◆ 「集団創作小説」投稿用スレ 3話/三百六十五歩のマーチ
5【3話/三百六十五歩のマーチ】0113
ここに来るのは何年振りかしら、と絹代は考えた。あの人とよく見に来たわね。最後に見た映画の名前も思い出せないけれど、と絹代は自嘲気味に口角を上げた。彼女はある噂を聞いて、映画館に忍び込んだ。それにしても埃っぽいわね。映画館の中は、至る所が埃だらけで、受付のカウンターには三センチほど積もっていた。
絹代は記憶と目の前の景色を丹念に見比べながら、映画館を奥に進んでいった。不思議な気分だった。思い出の方が色鮮やかによみがえるのに比べて、今の映画館の姿の方がセピア色して、絹代の目に写る。
「あら?」
スクリーンの方から光と音が漏れているのを、絹代は見つけた。誰かいるのかしら? 何だか恐ろしい気がしたので、彼女は半開きになっている扉から中を覗いてみた。人影が二つ。片方は無骨な、まるで鎧でも着ているようなシルエットをしていた。もう一方は背が低く、どうやら子供らしい、と絹代は思った。その瞬間、絹代は息子が幼少期に虐められていたことを思い出した。あの少年も、もしかするとあのおかしな服を着た若者に脅されているのかもしれない。そう思い、扉を勢い良く開けた。
「あなた達、そこで何やってるの!」
しかし上映室の中には、少年しかいなかった。絹代は驚きつつ、少年に近付いていった。
「ねえ、ここにさっきまで人がいなかった?」
少年は鋭い眼差しで絹代を睨みつけ、さあ、とだけ答えた。
「あなた、ここで何をしてるの?」
年寄り特有のお節介さというか、野次馬精神というか、とにかく考えるより前に疑問が絹代の口をついて出た。
少年は一瞥もくれず、何も答えなかった。座席に深く沈みこみ、一心に映画を見ている。その様子は、植物が太陽光を摂取するような、そんな印象を絹代に与えた。映画の光をその暗い瞳孔に集めて、それを糧に生きているような気がした。
「お婆さんには関係ないよ」
そんな無気力な様子を見て、絹代は怒りを感じた。
「あなた、未成年でしょ! 警察に届けるわよ」
少年はスクリーンから目を離さない。
「お婆さんだって、捕まるよ」
不機嫌そうな顔で、少年は呟いた。絹代は、少年が反応したことに手応えを感じた。
「あら、お婆さんはいいの。お節介で世話焼きで神経質なのが、お婆さんだから。男の子が映画館に忍び込んでいくのを見て、後を追っかけたら、映画を見ていたんです、なんて警察の人に行ったら、またお婆さんが余計なことに首を突っ込んだな、と思われるだけだもの」
少年は思いっきり顔をしかめた。
「女の子を待ってるだけだよ」
この時、初めて少年は絹代と目を合わせた。純粋そうないい目をしている、と絹代は思った。影があるのが少し気になるが、真っ直ぐで素直な瞳だ。
「邪魔だから、どっか行ってよ」
少年の意地っ張りな態度に、絹代の悪戯心がくすぐられた。
「その子、どんな子なの?」
「何で、話さなくちゃいけないのさ」
「いいじゃない。それとも警察のお世話になりたいのかしら?」
少年は絹代を睨むが、彼女にはそれが子供の無邪気さを連想させて、微笑ましくなった。
「……いつも一人でここにいて、よく遊んだんだ」
少年の話を聞いているうちに、絹代は物語の中に吸い込まれていった。
――少年がその女の子に出会ったのは、台風で映画館が崩れる、ちょうど一年前だった。少年はクラスメイトに煽られて、夜、映画館に忍び込んだ。
「お前は弱虫だもんな。肝試しも来ないんだろ」
別に弱虫だから肝試しに行けないんじゃない、家の用事があるから仕方ないんだ、と反論すると、彼らは、
「じゃあ映画館に、これ置いとくから、夜に取りに行ってこいよ」
と少年の筆箱を持っていってしまった。
少年は一歩一歩、踏みしめるように映画館を進んでいく。クラスメイトが待ち伏せして、脅かしてくるかもしれない、そう思ってのことだった。
重く、しっかり閉じた扉に体重をかけて、少年は上映室に入った。スクリーンの青白い光が少年の目を刺した。手で光を遮って、中の様子を探った。そこには一人の少女がいた。少年に気付いて、扉のほうへ振り返る。おさげが揺れて、スカートの裾が円を描いた。
「君、誰?」
6【3話/三百六十五歩のマーチ】0113
「あなた、人に名前を聞くときは自分から仰るのが礼儀でしょう? 特に女性に対しては」
その態度にむっとして、少年は名乗らなかった。すると、少女の方から話しかけてきた。
「ここで何をしてるの?」
「ふ、筆箱を探しるんだ」
「筆箱? もしかして、これのこと?」
少女が見せたのは、まさしく少年が探していた通りのものだった。
「そう、それだよ。ありがとう」
少年が手を伸ばすと、彼女はついと一歩下がった。もう一度、手を伸ばす。少女は一歩下がる。追いかけると、少女は逃げ出した。
「ねえ、返してよ」
少女の腕を掴んだ瞬間、二人はこけた。少年が覆いかぶさるような体勢になり、彼女を見下ろした。少女は笑っていた。屈託のない百合の花みたいな笑顔を少年に見せた。
「明日も、ここへ来てくれる?」
話を聞いている内に、絹世の中に在りし日の思いがこみ上げてきた。
「ねえ、その子のこと好きだったの?」
少年は苦い顔をした。ああ、そうね。私もこんな子の年の頃は、恋愛のれの字も知らなかったものね、と絹代は納得した。
「一つ、お願いしてもいい?」
絹代が頼んだのは、ある映画のフィルムを探すことだった。それは彼女の今は亡き夫が出演している時代劇だった。少年は嫌々ながら、お願いを聞いてくれた。半分は脅しに近いけれど、と絹代は自分の身勝手さを心の中で笑った。
「見つけたよ」
慣れているのか、少年はすぐにそのフィルムを見つけ出した。声は映写室から聞こえる。フィルムが回り始め、じーっと音が鳴る。スクリーンの中で波が砕け、ついに映画が始まる。絹代の記憶の通りなら、確か開始早々、主人公が強盗に一太刀浴びせるシーンだったはずだ。
「ぎゃあああぁぁぁぁああ」
果たして、その通りだった。ただ、斬られたはずの男がスクリーンから飛び出してきた。
絹代は驚いて、男の側に駆け寄った。
「あなた、大丈夫ですか?」
「あ、あれ?」
男は素っ頓狂な声を上げた。何故か、斬られたはずなのに怪我がない。
「この映画、一度見た。強盗を斬ったのは実は狂言で、主人公もグルなんだよね」
「そんなことより、この人、映画の中から出てきたけど、大丈夫なの?」
「戻りたければ、自分で戻るよ。皆、そうする」
「ちょっと待ってくだされ。いったい何の話でしょうか。というより、ここは?」
絹代はさらに驚いた。この声、あの頃と変わらない。いや、それは当たり前のことだけど、記憶の通り寸分違わない。
「あの、あっしは映画から出てきたのですか?」
「面倒くさいなあ。何となく分かってるでしょ」
「はあ、それはそうですが。ところで、ご婦人、あっしの顔に何かついていますか?」
「えっ、いえ、その……」
出会ったのも、この頃かしら。この田舎臭い感じに惚れたのね、と絹代は思った。勿論、普段はあっしなんて言わなかったけど。
「すみません、急ぎの用があります故、帰らせてもらいます。失礼」
男はスクリーンに向かって、飛んだ。水面に吸い込まれるように、男は映画の中に戻っていった。
「ねえ、これ最後まで見るの?」
絹代は、もう止めて、と言った。あの人が出るのは、このワンシーンだけ。話の筋もありきたりでつまらない。だけど繰り返し見たのは、あの人が出ているからだった。あの人の隣に座って、あの人の手を握って、あの人の横顔を見ていた。それだけで二時間なんて、あっという間に過ぎていった。だから、最後に見た映画の名前だって思い出せないのかもしれない。
「もし、その女の子に会えたら、まずあなたは何をする?」
絹代は少年にそう尋ねてみたくなった。私は何も言えなかったけど、若いあなたはどうするのかしら。