伊月永の合格報告
風が強く吹いて、抵抗したり背中をおしたり、いたずら好きな小さな子どもが注意を向けてもらいたがるようにじゃれてくる。浅くかぶっていた帽子が飛ばされないように片手で押さえながら意気揚々、いつものカフェに向かっていた。きっとあの人がいるだろうと確信に近い想像をしながら。
春の兆しを全面に押し出した店内の客入りはまばらだった。平日の朝だから無理もない。さて。いつもは甘いものを注文するけれど、今日は大人っぽいかっこいいものを飲んでみたい。ホットの氷無しみたいな、キレのあるドリンク。そういう気分だ。
先客らの飲み物を参考にしようと店内を見渡したけれど、中身の見えないカップにふたがついていてわからなかった。見つめても透視はかなわないだろうから簡単にあきらめがつく。
代わりに、赤と白の激ダサ眼鏡に視線が留まった。
早歩きで近づき、目の前の席を陣取る。無視され続けるのも嫌だから片耳のイヤホンを没収してあいさつした。
「どうも、先生! 丑3つ時から7時間以上経過した伊月です! 今日もイケメンが霞んでいらっしゃいますねぇ!」
「耳障り。ディスタンス狂ってんのか」
手を止めず顔すら上げてくれない先生の塩対応すら気にならない。「メッセ送ったじゃないですか」に対して「朝から暇だね」と返されてもめげない。今のわたしのHPを削るには攻撃力不足だ。
「お互いさまでしょ」
「君の目には何が映っている? これでも今朝からシャー芯2本消費したのだが」
いやはや、その筆圧で1時間に1本のペースとは頭が下がる。腱鞘炎にはご注意願いたい。
先生は重度のアナログ主義者らしく、基本的に情報をまとめるのに使うのは一般的な大学ノートを使っている。かたわらのiPadは調べもの要員らしいし、たまにお供を許されるノートパソコンは貯めた課題の昇華要員らしい。
「いやぁ、先生の御自宅に乗りこんでも良かったんですけどね」
「やめて。何かあったとき矢面に立たされるの私だから」
「別に構いませんよ」
冷たいまなざしの先生から「世知辛い」とのコメントとカップの下敷きにされていた小さな紙が押しつけられた。なんですかと尋ねると、賄賂だという。なるほど、このレシートを提示すればコーヒーSサイズが半額らしい。
コーヒー……うん、悪くない!
帽子で席を確保してレジへ向かった。
先生とのつきあいはそれなりに長く、この1年はとくに大学受験に向けた勉強をみてもらっていた。文系だと聞いていたけれど数学も理科も問題なく対応してくれた。生憎というか幸いというか、この先生はなかなか優秀らしかった。
「つまり、窒素は理想気体に近い挙動をするが、分子間力に影響を受けて単位体積当たりにおける二酸化炭素分子の総数は――(中略)――ってことだから、君はとりあえずファラデー先生の『ロウソクの科学』を拝読するべきだ」
このような解説の最後のほうの蛇足については受験生に余計なことさせるなよと思いつつ無視を決め込むと、授業後に「【急務】『ロウソクの科学』を入手&読破すること」とメッセージを送ってくる始末だった。
たいていの質問に対して「難しくないよ、ロジカルに考えれば答え出るから。ほら、がんばれ」「そんなんパズルじゃん。でてきた原子をいい感じに並べりゃいける」ほとんどの返答は雑だったけれど、本気で詰まっていたら「何が必要か考えて。まず何を求めたいか、目標補足」「公式。誰かさんの公式。何かの定理だったらごめん」とか、短いアドバイスをくれたから家庭教師としては十分及第点だった。
浪人も覚悟したが、今朝、合格通知を受け取ることができたのは彼のおかげだと素直に思う。
席に戻ると、先生はシャーペンをカチカチしながら「で、どうした?」あまりに興味なさげだったから質問だと認識するのに時間を要した。塩対応がデフォルトな先生だが、その実、人間に興味があるのだ。
ふふふ……見ているかどうかしらないが、渾身のどや顔で答えてやろう。
「第一志望、受かりました」
「おー、うん。おめでと」
「……え。そっけなさすぎません?」
「君の努力の結果だろう?」
「先生のご指導あってのことです」
「まあ、確かに君、文系科目酷かったよね。特に政治」
「ラプンツェルのほうが政治に関心ありますから」
「あの子が知りたいと望んだのは日本の社会構造では無いよ。また原作読んでいないな? ディズニーの世界観だけで満足するな、読みなさい」
「考えておきます」
「こら、日本人!」
シャーペンのキャップ側で額を小突かれそうになる。事実、微塵も読むつもりはないので甘んじて受けた。直後、ペン軸を掴んで強く引くと先生の手から抜き取れた。筆圧の格差が勝敗を分けたようだ。
ペン回しの要領で小型マイクごとく先生にキャップ側を突き出して尋ねる。
「それよりも。結局、一度も聞かれてませんけど、教え子の進学先、気にならないんですか?」
「うちの大学の社会科学部行動経済学科でしょう?」
「あれ、言いましたっけ?」
「簡単なことだよ。3年間も君に教えてたんだから、ロジカルに考えればわかる」
奪い返されそうになったシャーペンを守りぬき、手が伸ばされた筆箱も没収した。これで筆記用具を失った先生はため息をついて
「ひとつ。夏以降において頻度は落ちたものの週3回は来ていたから住居は遠くない。ひとつ。勉強科目は、英語、現文、古文、数学1a2b、化学、地理、政治経済、合計5教科8科目。ひとつ。合格報告は、2023年3月20日月曜日の午前10時前。……この3点をもとに考えた」
「どのように?」
「かの世界的名探偵にならって、可能性を検証することによって不適を除外していき、もっとも事実に近しい解答を導いた」
「消去法ってやつですか? おめずらしい」
「選択肢の中に答えがなければ消去法は成立し得ない。多くの場合、私の能力では可能性を網羅するに至らないから利用頻度が低いに過ぎない。ただ、今回のように限定された範囲における何かを特定するとき、必ず正答があると確信した段階ならばなによりも効力を発揮する」
こうして、けだるげな先生の推理講義がはじめられた。