◆ 「集団創作小説」投稿用スレ 最終話/アイアン
20【8話/アイアン】0322
彼は車をあの映画館の場所へと走らせていた。十年間放り出していた問題に今になって向き合う気になったのは彼女が市役所から婚姻届を取って来たからだった。彼はサインをしなかった。少なくとも今はまだ。目を背けて来たものと決着をつける必要がある。彼はそう感じていた。
彼の意識が向いている先は助手席の彼女が七割、運転が二割で一割が十年前の少女の事だった。彼女に意識が向いているのは彼女を心配しての事だった。彼女はショックを受けている。そして不安になっている。
「君との結婚が嫌だってわけじゃない」彼は言った。「だけど僕にも気持ちの整理が必要なんだ。君との結婚は考えてはいた。だけど踏ん切りがつかない。ある種の後ろめたさがあるんだ」
彼女は不安そうな眼差しを送った。彼女がここまで弱るのは珍しい事だった。いつもなら皮肉や軽口を返すはずなのに今回に限っては黙っているだけだった。
「話したいことがあるなら話して」彼女は言った。「私たちってそういう関係だったはずよ」
彼女が過去形を使ったことに彼は彼女の強い意志を感じ取った。そして自分が不誠実な人間に思えた。彼女に話さなくてはならない。たとえそれで彼女に嫌われたり、正気を疑われたりしても。今のままでは彼女の不信を買うだけだ。彼は腹をくくった。
「いつか話さないとと思ってたんだ。ちゃんと話すよ。だけど相当ぶっ飛んでる話なんだ」
「あなたのぶっ飛んだ話は好きだけど本当の話?」
「本当の話だ。信じてもらうしかない。車を停めてもいい?」
「ええ」
彼は車をコンビニの駐車場へと乗り入れた。駐車場は田舎のコンビニの例に洩れず面積が店舗の五倍はあった。彼はエンジンを切った。沈黙が息苦しかった。
「コーヒーでも買ってこようか?」彼女は言った。
「ああ、お願い」
彼女は財布をジーンズのポケットに入れると車を降りた。彼女はすぐに戻って来た。彼女はシートに座ると彼にコーヒーを渡した。彼はコーヒーに口を付けるだけでしばらく黙っていた。そして彼女の目をしっかりと見据えた。
「クラスメイトに取られた筆箱を取りに行ったのが始まりだった」
彼は語り始めた。そして語り終えた。
「その話、信じてもいいの?」
しばらくすると彼女が訊いた。彼女らしくない質問だった。
「信じても信じなくても、事実だ」
彼はそんな事を言う自分が心底嫌になった。
「その日以来――女の子と別れてから映画館には行ったの?」
彼は頭を振った。「一度も」
「いまさら行ったからって何か変わるとは思えない。空地になっているか別の建物があるだけ。それでも行くの?」
彼は安心した。いつもの彼女らしい、刺々しくも優しい話し方だった。
「それでも行く。僕の中じゃあの映画館はまだ立ったままなんだ。しっかりと腑に落とす必要がある」
「男のけじめね」
彼は車を道路に出すと再び映画館へと向かった。
21【8話/アイアン】0322
彼は雑木林の間にある轍の付いた砂利道を進んでいた。彼は辺りを見回した。あのころは歩いて、今は車でという違いがあるものの、十年前と変わらない景色を見るとタイムスリップをしたような気分になった。両側の林が退くと彼の目に雑草がぽつぽつと生えた空地が飛び込んできた。アクセルペダルにかけた力が抜けていった。車はそのまま惰性で進むと停止した。
その空地に映画館の跡形は一つもなかった。ただ灰色の石コロの間から草が顔を出しているだけだった。彼は一瞬道を間違えたのではと思って辺りを見回した。だがここは紛れもなくあの映画館があった場所だった。
「ここなの?」彼女が言った。
「多分」そうとしか言えなかった。
二人は車から降りた。そのまま歩くと立ち入り禁止のプレートをぶら下げた黄色と黒のロープの前に並んだ。そしてそのまま突っ立っていた。
「ここに何かが立っていたなんて思えない」彼女が言った。
「だけどあったんだ。確かにあったよ」
彼はロープを跨ぐとゆっくりと歩いて行った。彼女もその後に続いた。
「だけど自分を疑いそうだ」歩きながら回転すると彼は言った。
「記憶にはしっかりとあるんでしょう」
車の音がして二人は振り返った。銀色のワゴン車が彼の車の後ろに止まった。助手席から彼らと同じか少し年上くらいの男が出てきた。男は彼の車を怪しげに眺めながら空地へ向かった。そして顔を向けて二人を見つけると手招きをした。二人は互いに目を合わせた。
「ヤバイ、見つかった」彼女が言った。
「運が悪い」彼が呟いた。
二人が近づくと男は身構えるように腕を組んだ。そして二人の顔を交互に眺めた。その目は怒っている風ではなかったが腹立たしさと呆れた気持が同居している目だった。
「ロープだってあるしプレートにも入るなって書いてある」男は呟くように言った。
「バレなきゃいいと思ってしまって」彼は言った。
男はため息をついた。「まあ、気持ちはわかるさ。誰も見てないなら別にいいやってな。だけどおたくらは見つかった。で、おたくらはここでいったい何を?」
「すごく説明しにくい事なんですが」彼が口を開いた。
すかさず彼女が肘で彼の脇腹を突いた。「誤解される言い方」彼女は男に向き直った。「何をってことはありません。ただ何があるのか気になってフラリと立ち入ってしまったんです。それだけです」
男は目を疑惑に染めた。そして視線を二人の顔の間を行ったり来たりさせた。
「すぐに立ち去ってくれればこっちは何もしません。見逃せるものは見逃せ、ですからね」
彼はその句が何からの引用だろうと考えた。だがそれらしい人物は思い浮かばなかった。
ワゴンの運転席から三十いくつかほどの男が降りて来た。若白髪の多さから今までの人生の苦労がうかがえた。
「優冶君、トラブルか?」
優治は運転手へと顔を向けると頭を振った。「いえ、トラブルなんて」
「そりゃ幸いだ。トラブルは無い方がいい」運転手は二人の前に立った。「二度とここには立ち入らない事だ。ここには見ての通り何もない。徳川の埋蔵金があるわけでもないし、ここに今後建物が立つことはない。未来永劫だ。たとえ小学生が家の居間でプレイステーション300を遊ぶような時代でもここには何もない」
「ええ、すみませんでした」彼女はか細い声を出した。
彼女がちらりと彼の方を見てみると彼はじいっと二人の男の顔を見つめていた。彼女は再び肘で突っついた。彼ははっとして彼女を見た。
「ジロジロ見すぎ」彼女は小さい声で注意した。
「いや、ああ失礼」彼は二人に言った。そして彼女に顔を向けた。「なんだか既視感を覚えてさ。どっかであったような気がする」
「じゃあどこかで会ったのよ。パーキングエリアとかコンビニとかで」
「珍しい事じゃない。俺だってよくそうなる」運転手は言った。「あんた俺たちとどこかで会ってるんだよ」
その時車の窓ガラスを叩くコンコンという音がした。運転手は思い出したように「ああ」と漏らすとワゴンの後部席のスライドドアを引っ張った。
「すまないね、たくみ君。五十歳を超えてから筋肉がどんどん弱ってく。スライドドアすら開けられんとは」
「俺はこんな重たいスライドドアを車に取りつける設計者の考えがさっぱりだね」たくみはスライドドアを中指の関節で叩いた。
後部席から降りた中年――数年したら中学生にシルバーシートを譲ってもらえるようになるであろう年齢――の男を見ると彼は息を呑んだ。その際のスーという呼吸音が彼女の耳にも聞こえたほどだった。
「館長のおじさん?」彼の声は同時に信じられないと言っているようだった。
中年の男は目を見開いた。そのまま目玉がギャグアニメのようにポトリと落ちそうなくらいだった。
「こんなの信じられん」水野清隆は心底驚いた時にしか出せない特有の声をだした。
「水野さん、お知り合いですか?」優治がきょとんとした目で言った。
「君らにも大いに関係がある」水野清隆は言った。「映画館にいたあの子だね、君は?」
「ええ、そうです。僕です」彼の声は驚きでいっぱいだった。
「本当に?」優治は耳を疑っているように首をかしげた。「君はあの子か?」優治が彼の肩を掴んだ。「僕を覚えてるか? カメラを回して女の子を助けた。ほら、女の子が歩いて死ぬ映画の時の」
「ああ!」彼は優治を指差した。「あの時の」
「俺はどうだ?」たくみが自分を指して言った。「あの時は夜警をしてた」
「あの警備員のお兄さん?」
全員が口を開けて黙った。そしてお互いの顔を見比べていた。例外は彼女だけで不満そうに腕を組んでいた。
「何? 全員知り合い?」彼女が言った。
「そう言う事になる」たくみが言った。「こんなのは滅多にある事じゃない。旅行先のホテルのエレベーターでトム・クルーズと一緒になって帰りのエレベーターでジョニー・デップと一緒になるようなもんだ」
「あの映画館の事を知ってる三人が集まって」優治が言った。明らかに興奮して言葉が詰まっている様子だった「そして今度あの少年だ。すごい!」
「こりゃもう運命だろうね」水野清隆が彼の手を握った。彼も握り返した。
「感無量ですよ。言葉が出てこない」彼は声のない笑いを吐き出していた。
「君はどうしてここに?」たくみが言った。「ひょっとしてまだ人を待ってるのか?」冗談っぽく言った。
「ちょっと思うものがあって」彼は空地の中央へと視線を投げた。
「こちらは奥さん?」優治が言った。
「の予定」彼女はぶっきらぼうに答えた。
「皆さんはどうしてここに? それに一緒の車で」彼が言った。
優治がたくみに目配せをした。「どこから話します?」
「映画制作会社の美術に」たくみはそう言って自分の胸に手を置いた。「ADと」と言って優治を指した。「お偉いさんだ」水野清隆を指した。「お分かり?」
「たまたま職場でいっしょに?」彼は言った。
「その通り」たくみは言った。そして皮肉っぽく強調して付け加えた。「たまたま」
「間接的な知り合いだってわかったのは四週間ほど前ですけど」優治が言った。
「ここに来た理由だがね、それは見てもらった方がいいな。二人とも準備をしよう」
水野清隆の一声で二人は動き出した。二人はワゴンから小型発電機を運ぶと、次に小ぶりな映写機を空地と雑木林との境目に持っていった。
そこにはちょうど雑木林の影が落ちていた。風はなく静かだった。
「映写機なんか用意してどうするんです?」彼は言った。
「あの現象が起こったんだよ」水野清隆が言った。「再びね」
「まさか!」彼は吐き捨てた。「映画館が壊れてあの不思議な力はなくなった。僕は見ていたんですよ。目の前で映画のキャラクターたちが消えていった」そして苦虫を噛んだような顔で付け加えた。「あの子も」
彼女が嫉妬っぽいまなざしを送ったが彼は気づかなかった。
「宇宙の自己修復能力だ」たくみが映写機のプラグを小型発電機につないで言った。「考えてみろ。石ころをちょっと動かしただけでも映画の現象が消える可能性はあった。だが石を蹴ったり壁が剥がれ落ちてもあの現象は失われなかった。いわば爪で軽くひっかくようなもんだ」たくみは手の甲をかきむしった。「この程度なら大した傷じゃないしすぐ直る。だが映画館が急激に破壊されたから、爪でひっかく程度じゃなくナイフで切り裂いたような傷の治りには時間がかかる。この現象の場合その修復に十年という歳月が必要だったんだ」
「こんなこと言ってるけど出鱈目ですよ。科学的な根拠なんて何もない。SF脳を働かせているだけです」優治が彼に言った。
「じゃあ他に何が考えられる?」たくみが言った。
「エジプトの呪いとかブードゥーの呪術とかアステカの秘宝とかメソポタミアの邪神象とか」優治は言った。
「デタラメ以下の思い付きだ」たくみは言った。
「あの現象を解明するなら量子力学が必要ですよ」優治は言い訳っぽく言った。
「本当にあの現象が起こったんですか?」彼は清隆に訊いた。
「もちろん。自分の目で確かめた。最初に確認したのは優治君で、その後に私とたくみ君とで確認した。私も優治君から聞いたときは半信半疑、いや八割が疑いだった。だが事実あの現象は再生していた」
「自分で見てみればいい」たくみは発電機のスターターを引っ張ってエンジンを始動させた。エンジンの音が一帯に広がった。
水野清隆はワゴンへと引き返すとフィルムケースを持って戻って来た。ラベルははがれていた。それでも彼にはそのフィルムの正体が想像できた。
「私たちが今日ここにやって来たのはやり残したことがあるからだ」清隆は言った。「君と会えるとは思ってなかったが持ってきて良かった。君だってやり残しの事があるだろう」水野清隆は目で彼女を指した。「察しはつく」
彼はケースからフィルムを取り出すとまじまじとそれを眺めた。それは記憶にあるよりもはるかに小さかった。そして決心するとたくみの方へ歩いて行ってフィルムを差し出した。
「お願いできます?」
たくみは何も言わずに受け取ると――口を噤んだのはこの行為に一種の神聖さを感じたからだった――フィルムをセットした。優治も手を貸して映写の準備をした。
「君がスイッチを押すべきだ」準備が終わると優治が言った。道徳や倫理に従ってではなく、直感的にそれが正しいと思えたのだった。
彼は頷いた。そしてスイッチを入れた。
映写機から光が飛び出て、雑木林の暗がりへと入っていった。コンクールの結果発表でいよいよ金賞受賞者の名前が呼ばれる寸前の沈黙にも似た緊張が一同の間に走っていた。彼は無意識に彼女の手を掴んでいた。彼女は掌から彼の不安を感じ取った。
栗の木の陰から女の子が出てきた。髪の毛を可愛らしいおさげにして、健康的な印象を与える半袖のブラウスとスカートを身に付けていた。あの頃と何一つ変わらない姿だった。少女は迷ったように辺りを見回すと彼らを見つけた。
彼が息を呑んだ。彼女にもその音が聞こえた。
「こんにちは」少女は声をかけた。
「やあ、こんにちは」水野清隆が言った。
少女は雑木林から出てくると五人の前で背筋を伸ばした。
「素敵なお天気ね」少女は言った。
「ああ、実にいい天気だ」優治が言った。
「皆さんは何をしてるの?」少女は首をかしげた。
「君と話をしたい奴がいる」たくみが言った。そして彼の方を見るとウインクした。
彼はぎこちなく頷いた。そしておずおずと切り出した。
「久しぶり」彼は言葉を続けようとしたが黙った。頭に浮かぶどんな言葉も三流小説家が書くヘボ文章のように思えた。
少女は彼の顔を見ると首をかしげた。「失礼、あなたと会ったことってあったかしら?」
「そうだった」たくみが呟いた。彼がたくみの方を一瞥するとたくみは「記憶がな」と言って首を横に振った。
彼はその意味を理解した。
「パソコンは直った」たくみは続けた。「だけどデータの復旧は無理だった。インターネットをしたりゲームで遊んだりはできるけど、データはすっからかん。そう言う事さ」
「他の映画でもそうでした」優治が言った。「僕やたくみさんはともかく、水野さんに会ってもみんな初対面だと言います」
「ええ、初対面よ」少女は言った。「だって皆さんと会ったのは初めてですもの」
「そうですか」彼は無気力に言った。そして少女へ声をかけた。「初めましてお嬢さん」
「ええ、始めまして」少女は言った。
一種のジョークだと彼は思った。だがこれはジョークではなかった。それはわかっていた。それでも事実は認めづらいものだった。
彼女は彼の心情を察した。少女が映画の人物なのかどうかという点は彼女の関心を引かなかった。彼女が関心を抱いていたのは彼がこの瞬間に途方もない失恋をしたという事だった。彼女は彼に共感できた。婚姻届を彼に見せて求婚した時に彼が今はできないと言ったあの瞬間の気持ちが蘇った。彼女は思った。納得が必要だ。
「ねえ、少しお散歩をしない?」彼女は少女に言った。
「素敵!」少女は手を合わせた。「すっごく素敵だと思うわ」
「俺は遠慮しとくよ」たくみは言った。そして目配せをした。
「僕も遠慮しときます」優治も続いた。
「私も」清隆も言った。
「そう、それは残念ね」少女は言った。「あなたはどうする?」
「僕は」彼は言いよどんだ。
彼女は少女に見えないように背中側から手を伸ばして彼の脇腹をつねった。
「行くよ」彼は咄嗟に言った。
「そう」彼女は言った。「じゃあ行きましょ」
三人は少女を先頭に雑木林を散歩した。
「二人って恋人?」しばらく歩くと少女が質問した。
「ええそうよ」彼女が答えた。そして何の気なしに彼の方を見てみると彼の顔が固まっていた。「何よ。間違ってる?」
「いや、そんなことはないよ」彼は慌てて言った。
「あら、そう。言いたいことがあれば言っていいのよ」
「その妙に嫌味っぽい言い方をやめてほしいな」
「私二人がとてもお似合いだと思う」少女が言った。「素敵なカップルよ」
「ありがとう」彼女が言った。
「私にも素敵な恋人が出来るかしら?」少女が夢を見ているような声音で言った。
「きっとできるわよ。運命の人ってのは意外と近くにいるものよ」彼女は言った。
彼は皮肉っぽく笑った。
「ねえ、君は何か覚えていないの?」彼が言った。
少女は呆気にとられたように立ちすくんで頭を捻った。「覚えているって訊かれても、思い出そうとしても何も思い浮かばないわ。でもね、昔を振り返ろうとすると悲しい気持ちになるの。大事な物がなくなっちゃったときに感じるあの悲しさよ。わかる?」
「よくわかる」彼は答えた。「本当によくわかる」
「そうよ思い出したわ!」少女はぴしゃりと手を叩いた。「男の子よ。私を待っていた男の子がいたのよ」
「それは本当?」彼は前のめりになった。
少女は再び頭をかしげた。「いや、そんな予感がしただけよ。曖昧なテレパシーみたいなもの。記憶じゃないの。もっとふんわりとしていて優しいものよ。何ていうのかしら?」
「思い出じゃない?」彼女が言った。
「そうよ。きっとそれ!」少女は飛び跳ねた。「私の思い出よ。とても大事な思い出。捨てようたって捨てられないもの。あの男の子、私をずっと待っていてくれた」
「君はその子の事が好きだった?」彼女が言った。
彼の顔がこわばった。彼女はその反応を見逃さなかった。
少女は照れるような笑顔を見せると足元に目を落とした。「うまく表現できる言葉が浮かばないの」
彼は後回しにしておいた難解な問題の答えがわかった瞬間の受験生のように息を呑んだ。そしてゆっくりと口を開いた。「言葉にできるような簡単でちっぽけな気持ちじゃない。そうだね?」
少女は頷いた。そしていたずらっぽく笑うと人差し指を唇の前まで持っていった。「これは秘密よ。パパとママにも。おじさんにもおばさんにも。約束してくれる?」
「ああ、約束する」彼は言った。
「約束する」彼女は言った。
「あの男の子、どうしてるかしら」少女は明るく言った。
「僕の推測だけど、きっと君との思い出を大切にしてると思う」彼は言った。
「ありがとう」少女は笑顔を見せた。
彼は微笑んだ。彼はしゃがんで少女と目の高さを合わせると言った。「君もその男の子との思い出を大切にしてくれるかい?」
少女は頷いた。
「約束できる?」彼は訊いた。
「約束する」
「じゃあその男の子もきっと君との思い出を大事にするよ」そして彼は決意を固めるように眼を閉じて開いた。「僕らはもう行かなきゃ。大事な用事をほったらかしにしてきたんだ」
「あら、そう」少女は肩を落とした。「また会える?」
彼は首を横に振った。「いや、もう会えない」
「じゃあ、また明日じゃなくてさようならね」少女は言った。
「うん。さようならだ」彼は立ち上がった。「バイバイ」
「バイバイ」少女は手を振った。
彼も小さく手を振った。彼女は彼よりも少し大きく手を振った。彼は彼女の手を握ると踵を返して歩き出した。そのまま歩いていると後ろから少女の声が飛んできた。
「お二人ともお幸せに!」
彼は振り返った。だが木々が壁になって少女の姿は見つからなかった。それでも彼は声をかけた。
「君も幸せに!」そして小さく付け加えた。「ありがとう」
「こんなお別れでいいの?」彼女が言った。
「これでいいんだ」彼は前を向くと再び歩き出した。「あの時は泣いてさよならをした。だけど今度は笑ってさよならができた。それで十分だ」
「そうじゃなくて、気持ちを伝えなくて良かったの? 別に私はそんな嫌な思いはしないと思う。あの子いい子だもん。可愛いし、好きになると思う」
「僕があの子に抱いていた感情は恋心じゃないと思う。希望だよ。いっしょにいたいとかキスがしたいとかじゃない。もっと純粋で、気づきにくい感情だ」
「そこまで言われたらさすがに嫉妬する」彼女は彼に気づかれない程度に頬を膨らませた。
「聞いて」彼は耳元で囁いた。
「何?」
「愛してる」
彼女は何も答えない代わりに握った手に力を込めた。彼も少し力強く握り返した。
二人は立ち去った。木々の間から光が降り注いでいた。
おしまい




