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プロローグ1 裁判所の大法廷

 椅子が硬い。背もたれには彫刻すら施されておらず、座面は平らで、ただの木材を組み合わせただけのものだった。座る者への慈悲など欠片も感じない。けれど、二週間も冷えた石の床に転がされるようにして過ごしてきた今となっては、この硬い椅子すらも馴染んでいるように思えた。


 ここはグレンツェン王国で最も威厳ある場所、大法廷。法と秩序を象徴するこの場に、私は罪人として立たされている。

 両手には冷たい鉄の枷。擦れた肌が赤く腫れ上がっている。

 かつて月光のように輝いていた銀髪は、その艶を失い、無造作に垂れ下がっている。美しい波打つ髪は絡まり、灰色がかったように見えた。ドレスの刺繍が描いていた優雅な模様も、今は跡形もない。身に纏っているのは、粗末な麻布のワンピース。生地はくすみ、袖口はほつれ、泥の染みが残っている。


 けれど、それでも私は背筋を伸ばして座っていた。


 王女セシリア・ルイ・グレンツェンとして、そして何よりも、王太子として。

 何を言われようと、何をされようと、この身に染み付いた誇りだけは失わない。

 

 なぜなら

 私は、何もしていないのだから。


 「第一王女セシリア、ご起立ください」


 一際高い位置から響いた声。法服を纏い、厳格な表情を崩さない男、ランバート・ザン・ペベレル。この国の宰相にして、今や王の代弁者として私を裁く立場にいる。


 私はゆっくりと腰を上げた。

 静寂の中、手枷が軋む音だけが冷たく響く。


 目の前に広がるのは馬蹄形の法廷。オペラハウスのように幾層にも積み重なる貴族席には、この国を支配する者たちが並んでいた。

 一番上に座するのは公爵家の面々。その下には侯爵、伯爵、子爵、男爵たち。そして彼らの夫人や後継者が、私を見下ろしている。


 さらに、一階の傍聴席には貴族ではない者たちも詰めかけていた。高額な金を払い席を手に入れた新聞記者や商人、実業家たちが、目を輝かせながらこの瞬間を見届けようとしている。

 誰もが、この裁判の行方に息を潜めている。


 王女セシリアに判決が下される日。


 私が立ち上がった瞬間、ざわめきが広がった。

 波のように押し寄せる視線。

 そのほとんどが冷たい軽蔑と侮蔑だった。


 堂々としてらっしゃるわ

 王妃を殺害したというのに

 可哀想な王女様

 牢に入っても美しさは変わらないわね

 反省の色もないな

 ルシャールは王女を捨てたか?

 仕方ない。王女がいなくなってもほかの孫がいるだろう


 何とでも言えばいい。

 私は王女だ。


 生まれた時から人前にさらされ、噂話の的にされてきた。

 公務で身につけたドレスや宝石、その価格まで細かに記録され、国民はそれをお茶の話題や酒の肴にする。私がどこで何をしたか、誰と話したか、笑ったか泣いたか……それすらも逐一書き立てられてきた。


 そんな日々の中で、冷ややかな視線や悪意に満ちた言葉を浴びることが、どうして私にとって特別なことだと言えるだろう。


 私は自由だったことなど、一瞬もない。

 それでもいい。


 私は誇り高き王女セシリア・ルイ・グレンツェン。

 どれほどの罵声を浴びようとも、この胸に刻まれた誇りは決して揺るがない。

 罪人の鎖を付けられようとも、私が失うものなど何もないのだから。


 私は選択を間違えない。


 背筋をピンと伸ばし、手枷の重みを感じながら一歩前に出る。


 「判決を言い渡します」


 宰相ランバートの声が法廷に響き渡った。

 一瞬にして、場内が静まり返る。まるで時間そのものが止まったかのようだった。


 次の瞬間、無数の視線が一斉に私へと注がれる。

 けれど、その関心は長くは続かない。

 彼らの目は、すぐさま法廷の最上段へと移った。


 国王フェルナンド・ルイ・グレンツェン。


 この国の絶対的な権威を象徴する存在。

 王の口からどのような判決が下されるのか、誰もが固唾をのんで見守っている。

 そこには好奇の眼差し、憐れみの表情、あるいは歪んだ満足の色まであった。


 記者たちは机に身を乗り出し、鋭いペン先を紙に走らせる。

 貴族夫人たちは美しい扇を緩やかに揺らしながら、隣席の者と何やら囁き合っている。

 木製の床を踏む小さな音すら、やけに大きく響くほどに静寂が支配していた。


 私はそっと息を吸い込み、国王を見上げる。

 心を揺さぶられないよう、感情を押し殺す。


 今さら、何を言われようと驚きはしない。


 「王妃殺害、及び第二王女殺害未遂の罪により……斬首刑に処する」


 一瞬の沈黙の後、法廷は大きく波立った。


 「……っ!」


 貴族たちの間から漏れる驚きの声。

 悲鳴を上げる夫人、眉をひそめる老侯爵。


 妥当だ

 重すぎる!

 自分の娘を……

 王族の誇りも地に堕ちたか


 無数の声が入り混じり、法廷は騒然となった。

 憤り、嘲笑、同情。さまざまな感情が乱雑にぶつかり合う。


 私は静かに目を閉じた。

 心が波立つことはない。

 国王がそうすることは、初めから分かっていたのだから。

 それでも、胸の奥にわずかに残っていた期待は今、完全に砕かれた。

 父は、私を見捨てたのだ。


 ガタンッ

 

 鋭い音が響く。

 国王が立ち上がったのだろう。

 再び静寂が訪れる。


 場内に張り詰めた緊張が走る中、国王は静かに言葉を紡いだ。


 「処刑日は追って知らせる。それまで牢にいるように」


 それだけを告げると、国王は重々しく視線を落とした。


 「……セシリアよ、なにか言いたいことはあるか」


 言いたいこと。

 この期に及んで、何を聞きたいと言うのだろうか。

 今までどれほど声を上げても、どれほど訴えても、父は何ひとつ耳を貸さなかった。


 裁判が始まってからも、私は何度も否認した。

 それでも彼は、ただの一度も私の言葉に真摯に向き合うことはなかった。

 そんな男が今さら、私の言葉を望むというのか?

 胸の奥から込み上げてくる虚しさを噛み締める。


 ……いや、違う。


 あの人は、父ではない。

 お母様が亡くなってから一度たりとも、私にとって父親であったことはない。


 あの人は、ただの国王だった。

 王妃を失い、第二王女を傷つけたとして国のために王女を処罰する。

 それだけの判断を下したのだ。


 国のために、娘を斬る王。

 私は、じっとその姿を見つめた。

 私を本当に守り、支えてくれたのは、あの人ではない。


 私は、選択を間違えない。 


 「はい、ございます」


 透き通った声が静寂を破った。

 場内がざわめく。


 何を言い出すのかと、視線が再び私に集中した。

 国王はわずかに目を細め、冷淡な声で促す。


 「聞こう」


 私は、静かに唇を開いた。


 「国王陛下」


 まずは形式通り、王への敬称をつけて口火を切る。


 「私は今日まで無実を訴えてまいりました。そしてそれは、これからも変わることはございません。……私は、無実です」


 はっきりとした声で、堂々と宣言する。

 偽りの罪を押し付けられた王女としてではなく、この国の誇り高き王太子として。


 「誇り高き国王陛下は、私を陥れた真犯人を突き止めてくださることを信じておりましたが、とうとう叶うことはございませんでした」


 冷たい皮肉が込められた言葉に、貴族たちは息を飲む。


 「真犯人はきっと、今この瞬間も心の中で嘲っていることでしょう」


 脳裏に浮かぶのは、あの忌々しい視線。

 薄笑いを浮かべ、私が罪に問われるさまを楽しんでいる者。

 それでも、私は視線を逸らさない。


 「作り上げられた罪人だとしても、私は王女。この国の王太女です」


 胸を張り、己の誇りを示すように。


 「私にはその誇りと意地がございます。決して命乞いなどいたしません。この一件の全て、私が背負って死んでゆきましょう」


 言葉を紡ぐたびに、場内の空気が変わっていく。

 

 「……これ以上、私の大切な人たちが苦しむ姿を見たくありませんので」


 そう言い切った瞬間、喉の奥が震えた。

 込み上げる涙を堪え、まっすぐに王を見据える。


 王妃殿下の殺害。

 第二王女アヴェリンの殺害未遂。

 私がそんな卑しい真似をするはずがない。


 継母である王妃。異母妹であるアヴェリン。


 たとえ血を分けた家族ではなくとも、私は彼女たちを敬い、慈しんできた。

 何より、二人を守ろうとしていた。……守りたかった。

 それが、亡きお母様との 約束 だったから。


 涙を見せるわけにはいかない。

 私は震える指先を隠しながら、次の言葉を告げた。


 「無実の罪を背負い死んでいく娘に、最期のお慈悲を願います」


 場内がざわめく。


 「私の処刑は明日にしていただいて構いません」


 さらなる衝撃が波となって広がった。

 まるで、覚悟を決めたかのように堂々とした態度に、誰もが息を呑む。


 「ただ、今日だけ、今夜だけは、私が生まれた時から今日までそばで支えてくれた者たちと過ごすことをお許しください」


 侍女や騎士の優しい微笑み。

 誰よりも私を大切に思ってくれた人々の温もり。


 「王女宮で私に仕えてくれた皆に、最期の別れをしたいのです」


 それは、偽りなき 娘の願い。


 「……娘の、最期の願いでございます」


 私は、静かに頭を下げた。

 銀色の髪が一筋、ゆるやかに肩先へと落ちる。

 光を受けて淡く輝くその髪が、静寂の中でかすかに揺れた。


 「国王陛下!それは容認できません!」


 突如として響き渡った一際大きな声に、広間は静寂に包まれた。私はゆっくりと顔を上げ、声のした方を見やる。公爵席から立ち上がっている男の姿に、心の中で嘆息した。


 フランツ・バン・ルシャール。

 ルシャール公爵家の次期当主であり、私の伯父に当たる人物だ。母アメリアの実家であるルシャール家は、代々蛇を象徴としてきた名門貴族。彼の胸元には、そのシンボルである銀の蛇のブローチが燦然と輝いている。


 「王女は何か企んでいるに違いありません! そもそも、王女宮の侍女も騎士も処罰対象でございます。決して許されるべきではありません!」


 まるで私を悪しき存在に仕立て上げようとするかのような、憎悪に満ちた声。伯父のその姿に、私は密かに冷笑した。ルシャール家にとって私は血の繋がった姪のはず。それなのに、迷いもなく処刑を推し進めようとしている。

 やはり蛇は蛇だ。


 その時、低く重厚な声が広間に響いた。


 「これは由々しきことですぞ、ルシャール小公爵。セシリア王女はあなたにとっても、私にとっても姪ではありませんか。それなのに、今の発言は聞き捨てなりませんな」


 その声の主は、公爵席に座る一人の男。


 ウルリック・バン・オルタール。

 父の姉であるイシス王女の夫であり、父方の伯父にあたる。オルタール公爵家の現当主の彼は、ダークブラウンの髪を無造作に撫で上げ、堂々とした体躯を誇示していた。若い頃は剣の腕でも名を馳せたというが、今もなお鍛え抜かれた肉体は衰えていない。

 胸元に輝くのは、オルタール家の象徴である銀の狼のブローチ。誇り高きその姿は、蛇を掲げるルシャール家とは対照的だった。


 「仕方がないでしょう。姪であり、我らが賢く尊い王女殿下であらせられましたが、今や罪を負った犯罪者になってしまわれたのです。苦しい決断ではありますが、我らは公爵家としての責務を果たさなければなりません。それとも、罪を犯した王女を庇われるのですか? オルタール公爵様」


 フランツ伯父の声は、皮肉げに響く。

 しかし、エリオット伯父はその言葉にも動じず、重々しく口を開いた。


 「我が姪として、セシリア王女は申し分なく、誠に誇り高く思っております。それは今までも、そしてこれからも変わることはありません」


 その言葉に、ほんの一瞬、心が揺れた。


 「そして忘れてはなりません。先ほど自ら仰ったように、セシリア王女は貴族でも平民でもなく、王族。ましてや王太子であらせられる。もし罪を犯したとしても、その身分が変わることはない。礼を尽くすのは当然のこと。これが我がオルタールの意向にて」


 毅然とした声は、広間に静かな威圧感を漂わせる。

 だが、その直後、嗤うような声が割って入った。


 「ははは、ご立派な決断ですな、オルタール公爵。さよう、今罪を償おうとしているあの少女は、可愛い我が孫である前に、この国の王太女。礼を尽くさなければ」


 ヨハン・バン・ルシャール。

 ルシャール公爵家の現当主であり、私の祖父。雪のように白い髪と髭、そして蛇頭のステッキを手にしたその姿は、老いてなお威厳を保っている。

 祖父のその瞳は、まるで全てを見透かしているかのようだった。


 「フランツ、お前も少し見習いなさい」


 祖父の声は穏やかだったが、内に秘めた嘲弄は隠しきれない。

 罪を償っている?

 私は目を伏せた。無実を訴えた声など、彼らの耳には届いていないのだろう。


 「……ふっ」


 鼻先で小さく笑う。

 誰が罪を償っているというのか。私は罪など犯していない。無実を叫び続けたのに、彼らはその声を黙殺した。

 それなのに「罪を償う」とは。


 その言葉の滑稽さに、笑わずにはいられなかった。


「皆、静粛に。ルシャール小公爵も着席しなさい」


 国王の声が、重厚な法廷に響き渡った。先ほどまでざわめいていた貴族たちは、まるで水を打ったように沈黙する。

 フランツ伯父は不服そうに眉をひそめたが、国王の威圧感を前にしては逆らうこともできず、憤然としながらも椅子に腰を下ろした。その動作一つにも苛立ちが滲んでいる。


 国王はゆっくりと私の方へ視線を移した。濃い青の瞳が静かに揺れる。


 「……セシリア、その決断に後悔はないか」


 低く、重い声だった。


 「一晩の再会と引き換えに差し出すのは己の命だぞ」


 その問いかけに、私は迷いなく首を縦に振る。


 「はい。一片の悔いもございません」


 言葉は自然と口をついて出た。


 「最後まで私を信じてくれる者たちと過ごせるのなら、こんなにも喜ばしいことはありません」


 その声が広間に静かに響いた。

 父である国王は、じっと私を見つめた。私の瞳の奥に何を見ているのか、それはわからない。ただ、彼の表情は読み取れないほど硬く、しかしわずかな迷いが見え隠れしていた。


 しばしの沈黙が流れる。やがて国王は、大きく息を吐いた。まるで長年の荷を背負った者が、重圧から逃れるように。

 そして、その口から重々しい言葉が紡がれた。


 「申し出を認めよう」


 広間に再び緊張が走る。


 「皆に告げる! 明日の正午ちょうど、宮殿前の大広場にて王女セシリアの刑を執行する。それまで王女は侍女と騎士とともに王女宮に軟禁とする!」


 これで、すべてが決まった。


 宰相が静かに立ち上がり、重厚な木槌を振り下ろした。


 「これにて閉廷といたします」


 木槌が響き渡る音と同時に、広間はざわめきに包まれた。

 声を潜めた貴族たちの囁きが波のように広がっていく。


 王女が処刑されるとは

 王家の恥

 いや、あれほどの潔さを見せたのだ

 本当に罪を犯したのか……?


 どれも耳障りな言葉だったが、私は表情一つ変えなかった。ただ、淡々とそこに立ち続けるだけだった。


 「王女殿下」


 背後から近衛兵の声がかかる。

 私は国王をもう一度見上げ、深々とカーテシーをした。

 その瞬間、国王の瞳がわずかに揺らぐのが見えた。

 いつもよりも険しいその顔は、何かを言いたげだった。けれど、彼は何も言わなかった。

 私は口角をわずかに持ち上げ、微笑んだ。それは決して喜びを示すものではなく、無理にでも平静を装うためのもの。

 国王は、ただ沈黙のまま私を見つめ続けた。

 

 ゆっくりと目を逸らした私は、視線を巡らせる。

 バルコニー席に並ぶ貴族たちは、オメルタ公爵の発言があってからか、皆一様に儀礼を示していた。

 男性は片手を胸に添えて深く頭を垂れるボウアンドスクレープ。

 女性は美しいドレスの裾を優雅に持ち上げ、優美なカーテシーを見せる。

 

 今更、そんなことをされても。


 敬意を表されたところで、何も感じることはできなかった。

 私は静かに目を伏せ、前後を近衛兵に挟まれる形で法廷を後にする。

 手首にかけられた冷たい手枷が、歩みを進めるたびに鈍い音を立てた。


 カシャン、カシャン。


 無機質な音が耳に焼き付く。

 その音は、まるで私が犯したとされる罪を思い出させるかのようだった。

 広間の扉が開かれる瞬間、私は微かに振り返った。


 誰も、私を呼び止めることはなかった。

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