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枕  

 私は疲れ果てた人のようにベッドに身を投げ出した。そうして疲労ーー他人の人生の労苦を聞くという疲労が全身を浸しているのを感じた。だが、私が真っ先に考えたのは『恐怖』についてだった。それは清水隆が感じたであろう恐怖であり、私が感じねばならない恐怖だ。

 小学生のようだなーーとまず私は思った。…いや、中学生だろうか? 高校生の時には、さすがになかったな。こうした子供らしい恐怖というのは。私は、『恐怖』を目の前にまざまざと現してみようと努力した。

 恐怖というのは、未来に対する不安から起こってくる。人間の意識は、現在だけでは足りない。未来と過去を想起する。時間が現れるのは、人間だけだ。

 時間も空間も元はと言えば、人間の内部にあった。人間の住む世界、生きる世界が属性としての時間や空間を『伴って』いたのだ。人は世界の中に生きていたのではない。生きる所がすなわち世界だったのだ。…だが、近代以降、人は時間と空間の中に住むようになる。…時計台ができ、地図ができる。世界は探索され、形が確定される。人間の存在そのものが、人間が発見したものによって包まれていく。宇宙には何があるのか、観測装置によって理解されると、地球に生きる人間の孤独が身に沁みてくる。空間と時間はどこまでも延長されていき、それを見つめる人間は、卑小な我が身を思う。人間の存在はどんどん小さくなる。人間が発見したものに反比例して。…パスカルは誰よりも早く、この宇宙を発見した。彼は一人ぼっちで宇宙の中にぽつんと存在している『人間』という存在に気づいた。彼は人類史上、もっとも理知的な人間だったが、それ故に彼の理知は彼の最大のライバルとなった。

 恐怖は、意識から起こってくる。自分が孤独だという恐怖。夜、寝る時に誰しもが震えた経験を持つだろう。ことに一人で眠っている時。もし、この世界に自分以外の人間が存在しないのであれば。もし夜が明けなければどうなるのか。そうした形而上的不安に、誰しも思春期にとらわれるのだろう。…いや、もしかしてそんな思いにとらわれない人だっているのかもしれない。そういう問いに出会わない人。もしかしたら、清水隆はこれまで、そんな事を思わなかったのかもしれない。…きっとそうだろう。彼は賢明に働いてきた。賢明に生きてきた。そして突然、形而上的な奈落に遭遇した。彼は立ち止まり、足元を見た。足元は真っ暗だ。そこにはそれまでの生活の充実、その影すら全くない。

 私は…そうだ。私は、思い出した。私が哲学を始めたきっかけを。私は、あの男と同じような、形而上的な恐怖に囚われたのだ。中学生の時だ。そうだ、それは今、私が感じてる恐怖と同じだ。思春期に現れる恐怖。世界の中の、宇宙の中の孤独。死後に何も存在しない、それを想像する恐怖。空っぽ、何もない。無が支配している宇宙。人は死んで死にきり。後には何もない。大人達が軽蔑して、唾棄する、心理的煩悶。私が哲学をはじめたきっかけはそれだった。そうした想像が、私を哲学に連れ込んだのだ。

 …ところが何と長い間、その事を忘れていたろう? 私はいつしか哲学の原初を忘れていた。いや、私自身が哲学に入り込んだきっかけを。あの男は、それを教えてくれたと言っていいかもしれない。私はと言えば、ずっと長い間、哲学を忘れていた。哲学を忘れて、哲学を研究していた。哲学を研究する事と、哲学するのは全く違う事だ。私は色々な学説に通じている。外国にも留学し、当地の研究者ともやり取りをした。上等な論文を書く事もでき、授業だって、受けは悪くない。だが、私はこれまで何にもしてこなかった。何も、自分の頭で考えなかった。私の頭に詰め込まれているのは、できあいの、他人の考えだけだ。だから、あの男に質問された時、他人のエピソードを話すばかりで、それ以上は何も答えられなかった。私が同じ立場に立たされたら? 私だって、絶望して寝込むだろう。世界を呪うだろう。ただ、それだけだ。それ以上の何もできない。あの男が私に憤慨するのも当然だ。

 私は忘れていた。ああ、忘れていた!! 中学生の頃、私はこんな風にしてベッドの上に寝て、(あくる朝、世界が終わっていたらどうしよう?)と本気で悩んだのだった。そうした悩みから哲学書を読み出した。それがきっかけだった。…今の私は、中学生のあの頃と何一つ変わっていない。今もこうやって、こうやって!…ベッドに寝転がっているだけだ。赤ん坊のように身を縮めて。老境に差し掛かろうとしているのに、空っぽなまま数十年を過ごし、何一つ考えられなかった。何一つ生み出せなかった。あの頃、中学生の時、感じていた恐怖から全く逃れていない。

 家族も社会的地位も結局は、何にもならない。森鴎外もまた、死の前にそれを悟ったのだ。「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」 彼は裸の、一人の人間として死ぬのを望んだ。あらゆる形式的取り扱いは死の前に何の意味もない。なんという徒労の人生! 文豪が何十年もかけてやっとその事に気づいたか! …そうだ、死はあらゆる形式を破壊していく。あらゆる満足、社会的地位、他者との繋がり、それを破壊していく。私はそれが怖かった。にも関わらず、その恐怖を忘れていた。よくも今の今まで忘れる事ができたものだ。メディアに取り上げられ、クズや愚物に祀り上げられて、よくも今まで満足でいられたものだ。この私が! ことによって、この私が! …私は一歩も進歩していない。ベッドの上で、世界の終わり、世界の果てを思って小便ちびりそうになっていた中学一年の頃から、私は一歩も進歩していない。

 …あの男は誠実だった。あの男は自分の疑問に誠実だった。だから、ああいう疑問もでてきたのだ。もっとごまかす事だってできたろうに。だが誤算は、私に答えを出してもらおうとした事だ。実際には私が答えを出して欲しかったのだ。誰かに。私にはあんな問いに答える資格はないし、そんな能力はない。一体、この世の誰があんな問いに答えられるというのだろう? 合理的なものしか知らない私達に。私はこれまでずっと、合理的なものをずっと追求してきた。哲学は、正しさを旨とする限り、独我論を越える事はできない。論理的には死後の世界や、意識の外側の事物はわからない。それ以外を語りたければ、論理とは違う言語で語るしかない。例えば宗教のような…。しかしそれは嘘だ。だから誰も語る事はできない。全部、あの男が把握していたとおりだ。あの男はそういう事もわかっていた。それなのに、答えを欲するとは…。私に問いを発するとは…。あの男は結局、不可能を望んでいたのだ。 

 私達は『汝』と呼びかける誰かを欲している。マルティン・ブーバーのような人にはそれが信じられた。彼は『それ』を感じる事ができたのかもしれない。だが、そこにはもう誰もいない。今や、誰もいない。この世界には、似たりよったりの人間共しかいない。みな『同一者』だ。誰しもが死の運命を持っているのに、それがないかのようにごまかしている。いつまでも生き続けられるかのように。いつまでも若くあれるかのように。今の世は馬鹿なはしゃぎが支配している。

 私はいずれ死ぬ。あの男と同じように。だが、あの男より長生きするだろう。あの男は、私に失望し、世界に憤慨し、己が生まれてきた事を呪って死ぬだろう。あと半年も持たないだろう。あの男の言葉を信じるなら。しかし半年が一年に、一年が十年に伸びても本質的には何も変わらない。私もまた、あの男が立った断崖にいずれ立たなくてはならない。今まではそれをごまかしていただけだ。

 ああ、なんという虚飾だろう! …私はうんざりしていた。もう、何もかもうんざりだった。私は寝転がって、うめいていた。全てがうんざりだった。何もかも嘘だった。…いや、そうではない。私はまた、自分に嘘をついている。

 私はあの男と違う。心の底で優越を感じている。溝に落ちて、もう二度と這い上がってこれない人間を見下ろしている。あの男を嘲笑っている私がいる。…「かわいそうに」と人は言う。「君の事はいつまでも忘れない」と人は言う。溝の下の人間を見下ろしつつ。それは全部嘘で、誰しも落ちたのが自分でなかった事を喜んでいる。私は、自分が絶望しているような振りをしているが、また嘘をついている。嘘ばかりだ。私は…優越を感じている。心をどこまでも深く降りても、必ず嘘がある。私はあの男とは違う。きちんとした人間だ。命もあり、繋がりもある。大病も患っていない。生きている。まだ、生きられるだろう。少しの間は。その事にホッとしている私がいる。それが私だ。

 私はベッドに寝転がって、そんな風に何時間も考え込んでいた。私はやがて眠りについた…いつの間にか、眠っていた。煩悶している間に眠っていた…。私が眠っている様は、きっと年老いた赤ん坊のように見えただろう、と思う。枕をギュッと抱きしめていたからだ。白髪染めを使わないいけない人間が幼児退行か…。仕方あるまい。私は、全てを忘れて眠った。私は全てが嫌だった。自分が生きている事も、自分がいずれ死ぬ事も、何もかも嫌だった。哲学も嫌だったし、生活も嫌だった。うんざりだった。ただ私は…私でありたいのだ。いや、それも嘘で、結局の所、何もかもは嘘だった。

 私は安らかに眠った。夢の中では見た事のない人の顔が見えた。目覚めた時、その人の顔を覚えていなかった。目覚めると、思ったよりも随分と明るかったので、(もう朝が来たのか?)と考えた。ところが、勘違いだった。私が読書灯をつけたままにしておいて、ベッドのあたりが照らされていたので、予想外に明るかっただけだった。

 私はそれに気づくとすぐに、この部屋から出て行った片脚の男、また、私が妻子を持つ哲学研究者である事など、要するに私の存在にまつわる全てを思い出して、うんざりとした。目覚めなければよかった、と思った。それほどにさっきの眠りは心地よかった。しかし、私はこれから二度と、安らかな眠りにつく事はできないだろう。私はこれからずっと目覚めたまま死を待たねばならないだろう。今の眠りは最後の眠りに違いない…。私は、急にそんな気がした。そんな予感が降ってきた。そうしてそれは、いつまでも抜ける事はないだろう。

 確かに、あの男を少数者として切り捨てる事はできない。あの男の叫んでいたように、それは不当な仕打ちであろう。いつまでも高みから見下ろす人間である事はできない。私もまた、溝の下に落ちねばならぬ…。結局の所、あの男は私の一部なのだ。私は、そんな気がしていた。……私はあの男を、私自身の闇を語りにやってきた死神のように思いなしていた。彼は暗い鎌を振り上げて私の首を切り落とす。その時はいずれやってくるだろう、と思う。先に彼が自分の首を切り落としてから。首が落ちる時が十年後か、半年後かーーそんな事は『宇宙的時間』から見ればほんの一刹那の違いであるだけに過ぎまい。私はそんな事を考えた。私は相変わらず、枕を抱いたまま横になっていた。そうして苦笑して、枕をベッドの上に投げ捨てた。立ち上がり、どこかへ行こうかと思ったが行くべき所はどこにもなかった。ただ暇つぶしの為の「世界」と名の付けられた場所があるだけだった。

 私はぺたんとベッドに座り込み、枕を膝の上に置いた。そうして優しく、枕を撫でてみた。人形を可愛がる女の子のように。枕はたいそう可愛く見えた。その丸みなどが。私はそうしている内に、自身の内部に狂気が萌しているのに気づいた。しかし狂気から逃れる気はなかった。狂人になろうが、なるまいが、そんな事は大した事ではあるまい。そんな気がした。そうして老いた大学教授は子供のように、可愛い可愛い枕の頭をいつまでも撫で続けた。

 

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