プロローグ
「第一王子妃への窃盗、傷害、誘拐、……」
身に覚えのない罪が他でもない私の元婚約者、シャルル・アンドレ第一王子の口から紡がれていく。
(やめて……ききたくない)
残酷にも、事態は悪化していく。かつて王国の華と称された彼女が今まさに断罪されようとしている様子はさながら、手から滑り落ちていく美しい花を思わせた。
「これらの罪によりマーガレット・レーガンを死刑に処する」
(いやよ。信じられない、信じたくない……)
自分の無実は自分がよく知っているのに、ほろりと大粒の涙が頬を伝い、滴り、豪奢なドレスを濡らす。
哀れな女に見えたのか、王子は軽蔑の籠もった眼差しでマーガレットを一瞥する。
「はやく捕らえよ」
シャルルのその言葉により王家直属の兵隊に囲まれ、あっという間にマーガレットは捕らえられてしまった
「いやっ……やめて……やめてくださいっ……痛ッ」
マーガレットの悲痛な叫びすら聞こえていないとでも言うように近くにいた王子妃――ローラ・プリドール嬢の腰にそっと腕をまわすとマーガレットに背を向け、歩き出す。
まるで、断罪などなかったかのような優雅な彼らの姿と兵士に引きずられていく枯れ落ちた花のようなマーガレットは悲しいくらいに釣り合っていなかった。
底冷えする牢のなかマーガレットは一人孤独と寒さに耐えかねていた。今ではその寒さも辛さも靄がかかったように曖昧で、思い出すことなどできないが。
一人きりの牢の中、すっかり痩せ細った手に細い息を吹きかける様は憔悴しきっていて、見るに堪えない姿となっていた。
……もっともわざわざ牢に来る者などいなかったのだが。
でも、今日は違うみたいだった。無音に慣れてしまったマーガレットの耳に、複数人のものと思われる足音が響いた。
「マーガレット・レーガンだな」
久しぶりに呼ばれた名前。以前は令嬢たちの憧れであったその名は、今はもう敬称さえ付けられないほど廃れていた。
それでも、やはり自分の名は捨てることなどできない。この身に染みつき、反応したくもないのに、顔を上げて頷いてしまう。
「お前の死刑を実行する」
その言葉を、マーガレットは何よりも求めていたはずだった。地獄のような日々を終わらせる、唯一の言葉だからだ。
だが、どうしてかその求めていた言葉はマーガレットの心を救うことなどなく、深く心に刺さり傷をつけた。
それからのことを、マーガレットはよく覚えていない。
断頭台へと続く道は長かったようで、とても短かったような気もする。耳を塞ぎたくなる民衆の非難の声が耳をついていたような記憶もある。
ただ、履物を履いていない足は、本来なら冷たい地面を歩んでいたはずなのにその感覚は全く覚えていない。そして痛いほどに拘束された手首の感覚も同じだ。
――全てが地獄のようで。
けれど、天国へと続く道にも感じられた。
うつ伏せにさせられ、首を押さえられたマーガレットはただただ自分の首が切り落とされることを待つ。
哀しみの涙を隠すようにマーガレットは瞼を固く閉じると、時間の流れが遅くなったような感覚がした。
刃が落ちるまでがひどく長いように感じられ、その間がマーガレットには何より辛かった。
唐突に、これまでの出来事が脳裏を駆け巡った。思い出すと止まらない。これが、走馬灯というのだろう。
ついに風を切り滑り落ちてくる刃の音が聞こえ、マーガレットは拘束された手をぎゅっと握りしめた。
そして―――
「……っ!!」
少女はふかふかのベッドから飛び起き、辺りを見回す。
「わ、わたくし、処刑されたはずでは?」
脳裏に記憶の断片として浮かぶ、冤罪による断罪、耐えきれない孤独と寒さ。耳を塞ぎたくなる罵倒の声。
そして、そのまま――
「……って何を言っているのかしら。悪夢を見ていたのは確かなようだけれど、影響され過ぎだわ」
ベッドから降りて小さな足で部屋を歩き、部屋の奥にある姿見の前に辿り着く。
大きな鏡に7、8歳の少女がうつりこむ。碧みがかった灰色の瞳、背中まで伸びた煌めくような白銀の髪。不安げに下がった眉と華奢な体躯が少女の愛らしさを際立たせている。
少女は見慣れた自分の姿を見て、ほっと、息を吐く。
「いつも通り、ですわね」
少女――マーガレットは生まれてからよく悪夢を見る質だった。そしてそれは今も変わらず、――現に悪夢を今朝も見たばかりだ。だが、その内容を明確に覚えていたことは一度もなく、何をもって悪夢と己が判断しているのかは良くわからない。ただ漠然と、自身が恐れていることが起こった。そんな記憶をどこか他人事のように感じていた。
同じ夢を何度も見ているような気もするし、見る度に違う未来を見ているような気もする。
「でも、ただの夢なのだからここまで思い詰める必要はないわ」
夢は夢だ。そんなものに振り回されてばかりいる自分が情けない。
「あれ……?」
――それなのに何故、体には汗が滲んで顔は恐怖に染まっているのか。
「ただの、夢なのに。気にしてはいけないのに……」
どうしてか、涙が浮かぶ。
可笑しな話だ。内容も今となってはもう靄に包まれたように碌に思い出せないというのに。
「馬鹿らしいですわ。時間がもったいない。わたくしにはするべきことがあるのですもの」
強引に涙を拭い、侍女たちの手を借りてマーガレットは身支度を始める。
上半身を包む滑らかなシルクの黒い生地に、純白のふんわりと広がったスカート部分の対比が美しいドレスを纏ったマーガレットは、先程より華やかな印象をもたせる。
(あんな夢の言いなりになんてならないのだから)
遠い昔のように感じられる夢の記憶を振り切るように首を振り、マーガレットは意識を切り替える。彼女の瞳は、とても8歳の少女とは思えないほど強い光を宿していた。