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◆ 「集団創作小説」投稿用スレ 4話/アイアン

7【アイアン】0205

石川たくみは雇い主であり社内で最大のお荷物を彼に預けている警備会社の車を砂利の上にロープを置いただけの駐車場に停めると外に降り立った。辺りに外灯はなく月と星だけが周辺の雑木林を照らしていた。たくみは後部座席から懐中電灯を取ると轍の付いた道路越しにそびえる映画館を照らした。

「先輩、ここですよね?」たくみは言った。

 水野隼太――最大のお荷物――は助手席から降りるとドアにもたれて腕を組んだ。

「この町で他に映画館があるか? あるなら俺をそこまで連れて行ってくれよ。もうちょっとマシな運転でな」

 隼太は嫌みったらしく言った。そして顔を向けると歯をむき出しにした。歯並びはいい――矯正済みなのだから当然――が色は全体的に黄色で所々に黒い歯石がへばりついていた。たくみはこの歯に潰されるありとあらゆる食べ物に同情した。

「すみません」

「いいや、気にすんなよ。お前が俺より賢くなれってのは無理な話だ」

《ゾンビの脳みそでもお前のそれかよかマシだろうよ》たくみは思った。

 ヘルメットとベストを装備すると二人は手分けして駐車場を囲む草むらを調べていった。どこを調べてもゴミ一つ落ちてなかった。たくみは懐中電灯で雑木林をぐるりと照らした。どこにでもある、そこそこ手入れされた雑木林だった。それでもたくみはこの辺りになにか特別なものを感じた。

「何か見つかったか?」隼太が声をかけた。

「いいえ。何もありません」

《いいや、何かありそうだ》たくみは思った。

 二人は肩を並べて映画館の方へと向かった。水野隼太が光を映画館の端から端へ走らせた。ちょっと息を吹きかけたら崩れ落ちてしまいそうな状態だった。たくみは何故この映画館が毎年の台風や地震をくらっても立っていられるのか不気味に思った。

《雑木林さ》たくみは思った。《周りに雑木林があるから風や揺れに強いんだ。周辺の地理がいいからだよ》辺りの雑木林が防いでいるものは住民からの視線ぐらいだろうが真偽はどうでもよかった。たくみに必要なのは科学的事実よりも気休めの推測だった。

「中坊どもが肝試しをしてそうだよなあ」隼太はねっとりとした声で言った。たくみは身震いした――バレないように。たくみには水野隼太の口から出てくる息すらも不快な粘液のように糸を引いているように思えた。「あるいはこっちをやったりな」隼太はそういって左手で作った輪っかに右の人差し指を出し入れさせた。

 たくみは隼太の手と映画館を見比べた。

《気が触れていてもこんな場所でパンツを降ろす気になんかならないぞ。溜まっているものがなんであれ。キリストが生まれた馬小屋でする方がマシだ》

「じゃあどこから手を付けましょうか?」

「映画館の周りからだ。見つけたなら」隼太が言った。「常識を教えないとな」そう言って腰の警棒を掴んだ。ちらりと覗く金属部分が暴力的な光を放っていた。

「わかれて探しますか?」

「そうだな。俺は左。お前は右だ。映画館の裏で合流だぞ。いいか、絶対に見落とすなよ」

 水野隼太は顔を近づけて息を吹きかけた。たくみは鼻をつまみたい衝動と吐き気を必死で抑えた。

 たくみは辺りに注意を払いながら映画館の壁沿いに進んでいった。目を凝らすと壁にヤモリの卵や蛇の抜け殻が目に付き、耳を澄ますとカエルや虫たちの歌声が聞こえた。鼻を鋭くすると夏の草の臭いと埃っぽさと自分の汗の臭いがついた。歩くと背の高い草が脹脛を撫でていった。懐中電灯の光の中を跳んでいくバッタが見えた。この辺りでもゴミは見つからなかった。

 裏に回ると水野隼太の懐中電灯の光が見えた。たくみは映画館の壁を照らした。すると大人が通れそうなほどの穴を見つけた。自然に崩壊してできたような穴だった。穴を覗いて照らしてみると機械やむき出しの銅線が闇から出てきた。配電室かその類の電気設備の部屋だと推測した。たくみは光を空へと向けた。電線は見当たらなかった。

「何にもない」たくみの姿を認めた隼太が言った。がっかりしているようだった。何せ自分の力を示すことができる――言い換えるならいじめる事が出来る――浮浪者や動物を見つけられなかったのだから。

「中にはいるかもしれませんよ」たくみは言った。「見てください。この穴。タヌキや野良猫がここから入り込んでいるかもしれません。断熱材がむき出しになっている部屋があるならきっと巣を作ってますよ」

 隼太の顔が輝いた。「なるほど。だったら絶対に見つけ出さないとな」

「ここから中に入りますか? それとも入口から?」

「ここからだ。わざわざ入口まで戻る必要はない。そうだろ?」

「ええ、そう思います」

「いいか。あまり大きな声を上げるなよ。浮浪者がいきなり襲い掛かってくるかもしれないからな」

《本当はいじめる動物に逃げられたくないだけだろ》

「わかりました」

 水野隼太は懐中電灯を左手に持ち替えて右手で警棒を構えた。まさに危険な小心者といったところ。

 二人は少し身を屈めて穴をくぐった。穴の周りには台風などが運んだらしき石が転がっていたが少し離れると崩れた天井の欠片が落ちているだけになった。風のせいかこの辺りの埃は全て部屋の隅に固まっていた。崩れた壁からは電線の束が覗いていた。部屋を半分まで渡った時たくみは瓦礫に隠れるようにして立っている一つの機械を見つけた。他の物よりもずっと新しく見えた。

「何か見つけたか?」隼太が暴力的な笑いを見せた。

「いえ、何も。猫の巣かと思ったんですけど銅線の束でした」

「そうか」残念そうな声。

 とっさにでた嘘だった。そしてすぐに嘘を後悔した。だが後悔と同時に使命感も感じた。これは秘密にするべきことだと。

 二人は部屋を出た。横に廊下が伸びていた。非常灯は全て消えていた。

「ここも手分けしますか?」

「ああ、そうしよう。ただし何か不審な人影や動物の鳴き声を聞いたら、無線でな。一人ではするなよ。危険だからな」

 つまり俺にまかせろと言う事。再び警棒が残酷な光を放った。

「わかりました」

 たくみは決心した。浮浪者か動物を見つけたらこっそり逃がしてやろう、と。自分の足でここを出て行くか、ストレッチャーに乗るか、死体袋に入るか、迷う選択ではないはずだ。

「用心しろ。俺は右、お前は左からだ。入口で会おう。くれぐれも、だぜ」隼太は無線機を叩いた。

 二人は決闘をするガンマンよろしく背を向けて歩き出した。たくみは角を曲がると足を止めた。そしてこっそりと廊下の向こうを伺うと水野隼太が突き当りを曲がって姿を消した。たくみは懐中電灯に手を当てて足元だけを照らすようにするとさっきの部屋に戻った。部屋の中央へ行くと例の機械を照らした。たくみは突き出た鉄筋にズボンを引っ掛けないように用心しながら瓦礫を跨いでいった。瓦礫の隙間に身を滑らせるとたくみは目の前のプロパンガス発電機を眺めた。たくみは発電機の横腹に張ってある製造年月日シールを確認したがあるのは糊の跡だけだった。だがこの機械が二十一世紀に造られたのは明らかだった。たくみは発電機の周りの床を照らした。床には乾いた土が転がっていた。風でここまでは入ってこない。おそらく靴にくっついてここまでやってきた土だ。

 メモリの針はF側を指していた。

《きっとここが廃業した後に設置したものだ。誰が? それにこのボンベは最近の物のはずだ》

 どうすればわかるか。簡単な事。その“誰か”に訊けばいい。そのためには見つけなくては。水野隼太よりも先に。

 たくみは踵を返すと瓦礫を跨いで水野隼太と別れた廊下まで戻った。そして廊下の左へ向かった。今では何の役割を持った部屋だったのかすらわからないような部屋をいくつも、素早く調べていった。どこも無人。動物の気配すらなかった。

《きっと痕跡がある》たくみは思った。《夜のせいだ。暗いから手がかりを見落としている。明日、昼間に来ればいい。水野隼太が発電機の人物をボコボコにしてなければ》

 たくみは従業員専用のドアを開けると――錆のせいで思いっきり力を込めないと開かなかった――玄関ホールへと歩いた。蛍光灯は全て割れていて虫の糞が付いていた。タイルは完成途中のジグソーパズルのような状態で気を抜くと転んでしまいそうだった。ソファのスポンジは積もった埃で隠れていた。

 その時奥の方から物を崩す音がした。たくみは警戒して懐中電灯の光を投げかけた。二分ほどするとスラックスと装備ベストを白くさせた水野隼太が現れた。彼は懐中電灯をベルトにしまうと手を払った。手から埃が立ち上った。隼太は咳をすると『ロード・オブ・ザ・リング』のオークそっくりに顔をゆがめた。

「誰もいないし何もない」彼は吐き出すように言った。

「こっちも同じです」たくみはそれっぽく聞こえるように演技をした。

 隼太はベストとスラックスを叩きながらたくみの側へ寄った。

「ちゃんと目を開けて探しただろうな?」

 たくみは頷いた。「ええ、しっかりと」

 隼太は舌打ちをすると警棒を掌に叩きつけた。「誰かいると思ったんだがなあ」すると囁き声で「面白くない」

「ですが誰もいないんですからしょうがないですよ」

 水野隼太は目を大きく開いて石川たくみへと顔を向けた。大きな白目がホラー映画の幽霊じみた印象を与えた。

「お前今俺に口答えしたよな?」冷たい声。

 たくみは慌てて頭を振った。「まさかそんな――」

「――まさか! 言い訳をすんじゃねえ!」隼太は警棒の先をたくみの胸に押し付けた。「いいか。ここには誰かが忍び込んでる。俺にはわかるんだよ。お前なんかがわかったような事を言うじゃない。俺はお前の先輩だぞ。仕事でも人生でもだ。お前よりも四年長くこの仕事をやってるんだぞ。それにお前よりも年上だ。俺の方が物知りだ。そうだろ」

「ええ、もちろんです。ですが――」

「――黙れ! さっき言い訳はするなって言ったぞ。聞いてなかったのか!」

「ちゃんと聞きました」

「だったらここが空っぽなのか?」隼太は警棒でたくみの頭を小突いた。「それともファミコン以下の脳みそか? 八ビットのコンピューターよりもマシなおつむを持ってるなら同じことを二回も言う必要はないだろ。違うか」

「先輩――」

「――今は俺が話してる!」たくみの顔に唾がかかった。「そんな事も理解できないか能無しめ! 俺はお前みたいなアホと仕事をしてやってんだぞ。そのくせお前は敬いの気持ちってのがまったくねえよな。感謝の欠片すら持ってない。それどころかいつも俺を見下すような目つきだよな、ええ! 自分を賢いと思ってんだろう? 社会の底辺クズどもはいっつもそうだ。自分が世界で一番賢い人間だと思ってやがる。することと言ったら知ったかぶって他人の悪口を言うだけ。お前もその口だろう?」

 たくみは何も言わなかった。どんな事でも発言は自分を不利にするだろうし、何より今、脳みそに言葉を考える余裕などなかった。心から湧いてくる怒りの鎮火で手一杯だった。

「だんまりか! 何かいったらどうだこの知障め!」

 隼太は警棒の先端でたくみの胸を押した。たくみは転ぶまいと足を一歩下げた。だが床のタイルが欠けていたせいで体勢を崩して尻を思いっきり打ち付けた。隼太は雄叫びを上げた。

「ハッハーそれ見た事か。ドンくっさい奴だぜ。無様に転んだ」

 たくみは腰の痛みに声のない悲鳴を上げながら立ち上がった。たくみは腰をさすりながら――家に帰って見てみれば痣ができていた――顔を上げた。

 水野隼太の顔から波が引くように笑いが消えてチンケな恐怖の表情が出てきた。「おい、何怒ってんだよ。お前が勝手に転んだんじゃないか。お前がドジだから転んだんだ。そうだろ?」声は震えていた。改めて身の危険を感じた者の声だった。

 たくみはグツグツに煮えた頭で考えた。このまま怒りに任せて殴りかかるのを想像した。すると赤字で〈解雇〉と書いてある書類が浮かんできた。その次には預金通帳が浮かんできた。そして通帳を閉じて開いてみると残高が減っている。閉じて開く。減っている。閉じて開く。減っている。そしてゼロ。ゼロ。無職。解雇。クビ。ゼロ。解雇。ゼロ。

《それだけはダメだ。絶対に》

 たくみは頷いた。「ええ、その通りです。僕が抜けてたから転んでしまったんです」

 水野隼太は誇らしげな笑みを見せた。「そうだな。だが理解して反省すれば一人前さ。さあ、もうこんな所は終わりだ。見回る場所はまだまだあるんだからな」

 隼太は車へと歩き出した。たくみは腰に痛みが走らないように慎重に歩いていった。

《蹴りを入れてやれ》たくみの怒りの部分が言った。《警棒で叩きのめせ。床にあるタイル片でもいい》

《やめておけよ》たくみの冷静な部分が言った。《クビになっちまうぜ。あいつが親父に告げ口したらどうする? あいつの親父は会社の株をたんまりと持ってるんだぞ。水野隼太の機嫌を取る必要があるんだ。それに一回転んだだけであいつのご機嫌を取れるぐらいなら安いもんだろ。もっと大変だったことを思い出せよ》

 たくみは駐車場へたどり着くと振り返った。映画館には魔術的な魅力ともいえる得体のしれない何かがあった。

「おい! 運転だ。ボサボサしやがって。給料泥棒をする気か?」

 たくみは運手席に着くと手早く車を駐車場から出した。そして走り去った。


8【アイアン】0205

 たくみは愛車のビートルを駐車場に停めると助手席からヘルメットを手に取って降りた。ヘルメットをかぶってストラップを絞めると映画館を見据えた。

 たくみは重たい目を開いて――いつもは眠っている時間だ――映画館の裏手に回った。辺りには雑木林と太陽の香りが漂っていた。マスク越しでも嗅ぎ取れるほど濃い香りだった。太陽の光の中を歩くのは久しぶりだった。裏の穴までやってくるとたくみは振り返った。すると不思議な感覚にとらわれた。雑木林の中を県道十八号線へ向かって伸びている道があった。草が分かれて枝が分かれて、一種のビームが通った後のような筋道が出来上がっていた。獣道にしては不自然な、計算高さを感じる道だった。道の向こうには県道十八号線と町が円の中に収まっていた。

 壁の穴を通ると涼しくなった。埃っぽい部屋を飛び跳ねながら――腰に気を配りながら――発電機の元へと移動した。発電機は沈黙していた。たくみはスイッチを捻った。するとスイッチの横のランプが点灯してやかましいエンジン音が鳴り響いた。たくみにはその音が異常に大きな音に聞こえた。廃墟の音響効果と不安のアンプリファイアが合わさったせいだ。たくみはすぐさまスイッチを切った。音が小さくなっていき、不気味な静けさが戻って来た。たくみは安堵のため息をついた。

 たくみは部屋を出てホールの方へと向かった。するとあちらこちらに足跡が目に付いた。昨夜、発見できなかったということが信じられなかった。

 たくみはシアターの方へと伸びている足跡を追って行った。シアターは暗かった。天井から洩れる光と玄関ホールから入ってくる光でかろうじて物の輪郭が見える程度だった。

 たくみは壁伝いに進んで行った。外では暑さの汗をかいていたが今では冷や汗をかいていた。汗に埃がくっつくのは不快だった。物陰から誰か襲ってこないかと警戒しながら進んでいくとドアが向こう側に倒れている通路を見つけた。ドアの横には錆びた蝶番が転がっていた。通路は数歩進むとL字に曲がっていた。通路を進むとまた倒れたドアがあってその先は映写室だった。

 映写室のもう一つのドアを開けてみると――こっちは倒れてはいなかった――例の発電機の部屋が廊下の右手に見えた。突然、頭上の蛍光灯が輝いた。そしてすぐに廊下の奥から発電機のうなり声が聞こえてきた。たくみは二台の映写機を盾にするように身を隠した。

もう少し楽な体勢になろうと体を動かすと、腕が映写機のスイッチを入れてしまった。スイッチを切ろうとして手を伸ばしたがその時たくみの頭にある考えが浮かんだ。

《このまま逃げたらどうだ? 発電機を作動させた奴は映画の音に気付いて廊下からここへやってくる。だとしたらシアターの方まで行って一般客出入口からホールへ行って外に逃げればいい》

 たくみはそれこそが名案に思えた。ここに誰かが出入りしいているのはもうハッキリとしたし、これ以上ここにいたくはなかった。発電機の人物に会うのが目的だったがこうして目の前まで近づいてくると恐ろしい考えがいくつも浮かんだ。少なくとも、こんな廃墟に日常的に出入りしている人物がまともな人間でないのは断言して良かった。

 客席の方から銃撃の音が聞こえた。それと馬の音とインディアンの「アワワワ」という雄叫び。覗いてみると白黒の西部劇をやっていた。おそらく最初期のアメリカン・ウェスタン――ジュリアーノ・ジェンマやクリント・イーストウッドが主役をするのはまだまだ先の時代――の作品だ。

 たくみはL字の通路を通って開けっ放しの劇場扉を目指した。発電機を動かしたため誘導灯が灯っていた(しっかり光っているのは全体の二割ほどだが)。それでも瓦礫や壊れた椅子の部品に足を引っ掛けないように気を配る必要があった。

 スクリーンの方を見るとたくみは眩暈がした。斧を持ったインディアンがスクリーンの手前にいるように見えたのだった。インディアン――白人がインディアン風の化粧をしたようにしか見えない――は辺りを見回してたくみの方をしっかりと見据えた。

《3D映画だ》たくみは思った。《〈アバター〉以来映画はなんでも3Dになったじゃないか》

 だがこの映画が作られたのは〈アバター〉が生まれる八十年ほど前だろうし、この映画の時代に赤と青のビニールを張った3Dメガネがあるとは思えなかった。それに今自分は裸眼だ。それにインディアンがこちらをじっと見ているのはどうやって説明する?

 インディアンは斧を振り上げると放り投げた。斧は二回転半するとたくみの踵のすぐ近くにめり込んだ。

 石川たくみは頭上で電球が光るような確信を得た。これはVFXや視覚効果を使った演出ではなく実物だと。

「嘘だろ、マジかよ」

 たくみは言うや否や引き返した。背後からは「アワワワワワワワ」という雄叫びがした。スピーカーからは騎兵隊のラッパが聞こえたが、インディアンに続いてカスター将軍が飛び出してくる気配はなかった。

 映写室を通って裏方の廊下へ逃れると真一文字に発電機の部屋を目指した。発電機の電源を入れた謎の人物――人物であるかもわからないが――と鉢合わせするのでは、と考えるほどの余裕はなかった。パニックでてんてこ舞いの頭は能無しの司令官のように「逃げろ。逃げろ。逃げるんだよ」と繰り返すだけだった。背後からは絶え間ない「アワワワ」が聞こえたがほとんどが発電機のエンジン音にかき消された。そのせいで自分とインディアンとの間にどれほどの距離があるのかさっぱりだった。そしてそれがパニックに更なるパニックを足すことになった(だが耳で距離が測れてもパニックになっていたに違いない)。

 たくみは外へ飛び出た。そのまま雑木林の道を進むと道から二メートル離れた杉の木の陰に身を隠した。インディアンの声が近づいてきた。たくみはマスクを外して音を立てないように呼吸をした。杉から顔を覗かせると県道十八号線へと猛進しているインディアンが目に飛び込んだ。暗がりでは気づかなかったがインディアンは白黒だった。緑と茶色ばかりの雑木林ではそれが成仏できぬ亡霊のように映った。

 インディアンは勢いそのままに県道十八号線へと飛び出た。その時たくみは目を見張った。インディアンが県道十八号線と雑木林の境界を超すと体が光り始めたのだった。全身が雑木林から抜け出すともう人かどうかもわからない光の靄になった。暗闇に慣れた目でいきなり強烈な光を見ると瞼に残る残像に似ていた。光の靄は水に垂らした絵の具のように広がっていくと色が薄くなって完全に消滅した。インディアンの足についていた土がパラパラと県道十八号線に転がった。

 たくみは杉の陰から飛び出てインディアンが消滅した地点へと走った。

《いったいどういうことだ? とうとう頭がクルクルパーか?》

 たくみはインディアンについていた土を眺めながら思った。そして自分が精神病院に入っている様を思い浮かべて頭を振った。

「幻覚なんかじゃないぞ」たくみは言った。

 背後から土を蹴る音がしてたくみは振り返った。青ざめた顔をした少年が息を切らせてこちらを眺めていた。

「まずい」少年は血の気のない声で言った。

「君、見てたかあれが――」

 たくみが言い終わらないうちに少年は振り返って映画館の方へと走りだした。たくみは後を追った。

《あの子を逃がすな》たくみは思った。


9【アイアン】0205

 少年は迷うことなく映写室へとたどり着くとのぞき窓からスクリーンを伺った。

「まだ大丈夫」少年は呟くと映写機を止めてフィルムを巻き始めた。

「うひゃあ、こりゃひどい。何年分の埃だ?」手を口に当てて咳き込みながら石川たくみが映写室へやって来た。たくみは少年を見た。「マスクなしで平気なのかい?」

「魚は溺れないだろ?」少年は目を合わせずに言った。

 少年はフィルムを取り外すとケースに仕舞って部屋の隅のフィルムに積み重ねた。少年はもう一つの映写機の前半部分のフィルムを取り外しにかかった。

 たくみは黙ってその様を見ていた。少年は病的な印象はあるものの危険には見えなかった。そして聞くべきことを一つずつ整理していった。

「あの発電機は君が設置したのかい?」

「違う」

「もともと置いてあった?」

「そう」

「いつからここに出入りしてるんだ?」

「もう随分長い事」少年はたくみの方を見なかった。

「君は知ってたのか? あの――」インディアンの事を聞こうとしてたくみは躊躇した。ひょっとすると自分が狂っている事が判明するのではと思うと言いづらかった。

「――飛び出るインディアンの事?」少年は言った。

「ああ、そうだよ」

「友達とか知り合いかって意味だと知らない。映画のキャラが飛び出るって意味なら知ってる」

「あれは本当に映画の人物が飛び出てるのか? 3D映画での飛び出るじゃなくて、現実的な存在に――簡単言えば二次元が三次元になってるのか?」

「そうだよ」

「嘘だろ」たくみは頭を抱えた。

「本当の事だよ」

「あのインディアンが消えたわけを知ってるか?」

「力場から離れると消える。コントローラーからの信号が途切れたみたいに。キャラクターが生きられるのは雑木林までだよ。道路へ行くとあんな風に消えちゃう」

 少年はフィルムをケースに仕舞うとさっきのケースの上に重ねた。

「君はこんなところで何してるんだ?」

「人を待ってる」

 少年は積み重ねたケースの反対側にある段ボール箱から別のケースを取り出した。

「人と待ち合わせ?」たくみは辺りを見回した。

「ドラッグとかの売人じゃないよ」

「デートにふさわしい場所とも思えない」

 少年は黙ってフィルムを取り付けた。機械的な動きだった。

「学校はどうしたんだ?」たくみは腕時計を一瞥した。八時二十分だった。「瞬間移動か魔法の絨毯でもない限り遅刻だ」

「遅刻じゃない。僕は欠席」

「不登校に関してどうこう言う気はないがここには来るな。危険だ。天井が落ちてくるかもしれない。危険人物に襲われるかもしれないし山からイノシシが迷い込むかもしれない」

 少年はフィルムのセットを終えるとたくみへと視線を向けた。

「だったお兄さんはどうしてここに?」少年は目を細めた。「警察?」

「夜警だ。ここの見回りをしてる」

「今は朝だよ」

「勤務時間外労働……じゃないな。気になったから自分でちょっと調べてる」

少年はたくみを指差した。「仕事熱心だ」

「君の安全のためでもあるんだ。世の中には信じられないくらいアホで危険で臆病でアホでアホな輩がいるんだ。そういう手の人種は君みたいな子供をリンチにすることも正当な行いだと思ってる。相応な罰だとね。ボコボコにされるのはいやだろう?」

「もちろん。だけど、待ち合わせの約束をすっぽかすのはもっと嫌だ」

 少年は映写機を回し始めると映写室から出て行った。たくみは後を追った。

「こんなところで待つ必要はないだろ。人目が気になるならもっと安全な場所がある。燃えている家の中で消防隊を待つ必要はない。消防隊を待つなら安全な場所にいればいい」

「僕は消防隊を待ってるわけじゃないの」

 少年は客席のちょうど中央の席に座った。たくみはそばに立って少年を見つめた。くたびれた年寄じみた顔をしていた。たくみは少年を哀れに思った。たくみは目を逸らすとスクリーンを手で指した。

「どうして映画を?」

「退屈だから。暇つぶし」

「発電機のプロパンガスはどうやって調達しているんだ?」

 彼は答えなかった。だが沈黙こそが最良の答えということもある。

「誰を待ってるんだ? こんな――」たくみは手で辺りを払った。「――不健康な場所で」

「もう一度会いたい人だよ。約束したんだ」

「いつ?」

「いつか」

 たくみは眉間に皺を寄せた。「おい、待て。その約束をしたのはいったいいつの話だ?」

「二か月前、五か月前だったかな。いや、冬を越したから去年の秋か、夏か。春だったかな?」

「本当でも冗談でも面白くない話だ」

「正確に覚えてないだけ。だけど約束をしたのはちゃんと覚えてる」

「君が行くべき場所は学校じゃなく病院かもしれんな」

「僕は病気じゃない」

「君が知的障害者だろうがとんでもない大馬鹿だろうが、いつ約束したかも思い出せないような待ち合わせをずっと待つのはどうかしてる。ハチ公だってそんな事はしない」

「別にいいじゃないか。僕の人生なんだ。使い方ぐらい自分で決める。だいたいお兄さんには関係のないことだよ」

「この映画館を警備するのが俺の仕事だ。そして君はこの映画館に出入り――日常的に出入り――しているんだ。関係は大いにあるさ」

「だとしても僕には僕の事情があるんだ。だから、お願い、構わないで」

「こっちにも仕事があるんだよ!」

「ちょっとちょっとお二人さん。シーよシー」

 二人は声の方を見た。前の列のシートに顔を真っ白に塗ったピエロがいて人差し指を唇に当てていた。

「あんまりうるさいと怖い警備員さんがやってきちゃうよ」ピエロは言った。

「もう一度会いたい人?」たくみは少年を見てピエロを指差した。

「違う。多分の映画の登場人物だと思うよ。サーカスの映画みたいだし」少年は言った。

「ご明察! 坊や頭いいね。手だして。お菓子上げるよ」

「いらない」

「うっそ! ひょっとしてオイ嫌われてる? 子供に嫌われるなんて三文ピエロだ。ああ! だけどオイ、泣くんじゃない」オイは手を口に添えるとたくみの耳元で囁いた。「このおしろい結構値が張るのよ」

 オイは悪戯っぽい笑みを見せると拳を腰に当てた。

「で、お二人さん。どうして喧嘩なんかしてたの? 特にお兄さん。プンプンしちゃってさ。便秘なのかい? 便秘中は怒りっぽくなるけど?」

 オイは胸の前で指先をヒラヒラさせた。癇に障った。特に笑顔が。

「とっとと劇に戻れ」

 たくみはスクリーンを指差した。

「やだよ! だって俺の出番もう終わったもん。ほんの十秒ほど。見てた?」

「僕は見てた」少年が言った。

「ありがとう! 手だして。お礼にお菓子上げるよ」

「いらない」

「まただ! この子はお菓子が嫌いなのか。いや、お菓子が嫌いな子なんているわけがない。親のせいで食べられない子はいても嫌いな子なんているもんか」

「俺は小さい頃コーラ味のお菓子が嫌いだったぞ」たくみは言った。

「じゃあきっとそのお菓子腐ってたんだよ」オイは言った。「そんでさ、二人はなんで喧嘩してたの?」

「喧嘩じゃない。警告だ」たくみは言った。「危険地帯で来ない待ち人を待つアホな行いに関しての警告と注意だ」

「危険? 危険だって? ここのどこが危険なのさ?」オイは言った。

「今にも崩れるような天井とお前みたいな映画の登場人物だ!」たくみは言った。「お前たちがどうして現実世界に存在できているのかはどうだっていい。科学的装置の仕業かこの土地に働いている力場による超自然現象なのか、気にはなるが重要じゃない。重要なのはあのオンボロスクリーンからゴジラやキングコングなんかが出てこないかって事だ。それか四国を消し飛ばせるようなビームを撃てる宇宙船とかコレラみたいな伝染病が出てこないかってのが気がかりなんだよ」

「うわお! 確かにそりゃまずいね。そいつは勘弁だ。そんなんじゃトイレで安心してお尻を拭けないよ。だけどパンツとズボンを汚すと洗濯係と衣装係にものスゴク怒られるからなあ。ねえ、オイはいったいどうしたらいいと思う?」

「スクリーンに戻れ十六ミリ野郎」たくみは言った。

「あんたってヘビより冷血ね。オイは好きじゃないよ。だけどあんたがオイを好きになってくれるならオイもあんたの事好きになるよ。さてどうする?」

 たくみはため息をついてオイと少年を指差した。

「とにかく二人ともここから立ち去るんだ。君らの身の安全のために言っているんだ。俺の相方の警備員に見つかれば君らはきっとただじゃすまない。俺はあいつが何人もの浮浪者を病院送りにして、何匹もの猫を溺死させて、何人もの若者をがなり立てたのを知っているんだ。あんたたちに同じ目にあってほしくない。だから警告するんだ。ここから立ち去って二度と立ち寄るな」

「わお! なんと親切。お兄さん優しいね。オイ、お兄ちゃんの事好きになっちゃったよ。手出して。仲良くなった印としてお菓子を――」

「石川たくみ! そこにいるな!」

 劇場扉の方から劇場内の隅々まで届く大声がした。たくみはすぐさま声の主がわかった。二年間ずっと聞きつづけてきた声だ。虚栄心が無限に湧いてくる心の持ち主。

 たくみは振り返った。水野隼太が満足そうな笑みを浮かべてこちらを見つめていた。その笑顔は自分の美学に酔っている哀れなニヒリストを連想する笑みだった。

「先輩?」たくみは言った。一瞬、顔を見て本人と判断できなかった。恐ろしく疲れた顔をしていて、三十歳も老けたように見えたからだった。なぜだ、と思ってすぐに思い当たった。今は夜型人間はとっくに眠っている時間だ。

「やっぱりいたな。ビートルが走っていたからもしやと思って来てみりゃあ、大当たり! お前、俺を出し抜こうとしたんだな。そうはいかねえぞ! 俺はお前よりも賢いんだからな! 俺を舐めたまま仕事ができるなんて思うなよ。お前が俺に反抗的な態度を取って仕事を手抜きしたって事を親父にいってやる。お前は減給だ。タダ働きをさせてやる」

「先輩、僕はそんな――」

「――言い訳は無駄だ! 俺は知ってるんだからな!」水野隼太は進み出ると訝しそうな目をしている少年を一瞥した。そして意を得たりと言った風に頷いた。「なるほど。良く分かったぜ、ホモ野郎。ここはお前の大のお気に入りスポットだったわけだ。だから俺に探られないようにしたんだ」

「まさか、そんな事は無いですよ」

「同性愛者は嘘ばっかりつくってのは本当らしいな、ええ!」

「ご立派な偏見だ」少年が呟いた。

 水野隼太は少年を睨みつけた。そして歯間に隙間なく歯石と歯クソがたまった歯をむき出しにした。

「ホモガキが俺に知ったかする気か? ええ?」

 そういうと隼太は腕を振り上げて少年に近づいた。少年は腕で頭をかばう事もしないでぼんやりと水野隼太の腕を眺めていた。水野隼太が座席を乗り越えながらやってくると、椅子の陰に身を隠していたオイが飛び出た。オイは勢いそのままに隼太へのしかかると座席と座席の間に押し倒した。あっという間に埃が立ち上って二人の姿は曇りガラス越しに見ているような状態になった。

「オイは子供を傷つける奴が嫌いよ」オイは感情を露わにしていった。さっきの陽気さからは想像がつかないおっかない声だった。「そして友達に意地悪する奴も嫌いよ。人の悪口言う奴も嫌いよ。お前みたいに人を傷つける奴と仲良くなんかなりたくないよ。オイは友達を大事にするの! 友達を守るよ」

「放しやがれ。たくみ! 嵌めやがったな畜生! 俺を罠にかけたんだ! てめえの魂胆はわかったぞ。俺をレイプする気だな! そのために俺を誘い出したんだ。殺してやるぞ!」

 たくみは大きな咳を繰り返しながら座席を跨いで、水野隼太の目の前まで移動した。オイは水野隼太に乗っかって羽交い絞めをかけていた。オイの顔はITのペニーワイズを思わせる壮絶な表情をしていた。二人とも埃のせいで白黒映画の登場人物のような色合いに――ちょうど先ほどのインディアンのような具合に――なっていた。

「てめえら皆牢屋送りだ。殺人未遂と強姦未遂だ! 住居侵入にその他の罪で牢屋に入れてやる! いいや、てめえらは死刑だ。お前らみたいなアホどもは死刑にした方が世の中のためだ!」

 たくみは冷静に水野隼太を見つめた。頭は冷えて澄んでいた。そして自分の心の声がはっきりと聞き取れた。おまえさん、こんな奴と一緒に仕事をしているんだぜ。

「あんたが哀れだ」たくみは言った。

「そうやって俺を見下す気だろう! そりゃあそうさ。お前にはそれぐらいしかできないだろう腰抜けのカマ野郎」

 たくみは恥と後ろめたさを感じた。暗い気持ちだった。そして怒りも湧いてきた。こんな男に怯えておべっかを使っていた自分への怒りだった。自分が穢れた劣等生物になった気がした。

「今は自分を殴りたい気分だ」たくみは言った。

「だったらやってみたらどうだマゾ野郎!」

 たくみは水野隼太の顔面に渾身の蹴りを叩き込んだ。隼太は丸い目でたくみを見上げた。鼻が赤くはれ上がって目には涙が滲んでいた。

「だがそれ以上にあんたをボコボコにしたい気分なんだよ。もう我慢の限界だ」

 たくみはヘルメットを外すとしっかりと握った。水野隼太の目はヘルメットに釘付けになった。死刑囚が執行人の斧をまじまじと眺めるような眼差しだった。

「お兄さん」少年が言った。「殺すつもり?」

「やめて! お願いだ」水野隼太が高い声で言った。「たくみ君、そんな事しないで!」

「オイ、暴力は嫌よ」

「俺も嫌だ」たくみは言った。「今のところは」

 水野隼太が悲鳴を上げた。たくみはしゃがみこんで人差し指と親指で隼太の頬を挟み込んだ。噛みつかれる危険があったが、そんな知恵と戦意があるとは思えなかった。水野隼太は悲鳴を止めて泣き出した。

「ごめんなさい。許して。もうしないから」隼太は蚊の鳴くような声で言った。

「お前の約束なんて無価値だ」たくみは言った。「オイ、離してやれ」

「あら、いいの?」

「別にいいさ」

 オイは腕を隼太の脇から抜くと三回後ろに跳ねて離れた。水野隼太は素早く飛び上がるとたくみを突き飛ばして劇場扉へと駆けて行った。たくみは再び尻もちをついた。常識が吹き飛ぶ痛みだった。

 水野隼太は扉までたどり着くと振り返って指を振り上げた。

「お前らの事を警察に――」

「――言ったらお前を殺すために生きてやる!」たくみは言った。

 水野隼太は青ざめると飛び出て行った。すぐに車の音がして遠ざかって行った。

「脅しを無視して警察に言ったらどうすんのさ」少年はたくみが起き上がるのに手を貸して言った。

「そんな勇気はあいつにない。それに警察を一番恐れているのはあいつさ。小心者の例に洩れずにな。あいたた。こりゃ帰りに湿布を買わなきゃな」

 少年は興味深げな眼差しを投げかけた。

「お兄さん。いったいどれくらいあの人と仕事してたの?」

「君がもう一度会いたい人を待っているより長い間」

「上司とかに相談すればいいのに」

「あいつの親父が会社の株をたんまり持っている。これでオーケイ?」

「なるほど、そりゃたちが悪いね」オイが言った。「そのパパさんが息子のためにちょいと口を聞けば君を好きなようにできるってわけね」

「やめればいいのに」

「ああ、そうするよ。今まで続けてきたのが不思議だ。失業にビビリすぎてた。暗い未来ばかり想像したけど、今より暗い状況なんて全面核戦争くらいだ。今よりひどい仕事なんてないはずだよ」

「で、次のお仕事はなあに?」オイが言った。

「サーカスのピエロだけはやらない」たくみは言った。

「そりゃ賢明! お兄さんピエロは向いてなさそうよ。だけど、楽しくいこう! 世の中っていい人の方が多いからね」オイはスクリーンの方へ目をやった。「わお! もう終わっちゃうよ。クレジットが流れてる。これ三十分映画だからね。うわお!」オイはスクリーンの前まで走って行ってピョンピョン撥ねながら一つの名前を指差した。「これのオイの名前! オイの名前よ! ホラ! 見て!」

 フィルムが切れてオイが消えた。オイのいた所にはなにも残ってなかった。

「映画ほとんど見れなかった」少年が言った。

「申し訳ないね」

「いいよ。時間はいっぱいあるし」

「だけど無駄遣いはするな。俺みたいに」

「覚えておくよ。そう言えば、僕の事を会社に報告するの?」

「今は勤務時間外だ」たくみは笑った。

「安心した」

 少年の表情はほとんど変わらなかったが、たくみにはわずかに笑ったように見えた。

「まだ待つのか?」

「他にしたい事なんかないから」

「浦島太郎になるなよ」

 少年は肩を竦めた。たくみは少し呆れた気持でため息をつくと腰に痛みが走らないように劇場扉まで歩いて行った。開けっぱなしの扉の前まで来ると振り返った。少年はまだこちらを見ていた。たくみは手を上げた。少年も手を上げた。それでもたくみよりもずっと小さく。たくみは正面に向き直るとすっかり眩しくなった外へと歩いて行った。

 少年は彼を見送ると映写室へ行って再びフィルムを取りかえた。そして映写を開始するといつもの席に戻って身を預けた。

 そして少年は再び待ち始めた。フィルムの回る音がやけに大きく聞こえた。

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