「君の料理は誰でも作れる」と言われたので、レシピを置いて婚約を解消しました
「君の料理は誰でも作れる」と言われたので、レシピを置いて婚約を解消しました
「君の料理は誰でも作れるよ。レシピさえあればね」
婚約者のアドリアンは、朝食の皿を見もしないでそう言った。
彼の向かいには、幼馴染のビアンカが座っている。昨夜の夜会で再会したばかりだという彼女は、焼きたてのパンをちぎりながら、困ったように微笑んだ。
「そんなことを言ってはだめよ。セシリア様は、あなたのために毎朝作ってくださっているのに」
「だって本当だろう。スープもパンも、材料と手順さえ分かれば料理人なら作れる」
アドリアンは匙を取り、きのこのポタージュを一口だけ飲んだ。
「うん。今日も悪くない」
それきり、彼は新聞を広げた。
私は彼の前に置かれた皿を見た。栗を刻んで混ぜたパンは、昨日より少し小さく焼いてある。夜会のあとで胃が重いと言っていたからだ。ポタージュには、牛乳を使っていない。ここ数日、彼は乳製品を口にすると胃がもたれると言っていた。
どれも、レシピには書いていない。
「そうですね」
私はナプキンを畳んだ。
「では、レシピを置いていきます」
アドリアンが新聞から目を上げた。
「置いていく?」
「はい。料理は誰でも作れるのでしょう?」
彼は答えず、ビアンカと顔を見合わせた。
私は食堂を出た。
廊下に出てからも、胸は不思議なくらい静かだった。悲しくないわけではない。けれど、驚きはなかった。
アドリアンのために朝食を作るようになったのは、婚約して半年が過ぎた頃だった。
彼は昔から朝が苦手で、緊張すると胃を悪くした。領地の会議や王都での式典が続く時期には、朝食を抜いてしまうこともあると聞いた。
最初は、彼の母親に頼まれてスープを届けただけだった。ところが、彼はその日、久しぶりに朝食を全部食べた。
「君のスープなら、朝でも飲める」
その言葉が嬉しくて、私は翌日もスープを作った。
やがて、彼が食べられる量や苦手な食材を覚えた。夜会の翌日は塩分を控える。寝不足の日は、香草をきかせた温かい汁物を添える。胃が重いと言った翌日は、油を減らし、柔らかく煮た根菜を多めにする。
料理人に頼めば、どれも作れる。材料も、火加減も、手順も、紙に書けば伝わる。
けれど、彼の体調に合わせて何を作るかを決めるには、彼の言葉を覚えていなければならなかった。
「奥様、今朝のお食事はいかがでしたか?」
部屋に戻ると、侍女のマルタが尋ねた。
「悪くないそうよ」
「それは、よかったです」
マルタはほっとした顔をした。彼女もまた、私が毎朝どれほど献立を考え、台所と相談してきたかを知っている。
「レシピを書いておくわ。材料と手順だけでなく、彼がどんな日に何を食べたかも」
「……それをお渡しになるのですか?」
「ええ。誰でも作れるのだもの」
私は執務机に向かった。
薄い冊子を広げ、まず、きのこのポタージュを書いた。分量、火加減、煮込む時間。栗入りのパンも、スープに添える根菜も、思い出せる限り正確に記した。
最後のページには、料理の作り方とは別に、短い注意書きを添えた。
> 夜会の翌朝は、胃が重いと言うことが多い。牛乳を使わず、塩は控えめに。食べるのを急かさないこと。
> 雨の前日は眠りが浅くなる。温かいものを好む。
> 「食欲がない」と言っても、スープなら半分ほど飲めることがある。
書き終える頃には、窓の外が暗くなっていた。
翌朝、私は冊子と婚約解消の申入書を、アドリアンの家へ届けた。
彼は執務室で書類を読んでいた。私が入ると、眉を寄せて立ち上がった。
「これはどういうことだ」
「婚約解消の申入書です。こちらが、朝食のレシピになります」
「料理のことは冗談だった。こんなことで婚約まで解消する必要はないだろう」
「冗談ではなく、本当だとおっしゃいました。料理は誰でも作れる、と」
「言い方が悪かった。君が作る料理を否定したかったわけじゃない」
「では、何をおっしゃりたかったのですか?」
アドリアンは言葉を探すように黙り込んだ。
彼の隣には、ビアンカがいた。彼女は私の手元の冊子を見て、申し訳なさそうに目を伏せる。
「セシリア様。私のせいで、こんなことに……」
「あなたのせいではありません。私は、婚約者に自分の仕事を当然のものとして扱われることに疲れたのです」
「でも、アドリアンは――」
「ビアンカ」
アドリアンが彼女を制した。
私は申入書を机に置いた。
「これまで作ったレシピと、必要な情報はすべて書きました。あなたが誰に料理を頼むかは、あなたが決めてください」
「待ってくれ。君がいなくなったら、朝食はどうすればいい?」
「この冊子に書いてあります」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味ですか?」
彼はまた黙った。
私は、答えを急かさなかった。彼が私の気持ちを尋ねるのを、何度も待ってきたからだ。
けれど、彼は結局、私の気持ちではなく、朝食のことを心配していた。
「署名をお願いします」
「セシリア、少し考える時間をくれないか」
「考える時間は、これまで何度もありました」
私は彼の前に置いたペンを見た。
「あなたが私の料理を食べるたび、私はあなたの顔色を見ていました。今日は食べられそうか、胃は痛くないか、夜会で無理をしていないか。あなたは、料理人なら作れると言いました。なら、これからは料理人に頼んでください」
アドリアンは冊子を手に取った。
その表紙には、日付と料理名が並んでいる。彼が食べた日。食べられなかった日。食べる量を少し増やした日。
彼は初めて、そこに書かれた日付をじっと見た。
「君は、毎日これを記録していたのか」
「必要でしたから」
「俺のために?」
「そう思っていました」
彼は何かを言おうとした。でも私は、返事を待たずに部屋を出た。
婚約解消の手続きは、両家の話し合いを経て、ひと月後に正式にまとまった。
私は自分の領地へ帰った。そこでは、秋の収穫を祝う食事会の準備が始まっていた。畑からはさつまいもが届き、森からはきのこと栗が届く。川沿いの村では、漁師たちが戻りガツオを水揚げしたという。
私は領地の館に小さな食堂を開くことにした。領民も旅人も、同じ長い卓を囲める場所だ。
「厨房の仕事を手伝わせてほしい」
そう申し出たのは、幼馴染のユリウスだった。
彼は隣村の宿を切り盛りしている。子どもの頃、私が菓子を焼くたびに、彼は味の感想を言うより先に、台所の道具を洗ってくれた。
「料理人を雇うんじゃないのか?」
「雇うわ。でも、開店までは手が足りないでしょう」
「感想を聞かせてくれる人も必要よ」
「感想なら言うさ」
ユリウスは、作業台に置かれた栗の籠を持ち上げた。
「でも、味を褒めるだけで帰ったりはしない。食べたら片づける」
その言葉が、胸にすとんと落ちた。
開店の日、私は秋鮭ときのこの包み焼きを作った。付け合わせには、さつまいもの甘煮。食後には、栗を使った焼き菓子を用意した。
ユリウスは一口食べて、静かに頷いた。
「うまい」
「それだけ?」
「いや。鮭は塩を控えめにしてあるね。きのこの香りを残したかったんだろう」
私は目を見張った。
彼は料理を褒めるためではなく、味わって、考えてくれたのだ。
食事会が終わると、ユリウスは何も言わずに皿を重ね始めた。
「私もやるわ」
「今日は店主だろう。座っていていい」
「二人でやれば早いわ」
私が布巾を手に取ると、彼は笑って、洗い場を空けた。
皿を洗う音の向こうで、食堂にはまだ人々の笑い声が残っている。
「セシリア」
「なに?」
「今度、二人で食事をしないか。仕事の話は抜きで」
私は濡れた手を拭いて、彼を見た。
「食べた後は?」
「もちろん、片づける」
「では、約束ね」
今度は、私の返事を待ってくれる人がいる。
「君の料理は誰でも作れる」と言われたので、私はレシピを置いて婚約を解消した。
料理を作ることも、誰かを気遣うことも、ひとりで抱え込むことではない。
これからは、同じ卓につき、食べた後の皿を一緒に片づけてくれる人と暮らしていこう。




