誘拐犯の価値
……目的地である、とある住宅街に着く頃には、空は暗くなっていた。
氷室零
(あのスーツの男たちはうまく撒けた……)
バイクを降り、陽を背負った。
氷室零
(……こんな夜中に悪いが、こっちも必死なんだ。
なんとしても治療してもらわないと……。
……だが……)
私は目的地を見上げた。……診療所、と噂には聞いていたが……
私にはただの、古ぼけたアパートに見える……。
氷室零
(……本当に、大丈夫か?
……だが、当てはここしかない……。噂ベースでしかなくとも、ここしか……)
……不安そうな顔のメグとともに、アパートの階段を上り始めた。
◇ ◇ ◇
氷室零
「二〇三号室──ここか」
ベルを押した。ギンゴーン……と古びた音が、低く響く。
氷室零
「…………」
メグ
「…………」
ガチャッ、ギィ……
氷室零
「!」
住人
「……」
中から、人が出てきた。
うねった黒髪を長く伸ばした、背の高い男性だった。
氷室零
「……夜中に悪い。……助けてくれ、怪我人がいるんだ」
男性
「……」
男は髪の隙間の見開いた目を、昆虫のようにぎょろりと動かした。
メグ
「ひっ」
メグが私にしがみつく。
男性
「……」
彼は私の肩──陽を見ている。
氷室零
「……アンタのことは、ホームレスの連中から聞いた。
腕が立つ医者だと……。
一般の病院では診てもらえないようなヤツを、ここで診てるんだろ?
……私たちもそのクチだ、助けてほしい、コイツを──」
男性
「……入れ」
若そうな見た目に反して、彼の声は老人のような、しわがれたものだった。
◇ ◇ ◇
部屋はわずかな明かりだけがともっていて、ほこりっぽかった。
氷室零
(こんなところで、治療を……?)
医者は奥のカーテンを開けた。
医者
「患者を」
彼はベッドを指さした。
私はうなずいて、陽を横たえる。
夢野陽
「はあ、はあ……」
陽は苦しそうに、口で息をしている……。
医者
「……」
医者は無言で、陽の服を脱がし始めた。
氷室零
「!」
私は慌ててメグの肩をつかみ、身体を後ろに向けた。
◇ ◇ ◇
ベッドから少し離れた位置に、医者がパイプ椅子を二つ立てた。
それらを私たちの前に置き、手で示す。
氷室零
「悪い……」
私とメグはそこに腰掛けた。医者は窓際の、古ぼけた革の椅子に座る。
氷室零
「どうだ? 治せそうか?」
医者はうなずいた。
医者
「ああ」
氷室零
(よかった……)
医者
「二十万だ」
氷室零
「えっ?」
医者
「手付金として、今すぐ二十万を払ってもらう。それができなければ、帰れ」
氷室零
(に、二十万……⁉)
……常識として、治療に金がかかるのは、当然のことだ。
だけど……私は陽をここに連れてくることで、頭がいっぱいだった。
……金のことなど、なにも考えていなかった……。
氷室零
(……そんな金額、もってない……)
……汗が、ほおを伝うのが分かる。私は、ちらと後ろを見た。
氷室零
「ちょっと待っててくれ」
医者はうなずいた。
ベッドに横たわる陽に、
氷室零
「……失礼……」
そう声をかけた。脇に置かれた服に、手を伸ばす。
氷室零
「…………」
革ジャンの中のくたくたの革財布から出てきたのは、数千円だけ……。
氷室零
(……どうする……⁉)
氷室零
「どうしても……どうしても今じゃなきゃ、ダメか?」
医者
「ああ」
氷室零
(とてもじゃないが……足りない……!)
陽の財布には現金だけだった。
私はホームレスだから、当然、金など持っていない。
氷室零
「メグは……金、持ってないよな」
メグはうなずいた。
氷室零
(……まずい……)
肩で息をする陽を見る。
氷室零
(このままだと、陽が……)
……なんとか、ここまで来られたのに……!
氷室零
(……諦めるか? そうしたら陽は、一般の病院に──)
私はぶんぶんと首を横に振った。
氷室零
(いや、ダメだ! 警察に見つかって、メグが──って……)
「ふっ……」
人の命がかかっている状況なのに、私は鼻を鳴らして笑ってしまった。
氷室零
(なにを、考えているんだ……。
あんなに、警察や児童相談所、と言っていたのは……
私自身じゃないか……)
夢野陽
「はあ、はあ……」
氷室零
「!」
(……それどころじゃない。今、コイツは生きていて……
……必死に、息をしている……!)
かといって、ここで諦めて、治療をしなければ……。
氷室零
(……また、また……あの時みたいに……?)
ベッドに横たわって真っ白な肌をさらし、目を閉じている陽。
──そこに、今まで何度も見た、
……冷たい棺の中で、
白い衣装を着せられ、
二度と開くことのない、瞼が重なる……。
氷室零
(イヤだ――もう二度と、あんな思いは……)
──いつも、そうだ。
私に、……私なんかに、
優しくしてくれる人は、いつも……
二度と、この世で会えなくなって──……。
氷室零
「……」
私は陽の服に、財布をしまった。
ふらふらと、医者の前へ歩いていく。
そして──
両膝と、手をついた。
氷室零
「頼む! 金はないが……この通りだ‼」
医者
「……そんなものが、通じると思ったか?」
彼の声は、冷たい。
私は首を横に振った。
氷室零
「思わない……が、頼む!
コイツだけは! 何をしてもいい!
雑用だって、なんだって……!」
冷たい医者の顔を見て、腹を押さえる。
氷室零
「臓器だって……
命だって! さしだしてもいい!
こんな私が、役に立つのなら‼
死んだってかまわない、コイツが、死ぬくらいなら!」
メグ
「そんな……!」
氷室零
(そうだ……)
私は目を見開き、うつむいた。
氷室零
(私なんて、死んだっていいんだ──)
学もなく、誰かの役に立てる技量もない、
ただの、口の悪い暴力女だ。
だけど……
氷室零
(陽は……陽だけは、ダメだ。
陽には、間違いなく価値がある……)
メグの心を、開いてみせた。
この世に絶望し、死にたがっている小さな命に、温もりを与えた……。
氷室零
(それだけじゃない──
こんな私に、社会的になんの価値もない私に、
優しくしてくれた……)
倒れているところを、助けてくれた。
看病をしてくれた。
さんざん怪しんでいるのに、温かい飯を与えてくれた……。
──口の中に、ちょっとしょっぱい、粥の味が広がる……。
氷室零
(どうして……どうして、こんな時に……!)
久しぶりに食べた、手料理の、あったかい味――。
氷室零
(何もない私にはあんなの、熱すぎる――)
私は床に頭をつけた。
氷室零
「たのむ……コイツだけは……。
私は、私なんか、死んでもいいから……
頼む……!」
私が陽に差し出せるのは、
この命しかない。
だけど、それだけの価値が、陽には――。
医者
「…………」
ギシッ、と音がした。私の真横を、医者の足が通ってゆく。
氷室零
「!」
医者
「片目だ」
振り向くと陽の脇に、医者がこちらに背を向けて立っている。
医者
「お前の、片目。それが、二十万円の代わりだ。
こちらも金や物に余裕はない。
だから、義眼を入れることはできない。
これから先一生、片目は見えなくなる……」
メグ
「えっ……」
氷室零
(……交渉の余地を与えてくれただけ、ありがたい)
医者
「研究のために、必要だ。
提供できないのなら、男を連れて、ここから去れ」
私は涙をぬぐい、うなずいた。
氷室零
「わかった……
私なんかを代償に陽を救えるのなら、それでいい! じゅうぶんだ!」
メグ
「だ、ダメ!」
メグが立ち上がり、私にしがみついた。
メグ
「そんな……目なんて、ダメ……!」
私は微笑み、彼女の頭をそっとなでた。
氷室零
「いいんだ……」
医者
「……ここへ」
医者は、陽が横たわるベッドの横、通路を挟んだところのカーテンを開ける。
私は泣きそうな顔のメグの手を解いた。
氷室零
「ありがとう、心配してくれて。大丈夫だ、死ぬことはない……」
メグ
「……うん……」
私はメグから離れ、ベッドに横になった。医者が、カーテンを閉める。
医者
「どうして……」
氷室零
「?」
医者
「どうして……そこまでする」
私は目を閉じた。
氷室零
「私には絶対にできないことを、陽は成し遂げた……。
あの子の心を、開いてみせた……。私には、できなかった。
だから――ここで私がどうなったとしても、
陽には、生きてもらわないと困るんだ。
メグのために……」
医者
「……そうか」
氷室零
「ああ」
医者
「……麻酔を打つ」
腕に、痛みが走る。
……だんだんと、眠くなってくる……。
氷室零
(次に目覚めたら――
陽に、感謝を伝えよう。
……こんな私を、助けてくれたこと……)
……こんなことは、今までに一度も思ったことがなかった。
ただの、怪しい誘拐犯。そう思っていた。
でも──
氷室零
(アイツは、本物だ。
自分が傷つくこともいとわず……男たちに、立ち向かった……)
……まあ、あんなガタイのいい男たちに腹を殴られても、
なお諦めないというのは……
無鉄砲というか、バカだとは思うが……。
──ここちよいまどろみの中、そんなことを思った……。
◇ ◇ ◇
……目が、覚めた。
氷室零
「……あれ?」
目を何度か、瞬かせる。
氷室零
(……両目が……見えている……⁉)
医者
「起きたか」
氷室零
「!」
横を見ると、医者が私をジッと見ていた。
氷室零
「……私の、目は……」
医者
「……お前の覚悟を、見た。それだけだ」
彼はつぶやくように言い、部屋から出て行った。
氷室零
(覚悟……)
……研究に必要、というのは、嘘だった……ということらしい。
氷室零
「……あ、」
医者がいたところに、パイプ椅子に座って眠っているメグがいた。
氷室零
(……待っててくれたのか)
メグ
「ん……」
メグが、目を開けた。
メグ
「んん……」
彼女は辺りを見まわし、
メグ
「あっ」
私を見た。
メグ
「……あれ? あなたの、目は……」
氷室零
「ああ……どうも、私を試したかったらしい」
メグ
「ためす?」
氷室零
「ああ。要するに……片目をもらうのはウソだったらしい。
金がない状況で私がどう振る舞うのか、見たかったみたいだ。
……ていうか、あなた、じゃなくていい。零、でいい」
メグ
「れい?」
氷室零
「ああ。私の名前だ」
私がうなずくと、メグの頬が赤らんだ。
メグ
「れい! れーい‼」
彼女は両手でくまのぬいぐるみを掲げた。
うれしそうに何度も、私の名前を呼ぶ。
氷室零
「ちょっ、恥ずかしいから、やめろ……!」
夢野陽
「ん……」
氷室零
「あっ」
……陽が、目を覚ました。




