元婚約者との日々
──彼女との出会いは、中学時代にさかのぼる……。
体育の授業中、一キロ走の測定をしていた時のことだ。
女子の群れから離れたところに、
つまらなさそうな顔をした優月ちゃんがいた。
……その時のオレが何を思ったのかは、もう、覚えていない。
ただ、気づいたら、彼女に声をかけていた。
夢野陽
「あ、あの……」
優月
「……? 夢野くん? どうしたの?」
彼女は首をかしげ、目を見開いた。
夢野陽
(やばい、何も考えてなかった……)
オレは頭をかき、なんとか言葉をつづけた。
夢野陽
「いや……その……き、記録、いくつだった?」
今思うと、苦しまぎれだった。
──しかし、この時から、彼女との交流が始まったのだ。
◇ ◇ ◇
ある日の中休み。オレは教室の席で、好きな小説を読んでいた。
夢野陽
(やっぱり、この小説は良いなあ。何度読んでもいい……)
優月
「夢野くん、その本!」
いつの間にか、目の前で優月ちゃんが目を輝かせていた。
夢野陽
「!」
(いつの間に……)
優月
「わたしも好きなんだ、それ‼」
夢野陽
「え、そうなの⁉」
彼女は激しくうなずき、胸の前で手を柚んだ。
優月
「主人公が最高にイケメンって感じ……
普段はダメダメなのに、
いざという時はすごく頼りになるところが、最高すぎて!」
夢野陽
「ああ、わかるよ。いいよね!」
……それからオレと彼女は、休み時間になるたびに、小説について語りあうようになった。
別の日の中休み。
優月ちゃんは困ったような顔をして、オレの席にやってきた。
優月
「夢野くん、さっき出た宿題、わかんない……」
夢野陽
「じゃあ、放課後いっしょに解こうか」
彼女はパッと目を輝かせた。
優月
「ほんと⁉ ありがとー‼」
放課後の教室で、横並びの席になって、解き方を教えた。
優月
「……すごい、夢野くん、賢いね!」
夢野陽
「……そんなことないよ」
オレは首を横に振った。
……優月ちゃんと学校を出て、夕暮れの坂道を歩いた。
夢野陽
「そういえば、小説の新刊、読んだ?」
オレは彼女と仲良くなったキッカケの小説の新刊を出して、見せた。
優月
「ううん、読んでない」
彼女は首を横に振った。
夢野陽
「もったいない! 読んでみてよ、今回はみんなが合宿に行ってさ……」
優月
「そんなことより、このあと遊ばない?」
夢野陽
「……え?」
(そんなことより……?)
優月ちゃんはむすっとした顔で、石ころを蹴って飛ばした。
優月
「その小説、つまんない。もう読んでない。捨てた」
夢野陽
(捨てた? どうして……あんなに好きそうだったのに)
彼女はニコッと笑い、
優月
「今は夢野くんがいてくれるから、それでいいの。
小説なんかより、公園で遊ぼうよ」
近くの公園を指差した。
……胸のあたりが、モヤモヤした。
夢野陽
(なんかより、って……
まあ、家で父さんと過ごすよりは、
この子と遊ぶ方がだんぜん、楽しいだろうけど……)
夢野照
「陽!」
……頭に、酒焼け声が響いた。
夢野陽
「……‼」
……頬を、汗が伝った。
夢野陽
(ダメだ――オレは、オレの責任を、果たさないと)
オレは優月ちゃんに、笑ってみせた。
……たぶん、頬がひきつっていた。
夢野陽
「ごめん、用事があるんだ、また今度」
優月
「そっか、残念……」
住宅街に入ったところで、彼女が立ち止まり、オレに手を振った。
優月
「じゃ、また明日!」
夢野陽
「うん……また」
優月ちゃんと別れ、住宅街を歩いていく。
家に入り、和室を通りがかる。
夢野照
「陽! 遅い!」
ゴンッ!
頭に、衝撃が走った。
夢野陽
「‼」
……空き缶が、足元を転がる。
夢野照
「とっとと酒とつまみ、持ってこい!」
夢野陽
「……わかったよ、父さん」
父に酒とつまみを出し、オレはベランダに出た。
朝干した洗濯物を、かごに取り込んでいく。
その洗濯物をたたみ、タンスに入れる。
夢野陽
「ふぅ」
二階に行き、自室の椅子に座り、机にノートを開いた。
夢野陽
(さっき優月ちゃんに教えたから、分かるぞ……)
……しばらく、宿題に没頭した。
夢野陽
(よし、終わった……)
ノートを閉じ、息を吐く。
夢野陽
(次は――)
一階におりて風呂場に行く。
湯船をブラシで洗い、お湯張りのスイッチを入れた。
夢野照
「オイ‼‼ 陽‼」
夢野陽
「はあい!」
和室に行くと、廊下に、父が空き缶を投げつけていた。
夢野照
「捨てとけ」
夢野陽
「……わかったよ」
キッチンから持ってきたゴミ袋に、空き缶を入れていく。
夢野陽
(仕方ない、仕方ないんだ……
ここに残るのなら、責任をとらないと)
テレビから、ブーイングの声が聞こえてくる。
夢野照
「ああー、負けたか、クソ……オイ、陽、酒だ酒!」
夢野陽
「はい!」
オレは酒を持って来て、父に手渡した。
空き缶が詰まった袋を持ち、家を出て、玄関脇のボックスに入れる。
夢野陽
(あとは、風呂に入るだけだ)
その後、風呂に入った。そして、布団に潜って気絶した。
……これが、オレの生活だ。なんということもない、忙しい日々。
……優月ちゃんと婚約して実家を出るまで、家ではこの生活が続いた。
◇ ◇ ◇
――時折、夢の中で、聞き覚えのある声がした。
「はあ、もうしんどいよ。遊びたいよ」
「こんな、家のことばっかり、つまんないよ」
……ぼんやりとした意識の中で、
夢野陽
(……誰だろう……)
そう思った。
幼い声はこう続けた。
「こんなに頑張ってるのに、
どうして、誰も僕の話を聞いてくれないの?」
「誰かに、頑張ったね、って言ってほしくて、
勉強も家のことも頑張った!
いい子にしてた!
なのに、誰も何も言ってくれない……。
僕の話を聞いてくれない……。
なんで?
なんでなんでなんで⁉」
「だれか、僕を見てよーーーー‼‼」
◇ ◇ ◇
夢野陽
「──はっ!」
……オレは布団から、ガバッと身体を起こした。
身体中、汗だらけだった。
夢野陽
(なんだろう、この声──……)
……甲高い声の主が分からぬまま、数年が過ぎた。
一貫校に通っていたオレと優月ちゃんは、高校でも同じクラスになった。
――ある日の帰りのバスの中のことだった。
優月
「ありがとね、陽くん、勉強教えてくれて。おかげで、国語の赤点逃れたよー」
夢野陽
「そっか、よかった」
(国語……そういえば、あの試験で……)
オレは優月ちゃんの方を見た。
夢野陽
「……そういえば、優月ちゃん。なんで、あの小説捨てちゃったの?」
優月
「え? また、その話?」
彼女はオレを軽くにらんだ。
夢野陽
「ご、ごめん……テストであの作者の小説が出たから、気になって……」
優月
「ああ……」
彼女は辺りを見回した後、カバンの中でスマートフォンを開いた。
……うちの学校は校則が厳しく、スマートフォンの持ち込みは禁止なのだ。
優月
「……だって、あの小説、つまんなくない?
陽くんといる方が楽しいし」
オレは膝の上の手をにぎりしめた。
夢野陽
(つまんないって……なんで?
……嫌われるかもしれない。でも、これだけは聞きたい……)
「……つ、つまんないって、どこが?」
彼女は唇に指をあて、上を向いた。
優月
「んー……意味不明な展開になったから、かな。二巻から急に方向転換したじゃん」
夢野陽
(そうだけど……でも……)
オレは優月ちゃんから目を逸らし、前を向いた。
夢野陽
「り、理解できなくても──
読めば、いいんじゃないかな!
いつか、その意味がわかると信じて……」
優月ちゃんはため息をついた。
優月
「陽くんは真面目だねえ。……あはは!」
彼女は腹を押さえ、スマートフォンを指差した。
優月
「スライム風呂が熱いなんて、当たり前なのに!
リアクション、オーバーすぎ!
……やっぱり、こっちの方がいいよ、
わかりやすくて面白いもん」
夢野陽
「……そう……」
オレは窓の外を見た。
夢野陽
(たとえすぐに分からなくても、理解できなくても……
切り捨てずに読むべきだと、思うけど……
……オレが、おかしいのか?)
……それから、二年後。
オレと優月ちゃんはバスの中で肩を寄せ合い、単語の出し合いっこをした。
……受験が、近づいてきたのだ。
……受験の結果、オレはまた、彼女と同じ大学に行くことになった。
◇ ◇ ◇
優月
「かんぱーい!」
夢野陽
「乾杯」
優月ちゃんのアパートのリビングで、オレと彼女は缶ビールで乾杯をした。
優月
「……ぐ、ぐっ……ぷはあ!
やっぱり、ビールはおいしっ!」
オレは曖昧に微笑んだ。
夢野陽
(……いつも、父さんが飲んでいるイメージしかないな……)
……ビールの苦みが、ビリビリと口内を刺す。
優月
「やっぱり、一人暮らしは最高!
いつでも陽くんと会えるし、お酒も飲めるし、
ネチネチ言ってくる親がいなくて、すっごく快適!」
彼女はスマートフォンをいじりながら、ほおを膨らませた。
優月
「実家にいた時はさー、なにかするとすぐ、
親が文句言ってきたんだもんー」
夢野陽
「そうなんだ、大変だね」
優月
「そうなの!」
優月ちゃんはスマートフォンをテーブルに置き、オレの腕に自分の腕を絡ませた。
優月
「今はもう読んでないけどさー、
陽くんと仲良くなったキッカケの本、あるじゃない?」
夢野陽
「うん」
(どうしたんだ、急に?)
優月
「あんな探偵ごっこの本は教育に良くないとか、くだらないとか……
そんなことばっかり言ってきたの!」
彼女は酒をあおった。
夢野陽
(……優月ちゃんの親御さんが、そんなことを──……)
……彼女がいきなりあの小説を否定するようになったのは、
親御さんの影響もあるのか?
優月
「まあ、分かるけどね。……あの本、小学生向けなんだもん、
たしかにくだらないよ」
夢野陽
(……本当にそうか? ……だけど、優月ちゃんに嫌われたくない……)
「……そ、そうだね」
オレはベッドサイドに置いてある、
ボロボロのその本をちらと見た。
……胸が、ズキッと痛んだ。
夢野陽
(ああ……言わなきゃよかった……)
優月
「それよりさあ」
優月ちゃんはにやにや笑った。
優月
「この前話してた会社あるじゃん、あそこから内定もらっちゃった」
夢野陽
「え、あの会社⁉」
彼女はうなずいた。
……誰もが一度は名前を聞いたことのある、有名企業だ。
夢野陽
「すごいね」
優月
「でしょー?
……面接官に気に入られちゃってさ、ぜひうちに来てほしい、だってー!」
彼女はビールを飲み干し、タァン! とテーブルに置いた。
優月
「就活なんて、ちょろいちょろい!」
夢野陽
「……いいね、内定もらえて」
ピロン♪
スマートフォンの通知が鳴った。
夢野陽
「ん……」
画面を見る。第一志望の企業からメールが届いていた。
夢野陽
「‼」
急いでメールを開き、見る。
夢野陽
「……はあ……」
優月
「どうしたの?」
夢野陽
「今、第一志望の企業から連絡が来てさ……落ちた」
優月
「ふーん……あ、そうだ、陽くん、
陽くんの作ったから揚げ食べたいな」
夢野陽
「──あ、うん。いいよ。ちょっと待ってて」
……なんだか、胸のあたりがモヤモヤした。
──また、頭の中で、幼い声がした。
「なんか、この女のひと、変……」
「ぜんぜん話、聞いてくれない……」
夢野陽
(そんなことない……
こんなオレとお付き合いしてくれてるだけで、ありがたいんだ)
……オレは立ち上がり、キッチンに向かった。
◇ ◇ ◇
夢野陽
「はい、どうぞ」
オレは唐揚げの乗った皿を、テーブルに置いた。
優月
「やったあ!」
優月ちゃんはから揚げを箸でとり、口に放り込んだ。
夢野陽
「……どうかな」
彼女はオレの方を見て、ニコッと笑った。
優月
「うん、おいしい!」
……胸のあたりが、じんわりと温かくなった。
夢野陽
「よかった」
優月
「ねえ、陽くん」
夢野陽
「ん?」
彼女はオレの肩に首をもたれ、オレの手をにぎった。
優月
「いつもありがとね、おいしい料理作ってくれて……」
夢野陽
「……うん」
……顔を上げた優月ちゃんと、目が合った。
彼女の大きな目はうるみ、とろんとしている……。
夢野陽
「……!」
どくん、と心臓が跳ねた。
優月
「……陽くん……」
その薄い唇が、オレの顔に近づき――……唇が、熱くなった……。
夢野陽
(……やっぱり……
こんなオレを受け入れてくれるのは、優月ちゃんだけだ……)
彼女の細い肩を、強く抱いた……。




