔を遥かに上回る魔力が戦場を呑み込み、その魔力の重さに中てられた騎士達の視線が黒山羊の悪魔に集まる。
皆の視線が向けられた瞬間、地中から無数の黒い木が突き出し、数百人の騎士の体を槍のように貫いた。
何が起きたのか理解できず、騎士団に動揺が走る。
一瞬で数百人を殺せるのは黒山羊の悪魔を除いて他にはいない。
想像を遥かに超える力に騎士団の士気は一瞬で奪われた。
その一撃を皮切りに、崩れるように騎士団は押され、悪魔の軍勢は帝都の門に迫ってくる。
騎士の青年は胸壁から身を乗り出し、
「……何が起きたんでしょうか。突然、黒い木が生えて串刺しに」
と、彼は呆然とした様子で言った。
胸壁の上に立ち尽くすバグは黒山羊の悪魔をジッと見詰め、口を閉ざしている。
薄紅色に瞳は、黒山羊の悪魔の挙動一つ一つを見逃しまいと凄まじく集中していた。
雨が降り、視界が悪い中、バグだけは何が起きたのか見えていた。
黒山羊の頭から伸ばした双角を足元から潜らせ、地中から突き出したのだ。
頭から双角のように生えているのは魔力を帯びた黒い樹枝。その自由自在に伸縮と分裂が可能な樹角が黒山羊の悪魔の能力であるのは間違いない。
数百人の騎士を串刺しにした無数の黒い木は地中に戻り、黒山羊の悪魔の頭へ戻っていく。
再び歩き出した黒山羊の悪魔は、右手に白銀の聖剣を握り、全身を禍々しい魔力が覆う。
その禍々しい気配に皆の意識が奪われた瞬間、黒山羊の悪魔の姿は一瞬で消え、騎士の陣地の中央に姿を現す。
突如、帝国陣地のど真ん中に出現した黒山羊の悪魔に慄き、騎士達は慌てて身構える。
悪魔は右手に握った白銀の聖剣を横薙ぎに振り払うと、周囲の騎士達の胴体が吹き飛んだ。
噴き上がる鮮血が雨と混ざり、一帯の大地を赤く染めていく。
騎士達から阿鼻叫喚の声が上がる。
黒山羊の悪魔は樹角を伸ばし、無数に分裂させる。そして、無数の黒い樹枝を鞭のように払うと次々と騎士達の体を斬り裂き、一瞬で肉片と化していく。
瞬く間に、千を超える騎士が殺され、まるで白い液体に一滴の黒い墨を垂らしたように帝国の陣地にポッカリと穴が開いていく。
「あ、あの! これ不味くないですか!?」
と、壁の上から戦況を見下ろしていた騎士の青年は、胸壁に立つバグに言った。
バグは口を閉ざし、何も答えようとはしない。
その間も騎士達が殺されていくの見て、騎士の青年は表情に焦燥を滲ませる。
「貴方しか、黒山羊の悪魔を止められないんです! お願いします! 助けて下さい!」
と、彼は懇願した。
それでもバグは動こうとはしない。
ただ一言だけ口を開く。
「まだ早い」
と、バグは黒山羊の悪魔が隙を見せる瞬間を狙っているのだ。
例え、それまでに何千人、何万人の命が奪われようと動くつもりは無かった。
飽く迄も、死刑囚と皇帝が交わした条件は『悪魔を討ち滅ぼす』であり、騎士の助命ではない。自らの身を危機に晒してまで騎士達を救うつもりは無いのだ。
新たな英雄バグが黒山羊の悪魔を倒してくれると、騎士達は信じて戦っているはず。
だが、彼は一向に姿を現さない。
何故、助けに来てくれないのか、と騎士達は疑心と絶望に苛まれていた。
その時だった。白銀の鎧を纏った隻腕の聖騎士が黒山羊の悪魔の樹角を剣で弾き、襲い掛かる。
聖騎士の剣は軽々と聖剣で防がれ、弾き返された。
「その聖剣は私のだ!」
と、叫び声を上げたのは帝国最強の聖騎士、レイ・ルルシオンだった。
彼は右肩から溢れ出す魔素を固め、黒い毛皮に覆われた獣の右腕を生成する。そして、両手で剣を握ると、剣戟の嵐を黒山羊の悪魔に浴びせる。
全ての斬撃を聖剣で往なすと、鞭のように撓らせた樹角がレイの胴体を襲う。
レイは咄嗟に構えた剣で樹角を受け止め、胴体に直撃するのを防いだ。しかし、その樹角の鞭からは想像も出来ない力で容易く吹き飛ばされる。
雨に濡れた地面を転がり、透かさず起き上がる。
『その顔は憶えている。人間の中でも少しばかりしぶとかったからな。だが、お前は確か……殺したはず』
と、黒山羊の悪魔は唐突に話しかけてきた。
他の低級悪魔や中級悪魔と比べ、淀みない言葉で話しかけてきた。
「……どうでもいいです。私はお前を殺し、聖剣と共に奪われたものを取り戻せれば、それでいい」
と、レイは殺意に満ちた瞳を向けた。
――活動限界は十分。それまでに仕留める。
レイは再び駆け出し、黒山羊の悪魔に襲い迫る。両者の間には無数の剣戟と火花が散る。
雨音に混ざって激しい剣戟音が戦場に響き渡り、その戦闘を騎士達は呆然と見詰めることしか出来なかった。
騎士王であるレイが来てくれた喜びと期待の声が騎士達から上がると共に、彼らの表情には一抹の不安に表れていた。
騎士王は英雄の中の英雄だが、黒山羊の悪魔に敗れ、右眼右腕を奪われている。それを知る騎士達の瞳は不安を宿している。
レイと黒山羊の悪魔の戦闘は激しさを増し、常人には視認することすら不可能だった。
その闘いを壁の上から見ていたバグは小さく溜息を吐いていた。
「……あの馬鹿。あれだけ力の差を見せても懲りていないとは。あいつは死にたいのか?」
と、バグは珍しく顔を顰めた。
「凄いです! ルルシオン騎士王が黒山羊の悪魔と互角に渡り合っています!」
と、騎士の青年が目を丸くして声を弾ませていた。
「……持って三十秒が限界だろうな」
と、呟いたバグの声は、雨音に掻き消され、誰にも聴こえることは無かった。




