経歴
私は大学教授だ。順風満帆と言っていい人生を送ってきたかもしれない。他人の目から見れば。
私には子供が二人がいる。一人は結婚した。二人共、女の子だ。二人は私達夫婦の健康を気遣ってくれる。誕生日には必ずプレゼントを送ってきてくれる。二人共。
妻とは、大学院で知り合った。院生の内に結婚した。私が正式な講師になったタイミングで、妻は大学をやめた。妻も大学教授への道を歩んでいたが、専業主婦になって、私を支える立場になった。その後、時間がかかったが、私は何とか念願の教授になった。
ただの大学教授であれば、社会的成功を得たと言えないだろう。普通思われているより、大学教授はずっと貧しい。つつましい暮らしをしている。普通の会社員、中堅の会社員とそれほど違わない暮らしだ。だから「より以上」を求める講師は副業を持つ事になる。
副業の一つが、出版社から請け負って、一般向けの本を書く事だ。私はこの分野で成功した。…だからこそ、私は「順風満帆」という言葉を使った。大学教授をしているだけならばこの言葉を使わなかっただろう。
私が成功したのは、哲学の解説本だった。「最新の哲学を徹底解剖!」の宣伝文句で、本を売った。それは私の発案ではなく、ある懇意にしている編集者からの提案だった。
編集者というものはみな優秀だ。彼らは優秀でないと、生き残れない。彼らは…私達を利用する。それは私達もわかっている。彼らは、私達の社会的地位や、ある分野に通暁しているイメージを利用して、それを世俗的なものに吐き出させようとする。もちろん目的は売上であって、それ以外はどうでもいい。彼らはその為に色々な方法を利用する。彼らの優秀さには私も舌を巻いてきた。
私は、大学教授としての真面目な気持ちから、しばらくはそうした解説本の提案を断ってきた。しかし、その頃は事情が異なっていた。妻が二人目を妊娠していた。私も大学の方で、ある頑な教授と喧嘩をして干されかけていた。私はある派閥から敵視され、先行きは曇っていた。将来が不安だった。そんな時に編集者の誘いがあった。私は安心、現金という名の安心が欲しかった。それは「家族の為」という言い訳ができた。
私は編集者の提案に乗った。…本のほとんどの部分は実際には編集者が作ったと言っても良かっただろう。私は彼の助言をことごとく受け入れた。まず、現代哲学をいくつかのカテゴリに区切り、それらをできる限り単純化する。文章は平板に、意味を取りやすいようにして、段落を頻繁につける。哲学を数種類の概念で括る。そしてその概念を「今、私達が生きる為にどうすればいいか?」の問題に近づけていく。要するに、自己啓発的な事柄に哲学を解消していくのだ。
こうしてこの本の、一連の構造ははっきりと規定された。それを定式化すると次のようなものになる。
「なにやら難しく、深淵な現代哲学」
↓
「いくつかの概念に分類し、単純化して、読者に理解させる」
↓
「その概念を自己啓発的に、実践的なものに結びつける。高尚に見えていたものを世俗的なものまで下ろす」
こうした過程で本は作られていった。もちろん、私は気づいていた。哲学を概念で区切り、単純化する事によって、哲学の大切な部分がほとんど消えていく事に。ヘーゲルを「弁証法」という魔術的な言葉で割り切ると、なんと味気のないヘーゲル像ができあがる事か。マルクスを「共産主義者」と理解する時、例えば、マルクスが文学に通暁していたという豊かな味わいは全く霧散してしまう。
私は知っていた。哲学は、実は哲学者の偉大な個性や実存に支えられて存在しているのだと。私は、真面目な研究者だったのだ。だが、本を出す際には、私は真面目な研究者としての自分を殺そうと決意した。そこで、哲学の中から手近な結論を引き出して、それを常に単純な答えを求めている大衆に投げてやった。それが私のやった事だ。編集者との共犯で。
本は売れた。私は名声を得た。テレビにも「気鋭の哲学者」という事で出たりした。私はテレビに出て、平たく言えば「調子に乗った」。私は解説本の立場を更に一歩進める事にした。
私は、ある一つの概念を現代哲学から抽象した。それは本の中でもやっていた事だったが、今度は、その言葉を流行語を狙うような感じで、カタカナで簡単に表した。その概念一つ取り出しさえすれば、世界の様々な事物が理解でき、「人生をいかに生きるべきか?」という問いにも解決を出してくれる。そうした魔術的な符牒を、私と編集者、それからそうしたヒット作を常に狙っている有象無象…プロデューサーだとか広告代理店だとか、そうした連中と相談して作り出した。
その言葉はそこそこの成果を収めた。私は、その言葉を色々な形で語った。次第にその言葉は、元々意図していたよりも単純化され、馬鹿馬鹿しい符牒となっていったが、誰も気に留めなかった。また、一方ではその符牒は、各々がそれぞれ自分勝手な意味を付け加えるのも可能な言葉となっていた。それぞれが勝手な自分の欲望や、世界に対する解釈を、その言葉に担わせていった。彼らは自分達は正当な理解をしていると信じていたが。しかし私はそれを批判もしなかった。煽られるに任せていた。
そんな活動を続けている内に、私は疲れてきた。そうした言葉を弄んでいる自分が馬鹿馬鹿しくなってきたのだった。他の、魂を売った連中、正確には最初から魂が欠けた連中と違って、(自分は違う事をしている)という感覚が私には存在した。その良心の如きものが絶えず私をツンツンと突いて、次第に私は耐えられなくなった。私が耐えられなくなった時期と、大衆が私に飽きた時期(決して私の正体を見破ったのではない)は丁度同じ頃だった。私は次第にテレビに呼ばれなくなった。本の依頼は来ていたが、出版の頻度は減った。こうして私は売れっ子ではなくなった。もっとも、魂を売った見返りに金銭と地位を得た。現実社会というのは誠に、悪魔との契約をいつも囁いているものだ。
私がそうした華々しい活動をしていた頃、私を批判する同僚も中にはいた。彼らはたいてい、真面目な研究者だった。彼らは学者としての良心から、「学問を安売りするな」と忠告してきてくれたのだった。私はその頃は傲慢だったので、忠告してきた仲間はみな、私に嫉妬しているのだと考えた。(こいつらは成功した私を嫉妬しているんだ。本当は私みたいになりたいだけなんだ) そう心の中で繰り返す事によって、精神安定を図っていた。
もちろん、本当に嫉妬の感情だけで批判してくる無能な輩もいた。この無能な輩は、大学組織の様々な場所に存在していた。彼らは自分を捨てて世俗に迎合する事もできないし、孤立して真面目に学究活動をする事もできなかった。要するに真に無能な輩で、彼らは他人を嫉妬し、攻撃する事しかできなかった。彼らの論文は単なる妄想の産物に知的装いをつけたものに過ぎなかった。
私の経歴はそうしたものだった。そうした狂乱は一つの区切りを終えて、私はメディアの上では忘れられた存在となっていた。過去の栄光から現れてくる仕事を適当にこなしてはいたが。…私は実際の所、満足していた。自分が名誉を得た事に。また、哲学も学問もわからない若い学生から「あの〇〇先生だ!」などと親しまれる事に喜んでもいた。大抵は学生も、また驚く事に大学の講師も、ほとんど学問の本質というものがわかっていなかった。過去のように総体的な教養は意味がないものとなり、それぞれの人間は学問の細部に入り込み、「最先端」を齧る事で現代の賢者のような観を呈していたが、実際には人生の大きな問題も、偉大な思想家が何を求めていたかも、まるでわかっていなかった。それは議題に上らなかったし、そんな大問題を取り上げようとする人間は「アマチュア」だと白い目で見られて、脇に追いやられた。「プロ」たるものは細部を疎かにしてはならない。全ては細部と小理屈に分解され、些末な問題を学究的に追求して、少しでも他の研究者よりも一歩先を行かなければいけない。そんな過酷な競争がどこにも行われていた。
※
彼が私に会いに来たのはそんな頃だった。つまり…私が華麗な境地から飛び降りて、静かな生活の満足を味わっていた頃だ。
私はもう真面目に研究をする気もなかったし、華々しいが騒々しい世界に舞い戻ろうとも思っていなかった。ただ、私は過去の栄光の残り香の中で、静かに満足していたのだった。そんな日々を送っていた。
彼は私に突然、会いに来た。…私の方からは「突然」だったが、彼の方では突然ではなかった。彼はその事も初対面の時に語った。
彼の名前を最初に聞いたのは恩師の口からだ。私が世話になった教授で、彼はもう引退していた。私とはごくたまに連絡を取るぐらいだったが、ある時、教授の方から私にメールが来た。それは頼み事だった。教授は頼み事などあまり人にしないタイプだったので、私は意外に思ったものだ。
「君にどうしても会いたいと言っている人がいる。彼は重い病にかかっていて、片方の足を手術で切り落としてしまった。彼はどうしても君に会いたいそうだ。私とは、遠いつながりだが、伝手を辿って連絡してきた。私は一度会ったよ。可愛そうな男だ。一度、彼に会ってくれないだろうか?」
私は教授に頼まれた事なら何でもやろう、と思っていた。よほどの事でなければ、断る事はない。また、そうした気持ちがあったからこそ、私は社会の階梯を上ってくる事ができたのだ。
だから私は請われるまでもなく、その人物に会うつもりだった。その人物の名前は清水と言って、四十絡みの男だった。彼がどんな人物か、もちろん私にはわからなかったが、彼が重病だというのが興味を惹いた。彼が片脚しかないという事、その事と私と会いたいという願い…それがどう繋がっているのか、教授のメールからは推し量れなかったが、その事実は私の興味を惹いた。彼が重病である事で、私は何かしら、慈善をするのだという気持ちに満ちていた。それを否定するわけにはいかないだろう。その時の私にはそういう気分があったし、私のような名の知れた人間が、重い病の一般人に目を「かけてやる」という快感があった…。そしておそらくは、それこそが、私が彼に興味を抱いた原因だった。
教授には快諾の返信を送った。教授は喜んでくれた。「彼もそう長くないから…」と、教授の返信には不吉な言葉が含まれていた。片脚の、余命がそう長くもない人物…彼がどうして私と会いたいのか、私には検討もつかなかったが、大方、二言三言、励まし、肩を叩いてやれば終わりだろう、と私は考えていた。それ以上の事は起こるまい。それに、その後、何が起ころうと私の名誉に障りはないだろう。むしろ寛大な態度を示したと人には見られるだろう。この邂逅を多少脚色して、講義で話すのもいいだろう。私はその程度の甘い考えしか抱いていなかった。
これは強調しておかねばならないが、私は彼と会う事を全く重要だとみなしていなかった。彼は無名の人間であり、私は今はそれほどでもないとしても、まあ有名人と言っていい人間だった。その後光が未だに大学内部では通用していた。もちろん、それを攻撃する人間もいたが…。私にとって彼は何でもない一般人でしかなく、片脚の不幸な中年男性でしかなかった。私は彼の存在がそのように大きな意味を持つとは全く予期していなかったのである。だから、それは私にとって不意打ちのようにやってきた。




