闇の公女様のお気に召すまま【商業化企画進行中】
「あなたを愛することはできません。僕には、愛している女性がいます。どうかこの婚約を、解消していただけませんか」
今日、初めて顔を合わせた婚約者から、こんな言葉を告げられた私の話をしよう。
私の名前は、アリアンヌ・デュラン。サルモン王国の公女だ。本日、このルクシオン王国に到着したばかり。そして、目の前の婚約者――ミシェル・ラヴェル侯爵令息と私は同じ十八歳。私はこれから準備を整え、ルクシオン王立学院に通うことになっている。滞在中は、彼の生家であるラヴェル侯爵家に世話になる。
形式的に私は公女だが、実のところデュラン公爵家からすれば、私は血のつながらない存在だ。母が前夫との間に授かった娘。それが私。母を昔から好いていたという養父――デュラン公爵は、若くして夫を亡くした母に請い、熱烈な求婚を重ねた末に結婚にこぎつけたという。
私の実父は、遥か昔からサルモンを守護してきた闇の魔法使いの一族。そして私は、その才能を他の追随を許さないほど色濃く受け継いでいる。いずれ時がきたら、父方の一族を率いていく責務があるのだと、幼い頃から言い聞かされている。そしてそれに私は納得している。
私がルクシオンへきたのは、ただの留学が目的ではない。私がこの国でミシェル・ラヴェルの婚約者として過ごし、卒業と同時に彼をサルモンに連れ帰るという役目がある。
ミシェルは、養父であるデュラン公爵や母の目にかなっただけあって、その家柄、血筋、そしてなにより魔法の才が優れていると聞く。ラヴェル家は清廉な気の魔法を使う一族で、代々ルクシオンの聖騎士団を率いてきた。彼も若き聖騎士の一人だ。
容姿も良い。銀色の髪、清らかな月明りのような金色の瞳、そして白皙の肌。精緻な彫刻のように美しい。
父が早逝したように、闇の魔力は生命力を削る両刃の剣だ。生命力や精神力の回復と活性化を得意とする気の魔法を扱うラヴェル家の力は、私にとっても、これからの一族の未来にとっても、なくてはならない存在だ。
さて現在地は、この国で最も古い貴族の館の一つ、ラヴェル侯爵家の応接室である。空気は、過剰なほどに清らかだ。ラヴェル家の気の魔法のせいだろう。
ミシェルについても、この館についても、私の第一印象は「悪くない」だった。しかし彼の第一声はいただけない。今日隣国から到着したばかりの婚約者にかける言葉としては最低だ。
私は馬車に揺られた疲れを一切見せず、優雅な角度で首をかしげた。私の金色の髪がふわりと揺れる。
「なぜそれを、初めて会った私に言おうと? 私がこうしてやってくる前に、ラヴェル侯爵夫妻に相談すべきだったのでは?」
私の声は、サルモン産の最高級の絹のように滑らかで冷たかった。彼はその金色の瞳に、わずかな苦悶を浮かべた。
「両親に何度頼んでも、承諾してもらえませんでした。どうかあなたの方から、婚約を解消していただけませんか。あなたにとっても、他に愛する女性がいる男との結婚生活など、きっと苦痛になることでしょう」
「それは随分身勝手なお願いね」
「……分かっています。全ての責任は僕にあります。ラヴェル侯爵家から除籍されることも覚悟の上です」
「とりあえず、座っても良いかしら」
部屋に通されたまま、立ったままで会話をする私たち。こちらは疲れている。少々不機嫌そうにそう言えば、ミシェルは驚いたようにハッとして、うなずいた。
「失礼しました。どうぞ」
「あなたは座らないの?」
「立ったままで結構です」
「そう。お願いする立場だものね」
私は手元にあったレースの扇子を開き、口元に寄せた。
「それで、あなたは勝手に思いつめているけれど、別に私は愛されなくても構わないけれど」
あっさりとそう言うと、ミシェルはまた驚いたように言葉を失っていた。
「しかしそれではあなたが……」
「私の心配など無用よ。愛を貫きたいならどうぞご自由に。ただし婚約は続けるわ。お互い、求められた役割を果たしましょう。それが貴族の務めですもの。私のそばで生きてくれるのなら、文句は言わないわ」
私の言葉には、情は含まれていない。ただの事務的な確認だ。しかしミシェルは唇を結び、目を伏せた。
「ですが……そのような状況にあなたを置くのは、心苦しい」
なるほど聖騎士らしい。真面目なことだ。性格は悪くないのかもしれない。実際、ミシェルはひどく苦しそうだ。
「それなら、私を愛する努力をしてみては?」
彼は苦しさに耐えるように眉間に皺を寄せた。まるで自らの意思に反して、不本意な言葉を絞り出しているかのように見える。
「努力……そう、ですね――いや、やはり無理です。僕には……」
「そうでしょうね。ミシェル・ラヴェル。非常に優れた気の魔法の使い手だと聞いていたのに、残念だわ」
「それは、どういう――」
そろそろ意地悪はやめにしよう。私は薄く笑った。扇子で口元は隠れているが、私の目をしっかり見つめているミシェルにはそれが分かったことだろう。
「あなた、魅了魔法をかけられているわよ」
ミシェルは絶句し、その場で硬直した。私は扇子をゆっくりと閉じ、彼をまっすぐに見つめた。私の紅い瞳が、彼の瞳を射抜く。
「それも、何重にも、入念にかけられている。そのわりには、律義にも私と会話をしようとするのね。そういう意味では、精神力が強いのね。惜しいわ」
私はそう言って、小さくため息をついた。ミシェルの表情がこわばる。がっかりとした表情を隠さない私の評価に傷ついているのかもしれない。もちろん知ったことではない。
「かかっているのは、光の魔法ね。なるほど、ラヴェル家の気の魔法は、清らかに見えるものに対しては、無防備なのね。侯爵夫妻もきっと、あなたの態度に違和感は感じても、一時の恋と片付けたのでしょう。だからこの縁談を、ラヴェル侯爵夫妻は急いでいた。話が決まってしまえば、あなたが諦めると思ったのね。まさか顔合わせ当日に、婚約者にこんな失礼な態度をとるなんて、予測がつかなかったのでしょうね」
にっこりと笑みをつくる。サルモンでは皆が、私を「薔薇のようだ」と称えてくれた。美しいが、棘があり、決して触れてはならないと。
「とりあえず、その魔法はそのままにしておきましょう。心配しないで。ちゃんと見守るから。そういうことだから、婚約解消はなしよ」
私の言葉に、ミシェルは衝撃と困惑が入り混じった顔で、ただ立ち尽くしていた。私は優雅に笑って、応接室を後にした。
◇ ◆ ◇ ◆
ルクシオン到着の翌日、王立学院の迎賓館で行われた歓迎会にて、魅了魔法をかけた張本人と顔を合わせることになった。
「はじめまして、デュラン公女様。ルナリア・ハイアットと申します」
光のようにまぶしい笑顔を振りまき、その女は言った。その表情は、無邪気なまでの純粋さを湛えていた。
ああ、こいつか。私は、ルクシオン王国の第二王子の隣でほほえむ彼女を一瞥した。
ルナリア・ハイアット。ルクシオンにいる光の魔法使いの中でも、特に強い力を持っているのだそうだ。淡い薔薇色の髪が肩にさらりと流れ、空色の瞳が無垢な輝きを宿している。貴族籍を持たない平民出身であるが、その類稀な光魔法の才能を見込まれ、聖教会の庇護のもと、王立学院への特別在籍を許されているという。
ミシェルは私の隣で、視線こそルナリアに向けているが、表情は硬くこわばっている。当然だろう。昨夜の私の言葉で、自分の想いが単なる恋心でなかったのだと知ったのだから。
既に王宮で挨拶を済ませていた第二王子ユーグ・ルクシオンが、満面の笑みで彼女の紹介を続けた。
「ルナリアは、この国の聖女。彼女の存在は、まさにルクシオンの宝だ」
ユーグは、陶酔したようにルナリアを見つめている。ルナリアは満足げにその視線を受け止めていた。
「聖女。なるほど」
私は、冷たい声で答えた。ルナリアは私の言葉の冷たさには気づかず、むしろ褒め言葉だとでも思ったのか、嬉しそうに笑みを深めた。ユーグとルナリアの取り巻きの男性二人が、口々にルナリアを称賛した。
「彼女のそばにいると、本当に力が湧き出るようなんです」
「疲れた時には、光魔法で回復もしてくれます」
皆一様に、熱に浮かされたように紅潮していた。その言葉の意味を考えてみる。おそらくは魅了魔法と同時に、対象者の潜在能力を増幅させる光の魔法をかける。彼女と一緒なら、何だってできる気持ちになる。まるで麻薬のようだ。
「どうぞよろしく、ハイアット嬢」
私はあえて、誰にでもするような友好的な仕草で、ルナリアに向けて手を差し出した。ルナリアは、ぱっと花が開いたような嬉しそうな顔をして、すぐにその白い手を差し出した。
「どうぞルナリアとお呼びください。デュラン公女様」
そして、私の指先が彼女の手のひらに触れようとした瞬間、ルナリアはバッと音を立てるように手を引っ込めた。私の手は、空中で優雅に静止した。
「どうかして?」
声は穏やかだったが、私は視線を鋭くして尋ねた。ルナリアは、わずかに顔色を失い、喉を震わせた。
「い、いえ……わたし、急な眩暈が――」
ルナリアはユーグの腕にすがり、視線を逸らした。彼女は本能で感じたのだろう。私の闇の属性、そして私の圧倒的な魔力を。善と悪ではない。属性の相性だ。だが、それを理解できる者は少ない。
「ルナリア、大丈夫か?」
慌てるユーグを無視して、私はわざとらしくミシェルを見上げた。
「ミシェル、あなたも顔色が悪いわ。無理をしてはだめよ?」
「いや、僕は――」
ミシェルの顔色は、確かに青ざめていた。
「ミシェルの体調が優れないようです。私たちはこれで失礼いたします」
私は、ミシェルの腕に手を添え、優雅にほほえみを浮かべた。その場の誰もが、婚約者に対する優しさだと錯覚しただろう。だが、ミシェルには伝わったはずだ。これは、命令だと。
◇ ◆ ◇ ◆
「あれは思ったより厄介ね。光魔法に、幻惑の魔法を応用している。確かに才能はありそうだわ」
歓迎会からの退席直後。用意された迎賓館のサロンに戻り、私は深く肘掛け椅子に座って、扇子を開いて口元を隠した。
「公女様」
すぐそばでミシェルの声が聞こえ、ああ、と私はそちらに視線だけを送った。ミシェルは私のそばで立ったままだ。
「アリアンヌで良いわ。私はあなたをミシェルと呼んでいるのだから」
そう断ってから、私は小さく息をついた。
「あなたに対する評価を改めるわ。あそこにいた男性たちに比べて、あなたは良く自分を保っているわ。残念だの惜しいだの言ったことを、謝るわ」
ミシェルはまた驚愕に目を小さく見開いた。
「ユーグ殿下たちも、魅了魔法にかかっていると?」
「王族貴族の子息たちが揃って彼女を囲んで。おかしいとは思わなかったの? 確か第二王子には婚約者がいると聞いていたけれど」
「…………」
私は今度は大きく、わざとらしく息をついた。ミシェルはぐっと唇を噛んでいる。
「この国の未来は暗いわね。国を担う王族貴族の子息が、あれではね。まあ気づけというのが酷な話かしら」
ミシェルは、深く頭を下げた。その屈辱に耐える姿は、彼の自尊心の高さを物語っていた。
さて彼はここからどう出るだろう。じっと見つめていると、ミシェルが顔を上げて、思いつめた眼差しで私を見ていた。
「公女様。どうか、我々を救ってくれないでしょうか」
「嫌よ」
私は即座に、きっぱりと答えた。
ミシェルは、目を丸くしていた。彼の真面目な性格では、私の返答を理解できなかったのだろう。目的が正しければ、誰もが手を貸すと思ったら大間違いだ。
「あなたはこの国を守る聖騎士なのでしょう? それも、聖騎士を率いる立場の家に生まれた。自分の手で何とかしなさいな。そうでなければ、貴族籍を返しなさい。国民に失礼よ」
「それは、言葉もありませんが……」
ミシェルは苦しそうに声を漏らした。
「実際、僕は彼女の魔法に気がつくことすらできなかった。公女様に指摘され、確かにおかしいと思いました。でも彼女の姿を見たら、何も言えなくなってしまって――」
立ち尽くすミシェル。魅了魔法は未だ彼を支配下に置いている。私はやれやれと息をついた。
「今のところ、かかっているのは、彼女の周りのあの三人だけ。ああ、あなたを合わせると四人ね。それ以外では、ざっと見たところ、いなかったわ。つまり現時点では、彼女の恋のお遊びというわけ。大ごとにする必要はないのではないの? 恋に浮かされた彼らがおかしなことを言いだしても、冷静に無視すればいいだけ。あなたが婚約はしたくないとラヴェル侯爵夫妻に訴えても、聞き入れて貰えなかったようにね。彼女と物理的な距離を保てば、そのうち効果も切れるでしょう」
「……ですが、例えば魅了魔法を使って、機密情報を盗みだしたりしたら――それこそ国家の危機につながります」
「そうね。でもそういう時のために、私たち闇の魔法使いがいる」
「…………」
「ルクシオンには闇の魔法使いは少ないでしょう? だからサルモンと同盟を結んでいるの。同盟とは言いながら、決して対等ではない。なぜだか分かる? 勝ち目がないからよ」
ミシェルはこくりと息を呑み、真剣な眼差しで私を見つめ続けていた。
「ところであなた、彼女を愛しているんでしょう?」
からかうように私が言うと、ミシェルはハッとしていた。
「愛……? いいえ、それは――いや、そうです。僕は、彼女を愛している」
表情と言葉がちぐはぐだ。きっともう少しだろう。
◇ ◆ ◇ ◆
その後、私はミシェルに言ったとおり、ルナリアのことは無視して学院生活を楽しんでみることにした。ルクシオンでの学院生活は、サルモンでの学院生活と大差はなかった。学び、そして優雅にお茶を飲む。学院も大切な社交の場だ。
「デュラン公女様。少々お話させていただいてもよろしいでしょうか」
声をかけてきたのは、第二王子ユーグの婚約者であるクラリス・フォルネル侯爵令嬢だった。整った美しい顔立ちをしているが、その瞳には深く影が落ち、見るからに憔悴している。
「ええ、もちろん」
私は優雅に立ち上がり、彼女が示したサロンへと移動した。誰もいない部屋で、クラリスはすぐに本題に入った。彼女は紅茶も口にせず、切実な目で私を見つめた。
「公女様は、おつらくありませんか?」
唐突な言葉に、私は首をかしげる。
「どういう意味かしら」
「……ミシェル様も、あのルナリア・ハイアットに心惹かれていらっしゃいますよね」
クラリスは、目元に滲んだ涙を、上品にレースのハンカチで拭った。
「ああ……そうね。けれど、あなたの方こそ苦しそうね」
「……はい。ユーグ様の心を取り戻したいのに、どうして良いのか分からなくて」
クラリスは、婚約者の心変わりに悩む女性の姿そのものだ。彼女はきっと、自分と同じ苦悩と悲しみを、私と分かち合いたいのだろう。
その姿を目の前にして、私は少し申し訳なく思った。自分がどうでも良いと考えていたせいか、彼女のように苦しむ存在がいることを、失念していた。
「王子殿下と、話は?」
私が尋ねると、クラリスはふるふると小さく首を横に振った。
「それが……一度だけ、ユーグ様と話をしようとしたのですが、ユーグ様は、ルナリアへの嫉妬だとわたくしを一蹴し、それ以来わたくしの言葉に耳を傾けてくれなくなりました」
彼女はきゅっと唇を噛む。
「わたくしだけではありません。ルナリアの周りにいる男性たちは、彼女を信じ切っています。そして、注意する女性の声は、嫉妬による中傷として片付けられてしまいます。わたくしたちが何を言っても、彼らの耳には届かない、届いたとしても悪意に満ちた言葉として認識される。……わたくしは、意地悪をする、悪役令嬢などと言われて」
クラリスはハンカチを握りしめた。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。さらに不憫になって、私は息をついた。
「あまりにも、おかしいと思うのです。ユーグ様はあんなふうに、わたくしの話を聞いてくれない方ではありませんでした。ユーグ様が、何か見えない箱で閉じ込められているような……そんな風に感じます」
私は音を立てて扇子を閉じた。
「見えない箱という表現は、なかなか秀逸ね」
「え?」
クラリスは的を射ている。推測するに、ルナリアの魅了魔法は、広範囲には作用できない。
しかし、男性にちやほやされたいだけの小娘の魔法でも、この涙を見ては、さすがに放ってはおけない。ミシェルには自分の手で何とかしろと言ったが、残念なことに私は彼女のように上品で愛らしい女性は贔屓する。私を慕う可愛い妹の姿に被るのだ。
「フォルネル令嬢。悩みを打ち明けてくれてありがとう。あなたの気持ちは、必ず報われるわ。大丈夫、しばらく待っていて」
◇ ◆ ◇ ◆
ラヴェル侯爵家に戻ると、ミシェルが苦しんでいると、家令から報告を受けた。ちょうど侯爵夫妻が不在だったので、婚約者の私に相談にきたらしい。やれやれ。私は急いでミシェルの部屋へと向かう。
ノックをして部屋に入ると、椅子に座っていた彼の顔から、冷や汗が数滴流れ落ちていた。魅了魔法が、強い光を発して彼を包んでいるのが見えた。ルナリアが、弱くなったミシェルの魅了魔法を、さらに強くかけ直したのだと分かった。
「あなた、ルナリアに接触したわね」
「……ユーグ殿下に呼ばれて、サロンに」
王族からの呼び出しに、拒否権は与えられないだろう。私は内心で舌打ちをする。
「彼女がまだ好き? 愛している?」
私が冷たく尋ねると、ミシェルは頭を抱えるように額を押さえると、苦しそうにうめいた。彼にかけられた魅了魔法が強く反応する。彼の心の奥底が、引き裂かれるような痛みを感じていることだろう。
「愛して――いや、違う……」
ミシェルは乱暴に、そこから抜け出そうとしている。だがルナリアの魔法は、強固に彼を縛ろうとしていた。
「――違わない、僕は、ルナリアを……あ、いしている」
私の婚約者。苦悶する姿すら美しいが、それを喜んで見続けるほど私も悪趣味ではない。私はミシェルの前に立つ。
「ミシェル、顔を上げて」
「…………」
よろよろと顔を上げようとするミシェルの顎に手を伸ばし、くいっと持ち上げた。弱々しくなった彼の金色の瞳が、私の紅い瞳を捉える。
「キスしてもいい?」
「――は?」
ミシェルの口から、驚きとも困惑ともつかない息が漏れた。
「私の魔力をあげるわ。打ち勝ちたいなら、受け入れなさい」
「…………」
「いやなら、いやと言って。拒否権は与えるわ」
沈黙。彼の喉がかすかに鳴る。数秒の後、私は結論を出した。
「無言は肯定と受け取るわ」
そして私はためらうことなく、少し身をかがめてミシェルの唇に自身の唇を重ねた。その瞬間、私の体内に流れる闇の強大な魔力が、ミシェルに強制的に干渉した。
ミシェルの体がぴくりと揺れ、反射的に手が上がり、私の腕を掴んだ。それは拒絶ではなく、刺激に対する本能的なしがみつきのようなものだと思う。彼の清らかな気の魔力が、私の闇の魔力に触れられて、異質な熱を生み出していた。
数秒後。唇が離れた時、ミシェルの息は明らかにあがっていた。彼の瞳には、困惑の他に、理性では抑えきれない情動が火花のように宿っていた。
私はわずかに自分の唇を舐めた。その仕草を、ミシェルは食い入るように見つめていた。
「あとは自分で何とかすることね。その見えない箱の中から、さっさと出てきなさい」
私はそう言って、再びミシェルを置いて出て行った。
◇ ◆ ◇ ◆
結局、ルナリアの魅了魔法は、ミシェルの気の魔力と精神力で、その晩のうちに完全に打ち破られた。
私の魔力で多少刺激を与えたとはいえ、並大抵の力では、あの多重にかけられた魅了魔法を自力で破壊することは不可能だっただろう。ミシェル・ラヴェルは、やはり私がサルモンへ連れ帰るにふさわしい才能を持っていた。
生真面目なミシェルは、深刻そうな顔で、朝食後のお茶を飲む私の前に現れた。彼はその場で片膝をつき、深々と頭を下げた。その動作はまるで祈りのように美しかった。
「公女様。初めて会った際の、僕の無礼な発言を、心よりお詫び申し上げます」
「顔を上げて」
ミシェルは、ゆっくりと顔を上げた。彼の瞳には、もはや魅了の影も、苦悶もない。ただ純粋な、誠実な色が宿っていた。金色の瞳は、以前にも増して輝き、清廉な気の魔法の使い手としての威厳を取り戻していた。元々「悪くない」と思った彼の、この真摯な眼差しに、私は非常に気分を良くした。
「昔、私の母は言っていたわ」
私はカップを持ち直し、母の言葉を思い出してほほえんだ。
「亡くなった前夫を愛したまま、再婚を拒んでいた母に、養父はどうしても結婚してほしいとひざまずいて請うたのですって。今なら母の気持ちが分かる気がするわ。あなたのような男性に、ひざまずかれるのは悪くない気分よ」
香り高い最高級の紅茶を一口飲んでからカップを戻す。
「魅了魔法下に置かれた状況での言動なんて、気にしていないわ。もう立って。侯爵夫妻に見られたら、さすがに私も気まずいわ」
ミシェルはほっとした顔で立ち上がった。ミシェルは私の前の椅子に座る。
「――大変勝手なお願いですが」
ぎゅっと拳を握って、ミシェルがまっすぐに私を見つめてきた。その目には、貴族としての責務と、一人の男性としての感情が混じり合っているように見える。
「僕を、あなたの隣にいさせてください。そして、求められた役割を果たすだけではなく、愛情と信頼で結びついた存在になりたいと思っています」
その言葉は重く、切実だった。
「それは大変ね。私にとっては、役割を果たすだけと言われたほうが、ずっと楽だったかもしれないわ」
「……難しいですか?」
「さあ、あなた次第よ。あなたは私を愛する努力をすると決めたのでしょう?」
「はい。それに――」
ミシェルは少し視線を逸らして、恥ずかしそうに言う。
「婚約者として、もう、しましたから。その――口づけを」
かあっと頬を染めたミシェルを見て、私は動きを止め、次の瞬間、堪えきれずに笑い声を漏らした。
「あなた、本当に真面目ね。あれは魔力の受け渡しに必要だったから、しただけよ」
「それでも、僕にとっては大切なことです。初めてのことでしたし……」
そこまで言って、ハッとして赤い顔のまま顔を逸らしたミシェルに、私は再び笑う。ああ、こんな希少な男性が、魅了魔法の毒牙にかかったままでなくて良かったのだろう。
「……笑わないでください。真剣なのですから」
「分かったわ。では初日の失敗を、やり直すチャンスをあげる。初めて会う婚約者に対して、本来のあなたなら何と言うの?」
おかしそうにそう言うと、ミシェルは立ち上がり、私のそばに近づいた。私もまた優雅に立ち上がり、ミシェルと正面から向き合う。ミシェルは私の手をそっと取り、恭しくそこに唇を落とした。
「あなたが僕の婚約者となってくれた幸運に感謝します。この命に代えても、必ずあなたを守ります」
◇ ◆ ◇ ◆
ミシェルは、自身が打ち勝った気の魔法を使って、ルナリアの魔法を無力化していった。
ユーグとその周囲を含めて三人が、夢から覚めたように正気に戻っていくのを、私は横目で眺めていた。彼らはまるでひどい熱病から回復したかのように、頬の紅潮を失い、冷静な判断力を取り戻していった。
ユーグはクラリスに心から詫び、クラリスはそれを受け入れて彼が正気に戻ったことを涙を流して喜んだという。二人揃って私とミシェルに礼を言いにきた時には、二人はすっかり仲睦まじい様子であった。本来の姿を取り戻したのだろう。
ラヴェル侯爵夫妻にも報告を終えると、侯爵は息子と、第二王子までもが魅了されていた事実に顔色を変えた。侯爵は即座に聖騎士団を招集し、光魔法による精神干渉への対策を徹底させた。いつの世も、人は失敗から学ぶものだ。ちなみにラヴェル侯爵夫妻は、私に対する息子の失礼な態度を十分に詫びてくれた。
魅了が解けたユーグたちは、ルナリアに責める言葉を浴びせるのではなく、ただ困惑と恐怖に満ちた目を向けた。彼らにとって、ルナリアはもはや聖女ではなく、恐ろしい存在に見えたのだろう。彼らは皆、彼女から距離をとった。
ミシェルの報告と、ルナリアの言動に疑問を抱いていたクラリスをはじめとする令嬢たちの証言もあり、聖教会内による検証の結果、ルナリアの聖女の称号は剥奪された。
ルナリアは王都からはるか離れた修道院へ入ることが決定した。学院を去る日、ルナリアは二人の女性の聖騎士に監視されながら、学院の一室で荷物をまとめていた。私は彼女に話しかけた。
「ねえ、教えて。今、どんな気分?」
もはや誰からも話しかけられない状況になっていたせいか、ルナリアは涙ぐんで、すがるような視線を向けてきた。
「わたしは、ただっ……みんなから大切にしてもらいたかっただけなの。そ、それのどこがいけないの? わたしはみんなを勇気づけて、力を出せるよう祈っていただけなのに……」
「でもあなたは、王族を含む貴族の精神を支配したのよ。王国に対する反逆の可能性を見せてしまった」
「は、反逆?」
その言葉に、ルナリアは自分のやったことの重さに気づいたのだろうか。その顔は血の気を失い、ルナリアは怯えた様子で私を見た。
「わたし、そんなつもりは……ただ、みんなが私を見てくれるのが嬉しくて……。わたし、こ、殺されてしまうの……?」
私は冷たい笑みを浮かべた。
「あなた次第じゃない? せいぜい、静かに自分の過ちと向き合いなさいな。心を正して、それからあなたの力がルクシオンにとって有益だとみなされれば、チャンスはあるかもしれないわね。でも覚えておいて。ミシェル・ラヴェルは私の婚約者なの。次に手を出したら――」
私はビクッと体をすくませるルナリアの手を強引にとった。彼女が前には触れられなかった、私の闇の魔力。存分に感じさせてあげる。
「あ、あ……」
ルナリアはかわいそうなくらいぶるぶると震えていた。
「お別れの握手よ。さようなら」
くすりと笑って私は、学院生活へと戻った。
◇ ◆ ◇ ◆
ミシェルは、魅了魔法から解放された後、常に私のそばにいるようになった。彼は私のことを「公女様」ではなく「アリアンヌ」と呼ぶようになり、どんな時でも優しくほほえみ、その清廉な愛を私に捧げ続けた。
風が冷たい時にはさっと上着をかけてくれ、図書室で本を取ろうと書架の高い位置に手を伸ばせば無言でそれを取ってくれる。王都で評判のカフェに出かけた際に、私がその店の焼き菓子を気に入ると、私の知らないうちに食べきれないほど大量に注文して侯爵家に届けさせた。……クラリスたち学友にプレゼントすると、とても喜ばれたから良かったのだけれど。
「あなた、ルナリアにもこうして尽くしていたの?」
二人並んでラヴェル侯爵家のバラ園を散策していた時。ミシェルは従者に言って作らせた、摘みたてのバラの花束を私に差し出した。それを受け取りながら、私は少々意地悪く尋ねた。にこにことしていたミシェルは一瞬、顔を曇らせた。
「いいえ。そばにいなくてはならない、彼女を愛しているのだからと、思いつめてはいましたが……その強制力だけに縛られて、身動きがとれなくなっていました。本当に、馬鹿みたいに立ち尽くしていただけで……僕がそばにいても何も面白くはなかったでしょう。なぜ彼女が僕を対象者の一人としたのか理解できません」
彼はそう言って息をついた。私はからかうように言う。
「あなたは美しいもの。そばにいるだけで良かったのではないの?」
その言葉に、ミシェルはじっと私を見つめてきた。
「それは……あなたもそう思っているということで良いですか?」
「まあ、そうね」
「……自分の容姿に感謝したのは初めてです」
ミシェルは頬を赤くしながら、嬉しそうにほほえんだ。
「婚約者として、手をつないでも良いですか、アリアンヌ」
今度は彼は真面目な顔で尋ねてきた。
「いいわよ」
そう言うと彼は嬉しそうに私の手を取った。
「冷たいですね。僕が温めましょう」
彼の気の魔力がそっと伝わる。優しく生命力を癒してくれる、私に必要な力。
「……ミシェル、あなたは本当に私を愛する努力をするのね」
私は思わずそうつぶやいていた。
「いいえ、アリアンヌ」
ミシェルは、私の瞳をまっすぐに見つめ、優しくほほえんだ。
「これは、努力ではありません。僕の、本当の心からの愛です」
その言葉に、私はわずかに胸が熱くなるのを感じた。
愛されなくても構わないと、私は思っていた。 自分自身もまた、愛する努力をすることもないと思っていたくらいだ。私の人生は、闇の魔力と、それを正しく使うための義務で構成されている。
しかし、この温かさはどうだろう。彼の鍛えられた手が、私の冷えた指を包み込み、清廉な気をまとった熱を伝えてくる。この、清らかで一途な魔力が、本当に心地よい。
私は隣の彼を見上げると、すばやく背伸びをして、彼の頬にそっと、一瞬だけ唇を押し付けた。まるで小鳥が啄むような、短い触れ合い。
ミシェルは突然の出来事に、大きく目を見開き、耳まで真っ赤になった。
「……っ」
「婚約者なんだから、これくらい良いでしょう。それとも、嫌だった?」
「アリアンヌ、あなたという人は――」
戸惑う少年のような顔をしていたミシェルは、ややしてゆっくりと顔をほころばせた。
「――嫌ではありません。どうかあなたの、お気に召すままに」
頬を染めたまま、瑞々しい笑み見せる彼を眺めながら、私は満足した。可愛い。そう思ってしまうのだから、きっと私もほだされるのだろう。母のように。
指と指が絡み合う。そのまま私たちはゆっくりと、散策を再開した。
(THE END)
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