勘違いは正されるべきか
「エヴェリーナ、お前の嫁ぎ先が決まった。今週末には出発しなさい」
「あの――」「話は以上だ。下がりなさい」
「はい、失礼します」
今週末だなんて遠まわしにおっしゃっても、要するに出発は明後日なのではなくて?
それでしたら旅支度は、明日一日で終わらせなくてはいけないわね。
そもそも、まとめるほどの荷物などないのですから、それほど急がなくてもいいのかしら。
古びたお仕着せは、丁寧に継ぎを当ててはいるけれど、もう生地自体が薄くなっています。それでも、新しい制服を支給されることはありませんでした。
元来、そのようなことを気にする父ではありませんでしたね。
「支度金はどうしたのかしら」
婚約ではなくいきなり結婚だなんて、お相手はワケありだといっているようなものね。
そうであるとしても、未来の妻が古びたお仕着せであらわれたら、夫となる男性はどれほど驚くのかしら。
支度金の行方を疑われるような真似を、恥知らずにも実父がするとは情けないわね。
おそらく、自由になるお金が足りないから、わたしを嫁に出して、支度金をせしめるつもりなのでしょう。
父は自分の装いには気を使うけれど、娘がなにを着ていようが気にもとめない。寄親が主催する夜会も欠席する始末で、社交を軽く考えているのでしょう。
母が亡くなってからは、調度品などをお金に変えようとするのを防ぐため、貴重な品はプルーシャ伯爵のお屋敷に預けています。
わたしのドレスや装飾品も同様にしているのは、ここには着付けを手伝う侍女がいないから、仕方がないのですわ。
ですから、わたしがお茶会や夜会に参加する際は、毎回、伯爵家に出向いているのです。
「お父様は正気なのかしら。嫡子であるわたしを嫁がせたら、子爵代理の仕事を失うのに」
それどころか、父は平民になるしかないわね。子爵の三男が、いまさら実家に戻ったところで、なにができるというのでしょう?
それにこの婚姻を、寄親であるプルーシャ伯爵はご存知なのかしら。
相手の名すら教えてもらえなかったけれど、派閥を無視したら、いまある支援は望めないのに。
父はそれをまったく理解していないので、今回の話はさすがに心配になりますわね。
おそらく、プルーシャ伯爵は私の夫に、自分が目をかけている男性を選ぶはずなのですが。
「お父様のご実家から、いらぬ助言でもあったのかしらね」
昔から、家のことは母に任せきりでしたから、父は子爵としての務めを知らずに、代理として働いているのです。
いえ、むしろ父は、自分が子爵のつもりでいるのでしょう。高いプライドのせいで、仕事の内容がわからなくても、わたしに聞いてきたことは一度もないのですから。
父は婿入りしているので、正しくは当主ではないのです。チュレヤ子爵家の三男だった父が、嫡男としての教育を受けていたとは思えません。
うちには治める領地がないので、寄親から支援を断られたら、この屋敷を維持することはできないでしょう。
「まさか、この街や近隣の村を領地だと思ってはいないわよね?」
自分の父親を、そこまで無知であるとは思いたくないのだけれど、ここまで浅はかな行動を繰り返されると、疑わざるを得ないわ。
ここはプルーシャ伯爵の領地で、ヴェドラル子爵の仕事は単なる代官に過ぎず、この街とまわりの三つの村の、税収などの管理を任されているだけなのです。
「プルーシャ伯爵と叔父様に、急いで手紙を出さなくては」
いまからだと、わたしが出発する前に止めてくださるのは不可能だわ。それを考えたから、期限間近にわたしを呼んだのね。
「普段なら、執務室の前を歩いただけで、過剰な反応をするのですもの」
どれほどわたしを、当主の務めから遠ざけたいのでしょうか。
それでも母が守ったこの屋敷を、叔父様のためにも手放すわけにはいかないわ。
祖父母がはやくに亡くなり、幼い叔父様のかわりに母は当主となりました。若い女性と侮られ、父の婿入りを許しはしたけれど、チュレヤ子爵家にそれ以上の口出しはさせていません。
「ドレスや装飾品は伯爵家に預けてあるし、屋敷のことは叔父にも相談しているのだから、最悪なことにはならないでしょうけれど」
でも、保険をかけておくのは大事だわ。
この屋敷には洗濯をするメイドがひとりと、馬の世話をする下男がひとりしかいない。
料理はお父様の愛人が担当しているけれど、あの人の紹介状は必要ないわね。
「お父様がこの屋敷をどうしたいのかは知らないけれど、長く勤めてくれたふたりが、路頭に迷うことは避けなければ」
お母様が亡くなったあと、わたしは後継ぎとして父親の自由になるお金を制限しました。
父は母とのあいだにわたしをもうけた後は、仕事もろくにせずに遊び暮らしていたのだが、なぜだか子爵として母の仕事を引き継ごうとしたのですもの。
父は自分よりも仕事ができる執事や侍従たちを解雇し、自分の好きなようにこの街を治めるつもりでした。それに気づいたわたしは、寄親であるプルーシャ様に相談し、わたしが成人するまでは、父を放置することに同意していただいたのです。
「あのときは、この倍どころではない量の紹介状を書いたわね」
使用人は半年ごとに減り続け、母が亡くなって一年経つころには、いまでも残っているふたりだけになっていました。
わたしは自分の部屋の掃除はできたけれど、食事の支度はしたことがなかったので、父がどういうつもりなのか見当もつかなかったのですが、すぐに理解することになりましたわね。
父は素性の知れぬ子連れの女性を、この屋敷に入れたのです。
女性は厨房で料理を担当したが、使用人の部屋ではなく客間に居座った。彼女の息子も一緒でした。
それどころか、食事のテーブルも共にしたのです。
「後妻にするのだったら、父ごと排除できたのだけど」
あれから一年近く経ちましたけれど、彼女はいまでも料理人として働いており、父の愛人ではありますが、籍を入れる気配はないのです。
高額なドレスや宝石をねだる気配もないし、よくわからない人だわ。
「嫌がらせも受けないけれど、わざわざ手を汚さなくても、わたしは令嬢には見えないものね」
ドレスで掃除はできないのですから、仕方がありませんわ。
いまのわたしは、辞めたメイドのお仕着せを着て働いているのです。ヨラナの体に合うものは、彼女に渡していますが、新しい服を支給したくても、父や愛人の目があるうちはむずかしいわ。
「屋敷で茶会を開きたいのだけれど、このままでは醜聞にしかならないのですもの」
プルーシャ伯爵に調査していただいた結果、彼女はミハーレク男爵家の庶子で、平民の商家に嫁いだけれど三年ほどで離縁され、子とともに実家に返されたようです。
産んだ子は男児なのに、父親が引き取らないということは、あまりいい理由で離婚したのではないのでしょう。
「彼女とは王都で知り合ったらしいので、父が子爵代理とは気づいていないのでしょうね」
父は決裁権を持たないため、執務室にこもって書類を眺めていても意味はないのです。実際に、父が作成した書類は中身がないものがおおく、勝手に税率を上げようとするたびに、わたしが書類をすり替えているのです。
伯爵様への報告書や決算書、納税証明なども、すべてわたしが作成しているのですが、父が気づいたことは一度もありません。
そのほかに屋敷内を整え、住民の代表と話をしているのだから、とても忙しいのです。
「さすがに、庭木の剪定は無理なのですけれど」
窓から見える庭は、庭師が辞めてから半年で荒れてしまいました。
母が愛した薔薇のアーチも、アブラムシによって枯れてしまったわ。
わたしが一年早く生まれていれば。そして母が三十六という若さで早逝しなければ。
「こんなことを考えていても、意味はないわね」
手紙と紹介状を書きあげると、旅行用の鞄は、ヨラナが探して持ってきてくれました。
町の質屋で手に入れたか、物置小屋のどこかにあったのでしょう。いずれにせよ、お相手の屋敷まで持ち手がちぎれなければいいのですけれど。
「叔父様たちへの手紙が着く前に出発しなければならないけれど、きっと伯爵様が止めてくださるわ」
まだ、わたしの親権がある父の暴挙を、平民となった叔父が直接止めることは不可能なのですから。
一日でできることはすべて済ませ、ヨラナとシモンには紹介状を渡しました。彼らへの賃金の支払いには、もとより父は関わっていないので、不備が起こることはないでしょう。
急にお金が必要になる可能性を考えて、手持ちの硬貨をヨラナに渡します。
食材などは商会から納品され、請求書が届いてから決裁するのですが、売り掛けにできないちいさな店では、現金での支払いが必須なのですから。
「エヴェリーナ様、現金をお持ちにならずともいいのですか?」
ヨラナが心配しているのは、わたしが普段から屋敷にお金を置かないからです。
「足りなくなったら銀行で引き出すから、心配はいらないわ」
「エヴェリーナ様が、そのような姿で嫁入りなどと――」
そうね。お母様が生きていたら、きっと泣かれてしまうわ。
「大丈夫よ。叔父様と、プルーシャ伯爵に手紙をだしたのですもの。誤解が解けたら、すぐに帰ってくるわ」
ヨラナは、わたしが生まれたときから屋敷にいますからね。婿をとることは決まっていたので、よけいに受けた衝撃がおおきいのでしょう。
屋敷においていたのは動きやすい仕事着だけで、伯爵家を訪問するとき用のワンピースしかありませんでした。いま着ているのがそれです。
好意的にみると、商家の娘の装いともいえるでしょう。
下男であるシモンではなく、貸し馬車屋が引いてきた一頭立ての馬車に乗り、わたしは生まれた屋敷から旅立ちます。
当然、父の見送りはありませんでしたが、相手にはすでにサイン済みの婚姻届が送られており、わたしが着いたら提出する流れなのだと教えられました。
わたしはサインしていないのですから、父がかわりに記入したのでしょうけれど、本人に会って無理だと思われたら、わたしはどうしたらいいのでしょうか。
「父が勝手にしたことだと、理解してくださる方ならいいのですけれど。それに、もしものときは帰りの馬車の代金を貸してくださるかしら」
わたしは相手が誰なのかも知らず、どこに連れて行かれるのかもわかりませんでした。
銀行にさえ立ち寄ることができたなら、よほどのことがない限り、旅の最中でも困ることはないはずです。ただ、銀行は領都のような大きな街にしかないので、はやくプルーシャ伯爵が止めてくださることを願い、馬車に乗り込みました。
出発から十二日目に、馬車は国境近くの街にある、手入れの行き届いた屋敷の前に止まりました。
外はもう薄暗くなっていて、扉を開けて馬車を降りると、御者は振り返りもせずに来た道を帰って行きます。
たとえこれから嫁ぐ家だとしても、このような時刻に訪ねるのは失礼にあたるので、出直したいと思いました。
きょうは宿に泊まる日だったので、身支度を整えてから訪問したかったのに、御者の姿はもう見えません。
「旅費が足りなかったのかしら」
屋敷を出てから、宿に泊まったのは三日に一度だけ。あとの二日は、馬車のなかで眠らなければなりませんでした。
残念なことに大きな街に立ち寄ることはなく、泊まるのはちいさな村の宿です。それに、わたしが村の中を出歩くことは、安全性の問題でやめてほしいと願われました。
「このペースですもの。叔父様たちだって追いつけないわよね」
ずいぶんと急いでいたようですし、父に無理をいわれたのかもしれませんわね。
荷物も持たず、馬車の扉も開けず、乗降のために手も貸さない御者でしたから、父は代金の支払いをそうとう渋ったのでしょう。
「ほんとうに、このお屋敷であっているの?」
侍女もいないので、荷物を足元に置きノックをする。すこしでもよく見られようと、パサつく髪を手ぐしで整え、頬をつねって赤みをだします。
こうすると、血行がよく見えると聞きました。
「まあ! 正面から来るなんて厚かましい」
出迎えてくれた壮年のご婦人は、顔を合わせるなりそういいます。
名乗らなくても、私が来ることは伝えられていたようですが、この女性の反応から、歓迎されてはいないことがわかりました。
『きっと、父が無理やり押しつけたのだわ。これでは、帰りの旅費を貸してもらうのはむずかしいわね』
このような時間では、とうに銀行は閉まっています。追い返されたら、今夜の宿代がありません。
玄関にあらわれたご婦人から、中年の使用人に引き継がれ、屋敷の外を歩いて裏側にまわりました。
あいさつをすることもできず、荷物も自分で持ち、裏口へとうながされると、草臥れた旅装束を脱ぐようにいわれました。どうやら、お湯を使わせてもらえるようです。
いいえ、ちがうわね。汚れた姿で屋敷に入られるのを嫌ったのでしょう。
「あんた、浴室の使い方は知ってるのかい?」
屋敷の案内を引き継いだ年かさの使用人は、少々無遠慮にそういいました。
わたしはこの屋敷に住む、どなたと婚姻を結ぶのでしょうか。使用人からこのように振る舞われるということは、相手は名ばかりの貴族なのかしらね。
父のことだから、わたしを平民に嫁がせるとは思えないのだけど、こちらが無理をいえたのならば、男爵様なのでしょうか。
「ええ。わかります」
使用人が使う洗い場で、砂ぼこりをていねいに落とします。
移動中も二日おきに宿を利用したので、桶にお湯がもらえたけれど、髪を洗うのは久しぶりです。
よく乾かしてから櫛で梳かし、いちばん格式の高いワンピースに着替えると、さきほどよりは貴族らしく思えました。
「こっちよ」
なぜか裏口から出て、今度は右に進みます。正面玄関とは逆ですが、左手側に使用人が使うちいさな門がありました。
裏庭の端に建物が見えます。案内をしてくれた使用人が扉を開けると、わたしをなかに通して、ここで待つようにいいました。
「あの、旦那様と話がしたいのですが」
夫となる人を、ご主人様と呼ぶのもどうかと思いましたし、残念ながらお相手の身分も名前もわからないのです。
父から名前を聞いていればよかったのですが、閣下などと呼んで、相手の身分が下でしたら嫌味にしかならないと考えました。
「はぁ? あんたを気に入りゃあ、好きなだけ話せるでしょうよ」
バカにしたような口調でそういい捨てると、使用人の女性は扉を閉じて立ち去りました。
「まぁ!」
父はわたしをどう売り込んで、嫁入りさせようとしたのでしょうか。
「困ったわね。伯爵様が止めてくださると思うけれど、わたしが子爵だと知らずにいるなら問題だわ」
少なくとも、あの使用人はただでは済まないわね。
せめて、父がもう少し話をしてくれたらよかったのだけど。あの御者も無駄口を叩くことはなく、はやくこの屋敷にわたしを送り届けることしか、頭にないようでしたし。
「ほんとうに、ここが嫁ぎ先なのかしら」
だれかと間違えられているのではないかと考えたけれど、ちいさなリビングの奥は寝室で、使用人が使うには立派すぎるベッドが置かれていました。
わたしがこれから暮らすのは、この古びた離れらしいのです。
父がみつけた夫は、わたしを必要とはしていないのでしょう。
「まだ、お名前すら存じ上げないのに。はやく間違いを正さないと、大変なことになるわ」
名乗ることもなく、もしかすると、このまま会うこともなく、ここで一生を過ごすのでしょうか。
どこに行っても、わたしが歓迎されることはないと思うと、自然と涙が浮かびます。
「婚姻届が提出済みだとしたら、どうしたらいいのかしら」
ちいさなキッチン付きの居間と寝室、トイレと浴室があるだけの離れは、夫婦で住むようなつくりではありません。
わたしは名ばかりの妻で、きっと死ぬまでこの場所に閉じ込められるのでしょう。
疲れて眠ってしまったわたしは、暗闇の中にだれかがいるのに気づきました。
体の大きさから男性だとわかり、とっさに叫ぼうとして我に返ります。もしかしなくても、この方が私の夫なのでしょう。
「あっ――」
困ったことに、わたしは夫となる方の名を知りません。お顔を拝見しても、わたしの記憶にある貴族のだれとも似ていませんし。
そもそも身分がわからない相手に、こちらから話しかけることはできないのです。たいていは子爵であるわたしよりも、格上である可能性が高いのですから。
「これを」
男性はゆっくりとベッドに近寄り、液体が入ったカップをわたしに手渡しました。匂いはないので、ただの水でしょう。いまさら毒を盛る理由もありませんから。
わたしは黙って受け取り、最後の一滴までも飲み干します。
のどが渇いていたからか、流れるように胃に落ちていくその水は、終着点で燃え上がるかのように熱を発しました。
それから起きたことは、よく覚えていないのです。おそらく状況的に、初夜を過ごしたのでしょう。
夫はすでに服を身に着けていましたけれど、わたしはベッドのなかで全裸でした。
『どうしましょう。誤解を解く前に、既成事実をつくってしまいましたわ』
かけ布を首までひいて、身を起こします。体中が痛くてたまりませんでしたが、馬車で座り続けるよりは我慢できました。
夫はそんなわたしを見て眉をひそめると、持っていた小ビンを傾けて、その中身をカップに注ぎます。
「飲んでおけ。そして身支度が済んだら、裏口から去れ。これが今回の謝礼だ」
昨夜と同じカップをサイドテーブルに置き、小さな革の巾着をベッドに放ると、夫だと思った男性は寝室から出ていきました。
その後姿から目が離せませんでしたけれど、わたしは去れといわれたのだと、ようやく頭に届き理解しました。
「なぜ?」
呆然としていたわたしが声を出せたのは、ドアが閉ざされてから、だいぶ経っていました。
とりあえず落ち着こうと、カップの中身を口に含みましたが、急激な吐き気をもよおし、トイレですべて出してしまいました。
昨夜はなにも食べなかったので、吐けるものなどなかったのてすが、わたしの体からは苦い胃液と涙があふれ出ます。
徐々に嗚咽がおさまり、口と手を洗ったついでに、浴室を使って身を清めました。
あの男性の姿はどこにもなく、寝室どころか離れから出ていったと知りました。彼が夫ではなかったのならば、わたしは夫と顔を合わせる前に、不貞を犯したということなのでしょう。
きっとそれを理由に、婚姻を無効とするのです。それに、慰謝料を請求されたなら、こちらが支払わなければなりません。
わたしの嫁入りは、それほどまでに迷惑だったのだと知りました。
「慰謝料を払うとなれば、家に戻ったらろくな目にあわないわね」
きっと、この屋敷の主は、名ばかりの妻に大金を支払ったのでしょう。そうでなければ、父がわたしを売り払うような相手ではないと思うのです。
婚姻が成立しなかったばかりか、不貞を犯した娘を、父がどうするのかなどわかりきっています。
「きっと、対外的にはこの家に嫁いだことにして、一番高値をつける者に売り払うわね」
今度は、相手の身分などを吟味する必要はないのですから。
プルーシャ伯爵からの支援も、今後はなくなることを考えなくては。わたしの価値は、ずいぶんと下がってしまったのてすもの。
身だしなみを整え、汚れたシーツは浴室に集めました。いまは、これらを洗っている暇はありません。兵士たちの詰所に突き出される前に、ここから立ち去らなければならないのです。
あの男性も、裏口から去れといっていましたし。
暗い色の布で頭をつつみ、端は首に巻く。スカーフのように軽やかなものではありませんが、ないよりはマシです。
巾着の中身は銀貨が二十枚。これが相場なのかはわかりませんが、盗んだと訴えられては困ります。
しかし、無一文で逃げることはできないので、思いきって下着のなかに隠しました。
金貨でなくてよかった。わたしのような若い女性が、高額硬貨を所持していたら、問題しか起こらないでしょうから。
すぐに裏口から出て、乗合馬車を拾いましょう。
いくらお金があったとしても、銀行に行くことはできません。お金を引き出せば、わたしがこの場にいたことが記録に残ってしまいます。
これから失踪する者としては、目立つ行動は慎むべきでしょう。
わたしは、ちぎれそうな持ち手ごとカバンを抱え、だれにも見つからないように、うつむきながら裏口に足を進めました。
「なんだ、騒々しいな」
裏口に、主人に会いたいと訪ねてきた女性がいるというから、家令の私が話を聞くために声をかけた。
裏口から来るような身分の人間が、約束もなく屋敷のあるじに会えるわけがないのだが、だれが来たかと思えば、顔見知りの娼婦だった。
「ちょいと、ダンナ。一昨日の夜だけど、アタイは屋敷に来てないって、店にいってほしいんだけど」
アネタは、胸もとがひらいたドレスの上から、野暮ったいショールをかけて、ここまで来たらしい。
近所の目があるから、いちおう気をつけてはいるようだ。
「一昨日は、たしかにアネタは来ていないが、なにか問題が起きたのか?」
「急に約束を破っちまったけど、かわりは来たんだろう? ババアは、アタイが売り上げをピンハネしたっていうんだよ」
あまりに大きすぎる声に、中に入れてくわしく聞けば、一昨日の夜は彼女の担当だったという。
「来たのは、はじめて見る顔だったぞ。痩せた若い女性だった」
「はぁ? アタイは店にいったよ。都合が合わないから、ジュリィ゙をかわりをやっとくれって」
ジュリィ゙はあの店の娼婦の中でも、大柄で豊満な体つきの女性だ。あの日の娼婦とは、似ても似つかない。
「どういうことだ?」
手配した娼婦は来なかった。では、あの女性はだれだったのか。
ローベルト様は、ジャールスカー伯の次男ですが、一年前に嫡男であるルドヴィーク様が急逝したために、軍を退役して次期当主となられた方です。
その主人のために月に二度ほど娼婦を招くのは、あるじが娼館に行くには差し障りがあるためだ。
ここ数か月はずっとそうしていたし、いままで問題が起きたことはない。貴族相手に騒ぎを起こす娼婦は、ひとりもいなかった。
娼館をとおして斡旋させていたから、病気や妊娠の心配も必要ない。事後には必ず避妊薬を飲ませていたから、妊娠を企む者もいなかったのだが。
チュレヤ子爵の孫娘が、今月中に嫁いでくることが決まり、娼婦を呼ぶのも最後だったのだが、いったいどういうことなのだろう?
あの女性はどのようにして、この屋敷に侵入したのだろうか。
「とりあえず、きょうは帰ってくれ。確認が済んだら店に連絡する」
これは大変なことが起きている。そう考えて、ローベルト様の帰宅を、いまかいまかと待ち続けた。
「つまり俺は、妻となる女性を娼婦として抱いたあと、はした金を投げ渡して追い出したと?」
「子爵家にまだ確認をしていませんが、その可能性が高いかと」
所要で屋敷に戻るのが遅くなったが、ソファに腰を下ろすなり、家令から娼婦の話を伝えられた。
俺はあまりのことに、頭を抱えてソファに沈み込む。
離れに娼婦を呼ぶのはあれが最後で、契約は終了と伝えていたからか、娼館は適当な女を寄越したのだと考えていたのだ。
その娘ははじめて見る顔で、思ったよりも若く慣れていなかった。だが、嫌がる素振りを見せなかったから、新顔なのだろうと納得したのだ。
妻となる娘が子爵邸を立ったのは、今月の五日のはずだ。新婦が記入する欄が埋まった婚姻届とともに着いた、父親からの手紙にはそう書かれていた。
ここに着くには、最低でもあと三日はかかるはずだが、どれほど馬車を急がせたのだろうか。
「あれからもう、二日も経っているんだぞ」
昨日の早朝に屋敷を出て、昨日と今日の二日間だ。この街の宿に泊まっていればいいのだが。
勘違いとはいえ、あのような無体を働かれたのだ。ふつうならば、はやくこの地から離れたいと思うはず。
「貴族の女性なのですから、神殿に身を寄せたのやもしれませんぞ」
予定より五日もはやく到着するなど、あり得るのだろうか。その予定すら、天候が悪化すると遅れるものである。
「あの疲弊した様子から、借金の形に売られた村娘かと思ったが、長旅から解放されたばかりだったのだな」
馬車ではなく馬に騎乗したか、宿に泊まっていないとしか思えん。
「すべての宿と、神殿を調べてくれ」
「そのような女性は、ここ数日どころか年単位でも見かけないとのことでした」
翌日、二手に分かれて、早朝から街中の宿と神殿や、保護施設をたずねてまわったが、彼女はどこにもいなかった。
この街のどこにもいないと確信したので、子爵家に早馬を飛ばす。
家に帰った可能性もないとはいえず、令嬢が着いた際には謝罪に訪れたいとつづった。
恥知らずにも、俺は誤解を解いて謝罪をすれば、予定どおり婚姻を結んでも構わないと考えていた。
婚約期間ももたずに婚姻を許可するような家なのだから、子爵家では彼女を持て余しているのだろうと。そのように、彼女のことを軽く考えていたのだ。
それから数時間後、その子爵家の寄親だというプルーシャ伯爵からの早馬が着いた。
そこから知った事実に、絶望を覚えたのは当然のことだ。彼女は子爵で、俺はまだ伯爵家の子息でしかなかったのだから。
この屋敷を訪れたとき、家政婦に厚かましいといわれ、裏口に回されたと聞く。しかも彼女の相手をしたのは、侍女どころかメイドですらなく、下女だったと報告を受けた。
「相手が貴族だとは思わなかった、か」
汚れていたから離れの浴室ではなく、半地下にある使用人用を使わせたのか。
彼女が子爵と知り、俺や家令だけではなく、対応した家政婦や下女の顔にも色がない。どれほどの罰が下されるのか、血の気が引くのも当然だろう。
それほどまでの無礼を、わが伯爵家の使用人たちが働いたのだ。その最たる者が俺で、彼女に無体をしいた上、裏口から出て行けといい放置した。
エヴェリーナ・ヴェドラルか。
婚姻届はいつでも出せる状態だから、すぐにでもジャールスカーという姓にできる。妻としてなら、こちらが捜索の主導権を握ることがてきるのだ。
しかし、それに意味はあるのか? 妻となるはずの娘は、俺の所業に絶望して、すでにこの地を去ったのだから。
手を出したのだから、責任を取って籍を入れるべきなのだろうが、そもそも彼女は子爵本人で、婿をとるはずだったという。
俺はチュレヤ子爵に騙されたのか。
愚かな祖父と父親のせいで嫁に出され、よりにもよって、娼婦と間違われて乙女ではなくなってしまった。
あれが合意の上かと聞かれれば、違うとしかいえないだろう。彼女はなにかをいいかけたが、俺は娼婦との会話が面倒で、話もせずに催淫剤を飲ませたのだから。
『旦那さま――』あの娘は、俺をそう呼んだ。
彼女は妻になるつもりだったのか? 彼女は俺を夫だと認めていたから、そう呼んだのか?
あのときは、娼婦が媚を売っているのだと、気にもとめなかったのに。
彼女は初夜を済ませたその朝に、出て行けといった夫をどう思ったのだろう。
俺はすぐに、プルーシャ伯爵を訪れるための旅支度をはじめた。
長旅になるので、ヴェドラル子爵の捜索は家令に任せる。両親もいることだし、ひと月ほど留守にしても問題はないだろう。
十日ほどで、プルーシャ伯爵の屋敷がある街に着き、宿から訪問を願う手紙を出す。
どれほど待たされるだろうかとヤキモキしていると、明日会ってくださるとの返事が来た。
プルーシャ伯爵の邸宅には、ヴェドラル子爵の叔父も呼ばれており、お互いに情報を交換しする。
俺は彼女を貴族とは思わず、無礼を働いたことを謝罪した。だが、娼婦として扱ったことは黙っていた。
卑怯だとわかっていたが、彼女の名誉に関わることを、軽々しく口にするわけにはいかなかったのだ。
彼らが信用に足る人物か不明なうちは、口を閉ざす。彼女が話してもいいといったのなら、そのときは殴られる覚悟で懺悔するつもりだ。
ヴェドラル子爵と縁を結ぶきっかけや、我が屋敷に彼女が到着した日、そして行方がわからなくなった経緯などを確認する。
彼女は若いながらも、しっかりと当主として働いており、父親に足を引っ張られながらも、堅実に役目を果たしていたようだ。
「チュレヤ子爵とはね。めっきり話題にのぼらなくなったから、のんびり隠居生活をおくっているとばかり思っていたよ」
「姉の結婚当初から、つきあいはなかったですからね」
プルーシャ伯も彼女の叔父も、チュレヤ子爵が関わっていたのは予想外だったらしい。
「では、姪がそちらに着いたのは、先月の二十一日だったのですね?」
ヴィート殿が、手帳を見ながら確認する。
「はい。手紙には六日に出発するとあったので、ずいぶん早いとは思ったのですが」
「エヴェリーナから手紙をもらったが、実際は十日に出発している」
プルーシャ伯は、使用人にも確認したそうだ。
子爵邸に最後まで残っていたその使用人たちは、彼女から紹介状を渡されてしており、プルーシャ伯爵邸で働きながら、彼女の帰りを待つのだという。
「それが事実であるならば、十二日で到着したことになりますよ。早馬とさほどかわりませんね」
たしかに早すぎる。正しい出発日を聞くまえから早いと思っていたが、馬車で十二日など異常だ。
「私どもは、ヴェドラル子爵がどうやって屋敷まで来たのか、確認してはいないのです。使用人がいうには、子爵自らノックしたそうですし、荷物もご自分で運ばれていました」
使用人たちの話では、壊れかけたカバンを持ち、擦り切れたワンピース姿で正面玄関を訪れたので、裏口から入れたようだ。
俺が見たのはまだマシな服装だったが、お湯を使ったあとに着替えたらしい。
使用人をかばうわけではないが、その姿ならば自分でも貴族令嬢とは思わなかっただろう。
「うーん。エヴェリーナは、ドレスをこちらに預けていたからね。回収するまもなく出発したから、使用人にしか見えなかったのだろう」
「運悪く、傷んだ髪を切りそろえたばかりでしたし」
腰まであった巻き毛は、手入れする侍女がいなくなったことで傷みが目立つようになり、プルーシャ伯のもとで整えてはいたものの、背中の中央まで短くしたばかりなのだという。
それが無茶な長旅で、さらにパサつくことになったのだろう。
「馬車は子爵家のものだったのでしょうか?」
それが貴族に見えなかった理由でもあるが、居心地が悪くなり話をかえる。
よほどいい馬なのか。だが、休ませずに走らせ続けることはできない。
「いえ、貸し馬車屋を使ったとわかっていますが、まだこちらには帰っていないとの返事でした」
なぜだ? 天候は悪くなかったはずだか、行きは十二日で走った道を、帰りは十五日以上かかるのか?
俺は馬で移動したが、使った道は同じなはずだ。
「貸し馬車屋の主人の話では、子爵の父親からの依頼で、先月の十日から今月の五日、つまり昨日までの期間を、御者を含めて借りていました」
「その計画は、無理があるように思いますが」
ヴィート殿が手帳を確認しながらそういったが、二十六日間で往復など、ふつうは無理だろう。
だが、実際に往路を十二日で移動できたのだから、問題ないと判断したのか?
「そうですね。マクシムは毎日宿に泊まらなくてもいいから、とにかく急ぐことを強要したようです。長期の場合、御者はふたりであたるのですが、ひとりで十分だと押し切られたのだとか。ちなみに担当した御者は、デニスという五十代の男でした」
マクシムとは彼女の父親だが、義兄弟とはいえ平民が呼び捨てしていい相手ではない。
先ほどから一線をひいて話している男にしては、腑に落ちない態度だが、姪に対する扱いを思えば、かなり腹を立てている証拠なのだろう。
父親が娘を野宿させていたなど、あまりにも情がないのではないか。
「デニスという御者が戻れば、理由はすぐに判明するだろうね」
たしかにそうなのだが、そのように落ち着いていて大丈夫なのだろうか。
彼女が屋敷に着いたのは夕暮れ時だったから、その御者も街に泊まった可能性がある。
翌朝、追い出してしまった彼女を、御者が見つけて連れ去った可能性はないのだろうか?
ここに戻って、彼女の父親を強請ったのではないかと話す。
「うん、そういう考え方もできるのだね。実は、マクシムはすでに拘束されているのだよ」
十日前、国からの調査員がプルーシャ伯のもとを訪れ、ヴェドラル子爵の身辺に不穏な動きがあるの伝えられたという。
それは、俺が領地をたった翌日のことだな。
マクシムの愛人であるジャネタが、彼女の婚姻後なら養子をとってもいいだろうという安直な考えで、自分の息子を子爵の後継として届け出ていたという。
ヴェドラル家には縁もゆかりも無い、平民の子どもをである。
ジャネタは驚いただろう。一年以上ものあいだ機会をうかがっていたのに、マクシムの妻の座におさまったとしても、自分にはなにひとつ手に入れる権利がないのだから。
その上、息子を勝手に後継者にしたせいで、全員拘束されたのだ。
「いずれ国からの調査員は、君のところにも行くだろうね」
俺にも罪があるのだから、それは構わない。
できれば子爵本人に謝罪したいが、彼女はどこに消えてしまったのだろう。事件などに巻き込まれていなければいいのだが。
その日はプルーシャ伯の屋敷に泊まり、その翌日に貸し馬車屋の主人が御者を伴い、こちらを訪れた。
御者がいうには、交代用の御者も断られ、無理な旅程で契約させられ延長料金の支払いも渋られたため、主人のために元を取ろうと、宿に泊まるのは三日に一度きりだったそうだ。
護衛がいないので、通りかかった商会の馬車に混ざりながら、ほぼ野宿で送り届けたのだという。
だが、帰りが早すぎると怪しまれるので、復路はのんびり馬を走らせ、昨夜に到着したようだ。
料金をごまかしたわけでもなく、目的地に届けたことは間違いないため、それほど重い罪になるとは思えなかった。
領主であるプルーシャ伯が、民の不満が募らない程度に裁定するだろう。
その後、国の調査の結果、貴族家の乗っ取りが行われたと確定した。
ジャネタがしたことだが、マクシム・ヴェドラルの名前で書類が提出されたので、子爵家を乗っ取りますと、国へ宣戦布告したことになったようだ。
チュレヤ子爵からそそのかされたとはいえ、後継者として成人を待っていたエヴェリーナを、俺に嫁がせたのはマクシムであったため、言い逃れは不可能だったとみえる。
正当な相続人であるエヴェリーナ・ヴェドラル子爵は、いまも行方不明のままだ。
マクシムの実家であるチュレヤ子爵は、婿にやったあとは交流がなかったからと、無情にも息子を切り捨てた。それは愛人であるジャネタの実家、ミハーレク男爵家も同様だったと聞く。
だが、チュレヤ子爵は、エヴェリーナをローベルトに嫁がせようとしたことが判明していたため、無関係だとは認められなかった。受理されたのは、マクシムとの縁切りだけである。
そのため、マクシムは平民でありながら、子爵である娘を追い出したことになった。
平民が貴族を詐称して家を乗っ取ろうとしたのだから、罰はいちばん重いものとなるだろう
一年後、彼女はとうとう見つからず、被害者が不在のまま、父親であるマクシムとその愛人のジャネタ、まだ少年である連れ子のレネーですらも、処刑台にあがった。
結局、レネーの父親は不明なままだったという。
「まぁま!」
息子が手足を泥だらけにして、ちいさな庭から歩いてきた。まだヨチヨチといった足取りだが、歪な泥の玉を誇らしげに掲げてみせる。
「あらっ! 遠慮なく汚してきたのね。母さまはこんなにおおきな泥玉を、はじめて見たわ」
「んっ!」
「まあ、わたしにくれるのね。ミロシュ、ありがとう」
けれど、反対の手にも持っているその泥玉を、床に落とす前に外の水場で身を清めないと、家中が泥だらけになってしまうわね。
息子はとても活発な子で、一瞬たりとも目を離すことができなかった。
きょうは泥玉で済んだが、もしも害になるようなものを口にいれたり、おかしな転び方をしてケガをしたりするかもしれない。
けれど、せまい部屋に閉じこめておくわけにもいかず、悩んだ末に柵で囲まれた家庭菜園で遊ばせることにしたのだ。
「いまとなっては、這いまわる前の方が楽だったような気がするわ。人って、一年でこんなにも成長するのね」
数時間おきに起こされて、寝不足になっていたことを忘れ、リーナは受け取った泥玉を窓辺に置くと、あいたミロシュの手をとって水場に連れて行った。
早朝に逃げだしたあの日から、もう二年ちかく経つ。おどろいたことに、エヴェリーナはあの一夜で妊娠していた。
夫が用意したのか、それともあの家にはいることを拒んだ、夫の家族が手を回したのかはわからないが、素性のわからない男との子どもだ。
愛せないと思ったときもあったが、いまではかわいくて仕方がない。困ったようなふんわりとした眉と、ひたいのかたちは、自分によく似ている。
一瞬、寄せられた凛々しい眉を思い出し、頭を振ってそれを消し去った。
家族に恵まれなかった自分の、唯一の本物だ。この愛らしい子を、悲しませることはしたくないし、苦しむ姿など見たくもない。
擦り切れた服を着せ、使用人として生かすことなど、どうしてできようか。
「父親だと思っていたけど、あの人は家族じゃなかったのね」
父は、親になってはいけなかったのだわ。
「リーナ、今月の分は、もう織れたのかい」
「ええ、やっぱりこの紅色を入れてよかったと思うの」
「ふむふむ、たしかに見栄えがするねぇ」
「今回は、女性が好むように仕上げられたわ」
あの日、エヴェリーナは何度も馬車を乗り換えて、ふたつの町とその倍の村を越えた。そして、路銀が尽きることなく、この町にたどり着いたのだ。
隣国に行くには旅券がいるので、確実に姿をくらませられるとわかっていても、そちらは選択肢になかった。
旅費は銀貨で支払い、その一枚が全財産であるかのように振る舞う。そのときだけ泥棒だと疑われなければ、エヴェリーナが銀貨を持っているようには見えないはずだ。
硬くなった小さなパンを、ちまちまと口に運ぶ姿を見て、まわりの客たちは馬車代で精一杯なのだと察してくれた。
あまりにも切羽詰まった様子だと、体を売ることを提案されるので、あくまで節約しているふうに見えなくてはならない。
親切心を装って、はした金で女を買う男がいることを、エヴェリーナは買い物に出た際に、街の人から聞いて知っていたのだ。
この町に着いてひと月で、エヴェリーナは体調を崩し、自らの妊娠を知った。
町の薬師は、子を流す薬が必要かと聞いてきたが、悩んているうちに腹はふくらんでいく。
その頃にはもう、この子を失うことなど考えられなかった。
体調がいい日は手仕事をして、わずかばかりの生活費を稼ぐ。銀貨はまだ残っていたが、子が生まれたらこれだけでは生きていけない。
職業斡旋所で、賃金のいい商会の事務仕事を見つけたが、帳簿をつけられる平民女性はおらず、目立たないためには諦めるしかなかった。
「女性のひとり暮らしは、少なくないのだけれどね」
子どもがまだちいさいので、さらに選択肢は減る。賃金は低いけれど針仕事は家でもできるから、ない選択肢から選んだのが、この仕事だった。
貴族だとわかる名前をリーナに変えて、織った布や刺繍した小物などを商店に売る。
刺繍は嗜みのひとつだし、お仕着せを修繕していた経験が、ここで活かせるとは思わなかったが、リーナのつくる小物は品があり、比較的いい値段で買い取ってもらえた。
それに商店の女主人はとても親切で、リーナのために注文をとってくれるし、売れ筋の商品について相談にのってもくれる。
彼女が宣伝してくれるので、リーナの売上は少しずつ増えてきているのだ。
領都とは比べものにならないが、この町にいれば片親などめずらしくもないので、リーナはこれまでどおり、人びとに紛れて暮らしていける。
縁もゆかりもない土地だから、父に見つかることはないだろう。
「なぜなの?」
二年前に失踪した貴族の捜索願いだなんて、いったいなにが起こっているのかしら。
父が夫として選んだ男性は、ローベルト・ジャールスカーといい、伯爵家の子息だった。彼はわたしとの結婚と同時に、爵位を継ぐことになっていたらしい。
やはり妻帯者となり、後継者をもうける気配をみせないと、家は継げないのだろう。
あの夜の男性は、こ子息本人で間違いなかったようだ。わたしのことは、行き違いがあったと話しているようだが、あのような離れまで準備しておいて、なにをいっているのだろうか。
結婚する気がないのなら、そのまま追い返してくれればよかったのに。
「行き違いがあったとしたら、わたしの身分が子爵令嬢ではなく、子爵本人だったことぐらいかしら」
伯爵家を継ぐのならば、子爵家当主を嫁にするわけがない。父はわたしの身分を偽って、婚姻させようとしたのだ。
いえ、父は自分こそが子爵であると信じて、疑ってはいなかったのだわ。
けれど、こちらばかりが悪いとも言いきれない。
あの飲み物は避妊のための水薬らしいが、わたしは吐いてしまったので、効果がなかったのだろうと、薬師のお婆様が教えてくれた。
そんな準備をしていたのなら、彼はわたしと家族になるつもりは、はじめからなかったのだろう。
彼が子どもを産ませたい女性は、表には出ることができない素性なのかもしれない。
その女性のせいで、このような目にあわされたと思うと恨めしくもあるが、わたしには愛する家族ができた。
「なぜ探しているのかは書いていないわね」
父は問題を起こしたか、莫大な借金をしたまま亡くなったのかしら。だとしたら、なおさらあの街には近づけないわね。
いずれにせよ、叔父様がどうにかするでしょう。叔父様はすでに平民になっているけれど、わたしがいないのであれば、彼が相続人なのだから。
もしも、相続する財産より借金のほうが多ければ、ためらいなく拒否するでしょうね。
「叔父様が大切にしているのは、奥様と子どもたちだもの。彼女たちより優先すべきことはないと、叔父様はいつもおっしゃっていたわ」
叔父様が爵位をいらないというのなら、陛下にお返ししたらいいわ。
もしかすると、プルーシャ伯爵がうまく采配してくださるかもしれないし。
探されているのは子爵令嬢か。つまり婚姻は無効になっている。いまさら令嬢だなんて、笑わせるわ。愛する息子を、取りあげられるかも知れないのに、名乗りでるわけがないでしょう。
「たしかにあの家には思い出があるけれど、それはわたしの胸のなかにもあるわ」
そこにいなくても、隅々まで思い出せるわ。母の薔薇の香りだって、忘れてはいないもの。
しばらくすると、父親が亡くなったといううわさが流れてきた、
ここまで離れた土地でうわさにのぼるほど、子爵家は有名ではなかったはずだけど。
うわさの内容は、未成年の後継者を父親と愛人が追い出して、平民の子を貴族として届け出たことにより、子爵家の乗っ取りが発覚したという、不祥事だった。
平民が貴族の家を乗っ取ろうとしたから、こんな離れた土地にも、うわさが流れてきたのかもしれない。貴族同士の潰しあいだったのなら、平民の知るところではないため、ここまでひろまることはなかったと思う。
そもそも父たちの処分は、一年以上前に済んだことだった。
わたしはいまさらだとは思ったが、叔父様に手紙を書き、今後のことをお願いすることにした。申し訳なかったけれど、こちらの連絡先を知らせることはできない。
ジャールスカー伯爵家の人に子がいると知られたら、とりあげられるという可能性を捨てきれなかったからだ。
手紙にはすべての権利を放棄する旨と、爵位については叔父様にお任せしたいという希望、面倒ごとを負わせることへの謝罪をつづる。
プルーシャ伯爵への謝罪の手紙も同封したが、渡すかどうかは叔父様に委ねた。
なにかあったときのために、担保として家具や美術品、宝飾品などを預けていたのだ。あの方なら、わたしの思惑など、とうに承知していただろうし、ヴェドラル家にゆかりのあるものは、叔父の手にある。
だから子爵家の令嬢は、正式な跡継ぎになる前に失踪して亡くなった。それでいい。
どうせあと二年ほどで、貴族籍からの抹消を願い出ることが可能なのだ。叔父ならば、必要に応じてこの手紙を使うだろう。
「わたしもこの子も、父親には縁がないわね」
リーナとして過ごしたこの数年で、自信はかなりついたと思う。父親がいなくても、わたしたちは平民の親子として、ふたりで力を合わせて生きていく。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました
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ちなみに平民からすると、銀貨20枚はけっこうな大金です
登場人物
エヴェリーナ・ヴェドラル 17歳 子爵
ミロシュ エヴェリーナの息子(18歳で出産)
マクシム・ヴェドラル 41歳 父
チュレヤ子爵の三男
チュレヤ子爵夫妻 父方の祖父母 つきあいはないが
ジャネタ 32歳 料理人 ミハーレク男爵家の庶子
レネー 10歳 ジャネタの連れ子 男児
ヨラナ 41歳 ヴェドラル家の洗濯メイド
シモン 47歳 ヴェドラル家の下男 馬の世話 御者
ヴィート 30歳 叔父(母の弟) 平民として暮らす
クレメント・プルーシャ 50歳 伯爵 寄親
ローベルト・ジャールスカー 26歳 次期伯爵当主
ジャールスカー伯爵家の使用人
グスタフ 58歳 家令 痩せぎすの男性
ダニエラ 52歳 家政婦 壮年のご婦人
ヘルガ 39歳 下女
その他大勢
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