017
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皇城の回廊を、腰まで伸びた金髪を揺らしながら歩くのは、死刑囚のラプラス。
本名はラプラス・アイン・シャーロット。皇帝の娘にして帝国第一皇女である。
使い慣れた城中を歩くのは十二年振りだが、大きな変化は無い。昔からある壁の傷は残っているし、窓や床はいつも通りに綺麗である。
生まれた時から暮らしてきた皇城の臭いがラプラスに懐かしさを感じさせる。
変わってしまったのはラプラス自身だった。
昨日の中級悪魔との戦闘で負傷し、顔や体のあちこちに包帯が巻かれている。普通なら安静にしていなければいけない程の傷だが、部屋を出て皇城を歩き回っていた。
ラプラスの後ろには二人の聖騎士が見張りとして同伴している。
彼女よりも年上の聖騎士の男が二人。名前は憶えていないが、彼女が聖騎士だった十二年前にも彼らは聖騎士だったのを憶えている。
皇城も彼らも変わっていないのに、ラプラスだけが変わってしまっている。
何だか、自分だけが取り残されたような気分である。
それでも、ラプラスは後悔も苦悩も感じない。
罪を犯し、死刑囚となったことで中級悪魔という強い敵と出会えたのだから。
むしろ喜ぶべきだと彼女は考えている。
「強い敵と戦わせてくれたお父様には感謝しなくてはいけないわね」
と、微笑んだラプラスは呟くように言った。
その言葉を後ろで聞いていた聖騎士達は顔を見合わせ、首を傾げた。
「中級悪魔があの強さなら、上級悪魔はどれだけ強いのかしら。早く戦ってみたいわ」
と、願うような素振りを見せたラプラスは大きな窓から遠くの空を仰ぎ、どこかにいる上級悪魔に気持ちを馳せる。
その美しい碧い瞳は、まるで恋焦がれる少女のような純粋な想いに満ちていた。
「ラプラスお姉様?」
と、不意に自分を呼ぶ声が聴こえ、首を振り返らせる。
回廊の先にはユーリス皇女が、困惑した表情を浮かべて立っていた。
亡くなったと思っていた姉と十二年振りに再会し、どうしたらいいのか分からないのだ。
逡巡するユーリスは何と声を掛けたらいいのか分からず、声を詰まらせてしまう。
それを見兼ねたのかラプラスは妹であるユーリスに近寄る。
困惑の表情を浮かべているユーリスの前で立ち止まったラプラスは柔らかい声音で言う。
「おはよう。大きくなったわね。もう……十九歳になったのかしら?」
「ぇ、はい。お早う御座います。はい、先月で十九歳になりました」
と、ユーリスはおぼつかない声で答えた。
緊張していたユーリスに対して、姉のラプラスは平然と挨拶をしてきた。
まるで、十二年前から変わっていないような会話にユーリスの緊張は弛緩していく。
ユーリスは思う。
――十二年前から変わっていない。優しかったお姉様は優しいままですね。
ユーリスにとって、姉であるラプラスは幼い時から憧れの存在だった。
聖騎士として強く凛々しいだけではなく、優しく甘えさせてくれる姉が大好きなのだ。
母親は物心が付く前に亡くなっている。父親である皇帝は優しく接してくれるがあまり思い出という思い出が無い。家族との記憶と言えば年の離れた姉であるラプラスとの楽しい思い出が殆どである。
その思い出も十二年前に止まっていた。
動き出すことは無いと思っていた姉との記憶が、唐突に動き出したのはユーリスにとっては僥倖であると共に困惑を覚えずにはいられなかった。
「そう。遅れたけど、お誕生日おめでとう」
と、微笑みながらラプラスは言った。
「有難う御座います。まさか、お姉様に祝って頂けるとは想像もしていませんでした。とても嬉しいです」
と、ユーリスは素直に喜んだ。
溢れ出そうな嬉しさを抑えようとするが、抑えきれない喜びが表情に出てしまい、照れた笑みを見せる。
「私が地下に幽閉されて、負担を掛けてしまったわね」
と、ラプラスは申し訳なさそうに言った。
「いえ、そんなことは……」
そんなことは無い。とは、言えなかった。
ラプラスの知らない十二年間に色々なことがあったのだ。
皇位継承権一位だったラプラスがいなくなり、皇位継承権は妹のユーリスに移ったこと。
皇帝になる為の勉強は苦ではなかったが、父親である皇帝を含めた皇族や貴族達が向けてくる期待がユーリスにとって大きな重圧となり、負担となっていたこと。
ラプラスが生きていたとはいえ、大罪を犯した彼女に皇位継承権が戻る可能性は無いだろう。
そんな中、大陸を侵略する悪魔の軍勢が現れ、帝国は瀕死の状況に陥っている。
民衆や貴族の不満は帝国に向き、皇帝を含めた皇族は苦しい立場となっているのだ。
負担はありません。と、見え見えの嘘は吐けなかった。
「お姉様。私はどうしたらいいのでしょうか」
ふと、気付いたらユーリスは弱音を吐いていた。
彼女自身も何故こんな相談をしてしまったのか分からない。帝国の象徴である皇女として、他人がいる前で弱音を吐くなど、普段の彼女であれば有り得ない行動だった。
おそらく、唯一心を開けるラプラスがいるから無意識に口から出てしまったのだ。
「……ああ、お父様が勝手にした約束のことね」
と、ラプラスはユーリスの相談の意図を理解した。
「……」
ユーリスはうんともすんとも反応は無かったが、その複雑な感情が彼女の表情に滲み出ていた。彼女の心は困惑と苦悩に埋め尽くされており、誰にも相談出来なかった所に姉のラプラスが現れ、つい相談してしまったのだ。
このような相談をするつもりは無かったのに、姉の優しい言葉がユーリスの張り詰めていた心を弛緩させたのだろう。
「お父様は相変わらずね。十二年前から変わってないわ」
と、ラプラスは呆れたような声音で言った。
「いえ、私の身を差し出すだけで、多くの人々を救えるのでしたら構わないのです。私の力では悪魔から皆を護ることは出来ませんから。ですが、これからお父様とどのように接したら良いのか分からないのです」
実の父親に死刑囚の一人、ドロロに見返りとして差し出されたことは辛かった。しかし、それ以上に嫌だったのは、辛そうに決断した父親――皇帝の姿だった。
帝国と民衆を護る為に、娘であるユーリスを差し出す決断をしたゼフィールは、娘と会うのが辛くなってしまったのだという。会っても、一言挨拶を交わすだけで避けるように立ち去っていくのだ。
ユーリスが許していても、姿を見せるだけで父親を苦しめてしまうのが何より耐え難いと感じている。どのように父親と接したら良いのか分からなくなってしまったという訳だ。
「昔から、ユーリスは優し過ぎるのよ。相変わらずね」
と、ラプラスは薄ら嬉しそうに言った。
――お姉様こそ変わっていませんよ。
と、ユーリスは胸中で思うだけで口には出さなかった。
「お父様は良き皇帝であろうと真摯に努めているけれど、愚かな皇帝でもあるのよ」
と、ラプラスは皇帝のことを話し始めた。
その表情は父親であるゼフィールを憐れむ感情に覆われていた。
「帝国と民衆を想うあまりに、自分を犠牲にするの。周りばかりに目を向けて、自分の手元にある者を蔑ろにしてしまうのは悪い所よね」
と、ラプラスは言った。
ユーリスは首を横に小さく振ると言う。
「そんなことは無いはずです。それに、死刑になるはずだったお姉様を匿ったのはお父様ですよ」
こんな状況になっても父親を庇うユーリスを憐れに思ったラプラスは言う。
「十二年間、地下に幽閉されていたけれど、お父様が私に会いに来たことは一度も無かった。私は、こういう有事の際のために『保管』されていただけに過ぎないのよ」
ラプラスはゼフィールが隠していた秘密兵器に過ぎないのだ。
十二年前からゼフィールはラプラスに優しさを向けたことは無かった。
「優しさは有限なの。誰かに優しさを向ければ、優しさを向けられなかった者は傷付く。優しいだけでは皆を護れない。お父様は、優しいだけの愚かな皇帝よ」
と、ラプラスは言った。
二人の聖騎士が聴いているのを意に介さず、皇帝を愚か者扱いした。二人の聖騎士は他の誰かに聴かれていないか周囲を探るような素振りを見せる。
「……優しいだけでは、いけないんですか?」
と、ユーリスは俯きながら弱々しい声音で尋ねた。
ラプラスは厳しくも優しい声音で諭すように言う。
「ええ、そうよ。誰かを護りたいなら、『優しさ』だけではなく『強さ』も求めなさい」
もし帝国が強ければ、死刑囚に頼らず悪魔の軍勢を倒せていた。そうすれば、ユーリスもゼフィールも傷付かずに済んだに違いない。
ラプラスの言葉を胸中で反芻させ、意味を理解したユーリスは、少し腑に落ちた。それに、今まで気付けなかった父親の一面を知ることが出来たのは素直に嬉しかった。
「お父様の性格は理解出来ましたが、やはり顔を合わせ辛いのです」
と、ユーリスが最も悩んでいることを再度相談する。
詰まる所、『父親と気まずい雰囲気になっているから、どうにかしたい』ということなのだが、それに対するラプラスの回答は、
「一発殴ればスッキリするわよ」
と言う突拍子も無いものだった。
あまりに可笑しな対処方法にユーリスは思わずクスクスと笑ってしまう。
「……何が面白いの?」
と、ラプラスは目を丸くして首を傾げた。
「お姉様に相談して正解でした」
と、ユーリスは微笑みながら言った。
思い悩んだ顔をしていた妹を笑顔に出来たなら、まぁいいか、とラプラスは自分を納得させる。
ユーリスの笑顔を見ていると、ラプラスも釣られて微笑んでしまう。
妹と居る時だけ戦いのことを忘れてしまうのは何故だろう、と疑問に思っているとユーリスがお願いをしてくる。
「もし、ご迷惑でなければ、お願いがあるのですが」
と、恥ずかしがるような素振りを見せながら言ってきた。
「お願い?」
「はい。幼かった頃して頂いたみたいに、私を抱き締めて欲しい……です」
と、頬を薄く赤らめてお願いを口にしたユーリスは、まるで母親に甘える子供ようだった。
そのお願いに答えるよりも早く、ラプラスは妹を抱き締めた。
まだ心の準備が出来ていなかったユーリスは不意の抱擁に「ひゃっ!」と可愛らしい声を上げてしまった。
聖騎士に見られていることすら忘れて、姉の――ラプラスの――腕の中に顔を埋める。
懐かしい匂いがする。
ラプラスの匂いに混ざって、鉄の香りがする。
「お姉様からはいつも鉄の香りがします」
と、胸の中でユーリスは言った。
この鉄の香りは剣と血の香りであることは理解している。多くの血を浴びている所為だ。
しかし、それはラプラスが誰かの為に戦っている証でもあり、ユーリスは鉄の香りが嫌いではなかった。
幼いころから変わらない匂いと、ラプラスの温かさに包まれ、心が安らぐのを感じる。
「……これで満足?」
と、抱き締めたままユーリスの耳元で囁いた。
んー、と悩むような声を漏らすユーリスは甘えた子猫のような声音で言う。
「頭も撫でて欲しいです」
と、ユーリスが言うとラプラスは無言で微笑み、金髪に覆われた小さな頭を優しく撫でた。




