悪くない
――母は病院に搬送された。
包丁は深くまで刺さっていなかったようで、
血こそ大量に出たものの、命に別状はなかった……。
……それからしばらくして、私と真さんは婚姻届けを提出し、式を挙げた。
母は張り付けたような笑顔をしていた。
そして、真さんの家に引っ越した。――母抜きで。
――それから、しばらくしたころ。
仕事が終わり、屋敷の前で送迎の車から降りた。
白雪明理紗
「ふう……」
運転手に屋敷の門を開けてもらったその時、
女性
「あら、白雪さんの奥さん!」
背後から声がした。
振り向くと、私よりも歳上の女性が、笑顔で立っている。
白雪明理紗
「ど、どうも……」
女性
「私、斜め前の家に住んでるのよう。主婦やっててねえ」
彼女は私の全身を、上から下まで、舐めるように見てきた。
白雪明理紗
(な、なに、この人……じろじろ見てきて……)
……私は一歩、後ろに下がった。
彼女はその一歩分を素早く詰めてきて、
女性
「若くて、キレイねえ」
野太くて大きな声をあげた。
白雪明理紗
「いえ、そんな……」
彼女はニコッと微笑んだ。
女性
「……ところで、お子さんは? その予定はあるの?」
白雪明理紗
「え――あ、し、仕事が忙しくて、なかなか……!」
私はあいまいに微笑んだ。
女性
「そうよねえ、ご夫婦で警察庁にお勤めなんですもんねえ、……忙しくって、ねえ!」
彼女は手を口元に当てた。
女性
「もしお子さんができたら、ご両親も喜ぶんじゃないかしら。
……あら、今時、こういう発言、よくないかしら」
◇ ◇ ◇
――私は言い返したくなるのを堪え、
適当に話に相槌を打って、その場をやりすごした。
屋敷に入ると、私のメイドが頭を下げた。
メイド
「おかえりなさいませ。本日もお母様がいらっしゃっています」
白雪明理紗
「……そう……」
――母を刺した後から、彼女とはなるべく、会話するのを避けてきた。
しかし、それを良いことに、母は時折お茶菓子を持って、
この屋敷に図々しく上がり込んでくるようになったのだ。
……本当なら、同じ空間にいたくもない。
だけど、母が口を滑らせて、私に刺されたなどと言われても困る。
だから仕方なく、母が来た時は近くにいるようにしている。
白雪明理紗
「じゃあ、リビングで一緒に話そうかしら」
メイド
「かしこまりました。今ドアをお開けします」
メイドが、ドアを開けてくれた。
白雪明理紗
「ありが、」
神宮寺ケイ子
「子どもは、まだかしらねえ」
白雪明理紗
「‼」
――こちらに背を向けて座っている母の背を、凝視した。
彼女は、使用人の誰かと話しているようだった。
神宮寺ケイ子
「早く、孫の顔が見たいわあ」
私はその憎たらしい背を、睨んだ。
……最近は、いつもこうだ。
暇さえあればこの屋敷に上がり込み、孫は孫は……男の子の方がわんぱくでいいだの……。
白雪明理紗
(さっきの主婦といい、コイツといい、どいつもこいつも……‼)
――目の前が、真っ赤に染まった……。
◇ ◇ ◇
それからのことは――よく覚えていない。
気づいたら、翌朝になっていた。
自室を出た私は食堂に行き、端の椅子に腰かけた。
すぐに昨日出迎えてくれたメイドが、台車を押してやってくる。
彼女はスプーンやフォークを、テーブルに置き始める。
白雪明理紗
「おはよう。いい朝ね」
メイドはビクッと肩を震わせ……ゆっくりと首を動かして、私を見た。
メイド
「お……おはようございます」
メイドはぎこちなく微笑んだ。
白雪明理紗
「……?」
メイド
「きょ、今日のお飲み物は、いかがいたしましょう。
紅茶にコーヒー、マスカットを絞り出した牛乳がございますが……」
白雪明理紗
「牛乳がいいわ」
メイド
「は、はい!」
メイドは足早に、厨房へ去っていった。
――窓の外の植え込みで小鳥たちが戯れているのを見ていると、メイドがやってきた。
メイド
「お……お待たせしました……」
メイドは私の前に、料理の盛られた食器や、グラスを置いていった。
白雪明理紗
「いただくわ」
まず、牛乳を飲む。
マスカットの風味が爽やかで、ほのかに甘い牛乳と相性がいい。
続いて、目玉焼きに添えられたベーコンを切り、口に運ぶ。
白雪明理紗
「……?」
……なんだか、しょっぱすぎる気がした。
白雪明理紗
「……これ、しょっぱいわ」
メイド
「も、申し訳ございません! ただいま確認してまいります!」
メイドは厨房へ向かった。
食事をしていると、メイドがシェフを連れて戻ってきた。
シェフ
「申し訳ございません、奥様。ご指摘の通り、塩を多く使用していました」
白雪明理紗
「そう……」
シェフが、目の前に皿を置いた。
新しく作ったのであろうベーコンと……
先ほどはなかった、野菜が乗っている。
シェフ
「お詫びとして、野菜の付け合わせを用意させていただきました」
白雪明理紗
「……気が利くじゃない」
ベーコンを、口に運ぶ。
白雪明理紗
「……まあ、いいんじゃないかしら」
メイドとシェフは、顔をパッと明るくした。
シェフ
「ありがとうございます!」
白雪明理紗
「次から気をつけなさい」
シェフ
「はい!」
シェフは厨房へ戻り、メイドは私の後ろに控える。
私は野菜を口に運んだ。
白雪明理紗
「……」
ベーコンは塩気が減り、美味しくなった。
けれど、それ以上に――
新しく用意された野菜の付け合わせを、私は気に入った。
ゆでられたブロッコリーは、鮮やかな色をしている……。
私はちらと、後ろのメイドを見た。
彼女はびくりと、身体を震わせる。
メイド
「な、なにかご用でしょうか」
白雪明理紗
「いいえ」
私は心の中でほくそ笑んだ。
白雪明理紗
(なんだか……悪くないわ)
◇ ◇ ◇
それから、私は少しでも気になったことを、メイドや自分の部下に伝えるようになった。
ある日は、廊下に飾られた花を指さした。
白雪明理紗
「この花、気に食わないわ」
メイド
「は、はい! どういった花をご所望でしょう……」
別の日には、食堂で、フォークをテーブルに置いた。
白雪明理紗
「なによ、これ! まずすぎるわ!」
シェフ
「申し訳ございません、ただいま作り直してまいります」
さらに別の日には、私の部下の運転に苛立ちが募った。
白雪明理紗
「もっと丁寧に運転なさい! 万が一事故になったらどうするの⁉」
明理紗の部下
「はい、気をつけます」
白雪明理紗
「当たり前でしょ⁉ まったく……」
――そうすると不思議と、胸がスッとした。
ますます怯えるメイドや、私の部下たちが、なんだかおもしろく思えてきた。
彼らは日に日に、どんどん丁寧に私に接するようになってきた。
なぜか、彼らの動作や対応は遅くなった。
だけど、私の思い通りに動くようになっていった……。
屋敷の廊下には珍しい花が並び、食堂では私の気分に合わせた料理が出てきて、送迎の車の運転は丁寧になった……。
屋敷の全ては、私好みになっていった。
――だからこそ、職場ではそうもいかないのが、ますます私の神経を逆なでした。
デスクで、私は部下の作った書類を見ていた。
白雪明理紗
「……なに、これ。アンタ、ここに勤めて何年よ?
もっとちゃんと書きなさい!」
私は部下に、書類を投げつけた。
部下
「すみません! すぐ直します!」
彼は謝り、床に散らばった書類を拾い上げた。
白雪明理紗
「まったく、使えないヤツね……!」
――帰宅後は、夫が私をイラつかせた。
彼はリビングのソファーで、手を組んだ。
白雪真
「なあ。メイドさんとか、明理紗の部署の人から聞いたんだが……。
明理紗、最近、あまりにも厳しいらしいが、本当か?
書類を投げつけられたとか、聞いたが……」
向かいのソファーに座っている私は、彼を睨みつけた。
白雪明理紗
「だから、なに? 指導の一環よ」
白雪真
「……指導なのか? 物を投げつけるのが……」
白雪明理紗
「そうよ。言ってもわかんないヤツには、身体に覚えさすしかないの」
夫は眉をひそめ、身体を前に乗り出した。
白雪真
「――それって、パワハラじゃないか?」
白雪明理紗
「なによっ!」
私はソファーから立ち上がり、夫に詰め寄った。
白雪明理紗
「私と他の人のことなんだから、アンタには関係ないでしょ⁉」
白雪真
「直接は関係ないが……ダメなものは、ダメだろう」
白雪明理紗
「何よ……! うるさいわねっ!」
私は夫の頬を、力任せに叩いた。
白雪真
「っ!」
白雪明理紗
「黙りなさいよ‼」
白雪真
「明理紗……」
夫は悲しそうな、責めるような目で、私を見つめている。
白雪明理紗
「なによ……‼ その目‼」
私はリビングを出て、自分の部屋へ向かう。
手のひらは、痛かった。でも――
白雪明理紗
(なんで……? ちっとも、嫌な気持ちにならない!)




