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君は愛しいドッペルゲンガー 後編


 三十番の怪我は日に日に増える。

 

 彼はそれでも笑っていた。奥で眉を寄せた二十五番くんに気づかないまま。

 

「僕、空が好きなんだ」

 

「うん」

 

「青空も、夕空も、夜空も、曇りでも雨でも、空が好き」

 

「うん」

 

「空の下で、いっぱい走りたいって思う」

 

「うん」

 

「それが僕の夢なんだ」

 

 今日も指先を絡めて話をする。彼の夢を聞く。鎖に繋がれた、三十番(わたし)の夢を。

 

「でも、僕にこの鎖は硬すぎる」

 

 笑う三十番は、私の前では泣かない。泣き痕があるくせに。

 

「壊したい?」

 

「壊せないから、いいかな」

 

 私は三十番(じぶん)を見つめている。何もしない自分に、聞いてしまう。

 

「明日も君は痛いかな」

 

「明日もきっと痛いだろうね」

 

「明日も君は泣くのかな」

 

「泣いてしまう日になるだろうね」

 

 結んだ指を離したくないと思う。離せば明日が来てしまうから。

 

「おやすみ、澪」

 

「おやすみ、三十番」

 

 それでも、離さなければいけないと分かっている。私達は真面目だから。時間を守って、布を下ろして、笑った君に手を振るんだ。

 

 彼は私だ。私は彼だ。

 

 何も変えようとしない。変わる勇気がない。周りに流され、もまれて、擦り切れて、諦めている。

 

 左手首を掻いた私は、痛痒さに苛立った。

 

「……三十番」

 

 色々な事柄が頭の中を巡っていく。思いが、痛みが、不安が巡る。

 

 明日はいつも通りの休日だ。予定も何もない、普通の日だ。

 

 けれどもし、私がそれを拒んだら。

 

 ――朝日が昇る。


 私は朝一番に薬局へ行き、包帯や消毒液、絆創膏を買った。買い物袋を揺らし、次は工具店に爪先を向ける。

 

 少しだけ違うことがしたくなったから。少しだけ、走り出したくなったから。


 昨日と違う今日が、欲しいから。

 

 私は一つのボルトクリッパーを買った。両手で持たないといけない大きさ。重さもあり、夏に女子高生が買うような代物ではないだろう。けれど、それでいい。らしくなくて、いいんだ。

 

 私は肩掛け鞄に荷物を詰めて、家路を急ぐ。

 

 いったい何をしているのかと頭の片隅で思うが、足は妙に軽かった。

 

 いつもと違う私を、君は笑ってくれるだろうか。

 

「三十番はご主人様に連れていかれた」

 

 大鏡の布を捲った先。そこはいつもと違って明るく、二十五番くんが座っていた。日の光を浴びる彼の黒さは鮮烈で、吊り上がった目や角が威圧感を感じさせる。

 

 二十五番くんの向こうには鳥の腕や蛇のような体を持つ子達がいた。部屋はレンガ造りの大部屋みたいだと初めて知る。

 

 蝉の声が鼓膜に響いた。私のこめかみに汗が浮いた。

 

 私の手は、重たい鞄の紐を握り締める。

 

「それは、いつもと違うこと?」

 

「いつも通りだよ」


「怪我がまだ治ってないのに殴られるのも?」

 

「いつも通りだ」

 

「痛いって泣いても、やめてもらえないのも?」

 

「いつも通りだ」

 

「助けてって……言えないのも?」

 

 二十五番くんが私を見上げる。顔を歪めた彼は、胸の中心を握り締めていた。

 

「いつも通りだ」

 

 心臓が早鐘を打ち始める。血液が体中を勢いよく巡り、蝉の声が徐々に遠くへ消えていった。

 

 二十五番くんの向こうで狼狽えているのは、多種多様な奴隷達。誰もがみんな傷だらけ。擦り切れ、切り傷、打撲痕にうっ血もある。みんな違う傷を持って、うつむいて、自分を抱き締めるように座り込んだ。

 

 あぁ、なんだ、一緒か。

 

「変わって、二十五番くん」

 

「おい」

 

 二十五番くんの青い瞳を見つめる。奥歯を噛んだ私は、鏡の縁を掴むのだ。

 

 何の為にいつもと違うことをした。どうしていつも通りを毛嫌いした。何を思い立って、何を変えようとしたんだ。

 

『空の下で、いっぱい走りたいって思う』

 

 傷だらけの君を誰も助けてくれないなら。誰にも助けを求められないなら。

 

 私は腕に力を込めて、鏡の向こうへ左腕を突き入れた。

 

自分(わたし)が助ける」

 

 鬼の目が見開かれる。これでもかと、その瞳が零れてしまいそうなほど瞼が開く。


 私の血液は、火傷しそうな熱を孕んでいた。

 

「誰も助けてくれなくていい。誰にも助けを求められなくていい。誰かを頼らなくていい」

 

 指先から足の先まで、熱さが私を侵食する。頭は冴えているのに、煮えていく。

 

「変わって」

 

 黒い手が、恐る恐る伸ばされた。明日は変わらないと背を向けていた子は、それでも、いつも、三十番(わたし)を気にかけてくれたから。

 

 二十五番くんの手をしっかり掴む。やせ細った彼を引きずり込んだ私は、鏡の向こうへ飛び込んだ。

 

 体の節々が激しく痛む。骨が軋んで蹲り、眩暈と吐き気もした。しかし何も吐けないまま頭を抱えて、気づいた腕には白い毛が生えている。

 

 足を見れば蹄があって、顔を触った手には四本の指しかない。口や鼻は前に突き出し、頭の上には角がある。

 

 あぁ、これは私だ。こちらの私だ。

 

 振り返らないまま立ち上がり、蹲っていた一人の奴隷の肩を掴む。鼠のような子は目を丸くし、私は噛みつくように声を上げた。

 

「ご主人様はどこ、三十番は!」

 

 鼠のような子は丸い耳を垂れさせ、おずおずと道を指してくれる。示された方に顔を向けた私は、ごわついた鼠の頭を撫でた。

 

「ありがとう」

 

 駆け出した私の心臓が激しく脈打ち、すぐに息が上がる。私の世界は酷く暑いのに、こちらはなんて寒いのだろうと驚きながら。

 

 そこかしこにいる奴隷の子を捕まえてはご主人様の居場所を聞き、指される方向へと走った。「ありがとう」を伝えて、三十番達がいた暗い部屋から豪奢な室内へ入り込む。

 

 どの扉にも鍵がかかっていなかったのは幸か不幸か。誰もが道を教えてくれたことは親切か。散らかる頭で走り続ける。

 

 誰も彼も、私に対して無関心。驚く顔をするくせに捕まえたりはしようとしない。

 

 この道を連れて行かれた三十番は、何を思っていたのだろう。

 

 いつも自分を殴る人の機嫌が悪かったら。傷が治ってないのに痛い思いをすると分かっていたら。それは凄く、怖いのではないか。何もできないと諦めて、どうにもならないと下を向いて。嫌だなんて口にせず、誰も助けてはくれないと諦めて。

 

 呼吸が荒く、熱くなってしまう。肩で息をして、しんどくて、また眩暈がしそうだ。それでも足を回し、豪奢な屋敷を駆け抜けた。

 

 最後の子が教えてくれた部屋の前。今までで一番大きな扉。その奥から微かに聞こえる音がする。

 

 怒鳴り声。大きな音。何かが壊れるような音。

 

 私が嫌いな音がそこにある。私が耳を塞いできた音が、この部屋の中にはある。

 

 分かってる、分かってる、分かってる。

 

 この扉を開けて私に何ができるかなんて予想できないし、武器になるようなものなんて今日買ったばかりの工具しかない。

 

 それでも、それでも、さ。

 

 誰も助けてくれないなら。

 

 誰もが無関心であるならば。

 

 (じぶん)だけは、三十番(じぶん)を見捨てちゃダメだからッ

 

 工具を握り締めて扉を押し開ける。

 

 中にいたのは背の高い人。深い紫の体で足はタコみたい。顔には六つの目が合って、自分の体に鳥肌が立った。

 

 それでも走るよ。走るしかない。

 

 彼がご主人様。

 

 彼の前で顔を覆っているのが、諦めきった三十番(わたし)

 

 血が床に飛び散って、花瓶の破片が散乱している。

 

 痛いよ、痛いね。痛くてつらくて苦しいのに、逃げる方法が分からないから全部を受け入れた。誰に助けを求めていいか分からない。誰ならいいかも探れない。

 

 泣いて、願って、目を閉じて。それでも朝は来るから、こんな世界は嫌いだって思うんだ。

 

 私は工具を握り締める。熱湯となった血液は、私の体に力をくれた。

 

「お前は、ッ」

 

 ご主人様の声がして、彼が何かする前に腕を振り下ろす。重たい工具はご主人様の丸い頭を殴打して、六つの目から星が飛んだ。

 

 掌に伝わる殴打の感触。見た目に反して頑丈な頭。そこにもう一度、もう一度と工具を叩きつけ、倒れたご主人様を見下ろした。

 

 肩で息をし、指先が震える。倒れたご主人様の体は痙攣し、生きていることだけは確認できた。

 

 誰かを殴ったことなんてなかった。誰かに暴力を振るうだなんて、考えたことなかった。

 

 だって、誰かを傷つけるのは悪いことだから。やり返すのはダメなことだから。

 

 ――ならば、黙って痛みを受け入れるのか。

 

 左手首が痛痒くなる。そこに作った口が喋った気がして、私は生唾を飲み込んだ。

 

 倒れたご主人様の姿がぶれる。クラスメイトに、先生に。お父さんに、お母さんに、重なってしまう。

 

 震える私は後退して、それでも工具を手放さなかった。

 

「殴られる痛みを、これで、知ったね」

 

 吐き捨てたって心臓の鼓動は落ち着かない。血液が濁流の如く全身に送られ、呼吸は整わないのだ。

 

 目の前が発光して気持ち悪い。謝らないといけないのに、謝りたくないと叫ぶ自分が確かにいる。

 

 あぁ、でも、やっぱりこれは悪いことで、私の我儘で、暴挙で、だから、だから、だからッ

 

「み、ぉ……?」

 

 眩みそうだった意識が引き戻される。肩で息をしたまま振り返れば、床に倒れた三十番(わたし)がいた。

 

「三十番……」

 

 覚束ない足取りで、倒れた三十番の元に行く。額を切って、頬を腫らして、耳を垂らした三十番。私は四本の指が付いた手を伸ばし、傷だらけの彼を抱き起した。

 

「……痛いね、三十番」

 

 三十番をなんとか抱えて部屋を出る。鎖の音がうるさくて、工具も重くて足が震える。

 

 部屋から離れた廊下に座り込めば、三十番は浅い呼吸で震えていた。

 

「みぉ、みお、なん、ど、して、君、あ、あぁ、どうしよう……」

 

 怯え切った三十番の黄色い瞳は、涙の膜を張っているのに零さない。私は彼と同じ顔を近づけて、白い額を寄せ合った。

 

「手当に来たよ」

 

 お互いの角が微かにぶつかる。肩を大きく跳ねさせた三十番は顔を引き、私は鞄から包帯を出した。三十番は何も言えないまま口を開閉させ、私は彼の傷に触れる。

 

 空気に触れると痛いから、きちんと治そう。早く治そうとしなくていいから、ゆっくり治そう。もう、傷が開いてしまわないように。

 

 手当てをしている間、三十番は何も言わなかった。何度も鼻を啜り、嗚咽のような声を呑んで、私へ聞きたい沢山のことも仕舞い込んだ様子だ。怪我だけを見つめる私は、三十番(わたし)の傷を塞いでいく。

 

 一通りの手当てが終われば工具を取り出し、三十番の前で開閉させた。

 

「一人で壊せないなら、二人で壊そう」

 

 ボトルクリッパーを鎖にあてがい、三十番の呼吸が震える。

 

「誰も壊してくれないなら、自分で壊そう」

 

 私の手に三十番の手がゆっくりと重なる。

 

 震える指先も、早くなる呼吸も、全て彼から伝わってきた。

 

「明るい空を、見に行こうよ」

 

 力を込めて鎖を断ち切る。

 

 足の鎖、腕の鎖、首の鎖。

 

 黒い象徴がぶら下がる飾りと化した時、三十番の心が決壊した。

 

「あ、あぁ、あぁぁ……ッ」

 

 黄色い両目から大粒の涙が勢いよく流れ、今まで噛み締めていた嗚咽が溢れ出す。両手を顔の高さに上げて、掌で両目を覆って、三十番は初めて声を上げた。

 

「そ、な……こんな、こんなに簡単にこわせるな、んて……ぁ、ぁあ、」

 

「そうだね。私も、知らなかったよ」

 

 顔も両手も濡らした三十番を抱き締める。壊せないと信じていた重りを解いた自分を、抱き締める。そこでやっと私に縋った三十番は、途切れ途切れの想いをくれた。

 

「いたかった、澪、すごく、すごく、痛かったんだ」

 

「うん」

 

「体中痛くて、堪らなかった。体の中も痛くて、苦しくて、」

 

「うん」

 

「怖くて、つらくて、しんどくて。耐えろ耐えろって言い聞かせたんだけど、」

 

「うん」

 

「でも、でも、でもねっ」

 

 三十番の声が大きくなる。涙も、嗚咽も、大きくなる。三十番は体の中から震え、私は掠れた声を受け止めた。

 

「澪が来てくれて、すごく、本当に――安心したんだッ」

 

 背中を、痺れが走る。優しく、けれども鮮明な感覚が足先から湧き上がり、背中を通り、後頭部を撫でていく。

 

 唇を噛み締めた私は、三十番に回した腕に力を込めた。細い彼の肩に顔を埋めて、どちらが縋っているのか曖昧になる。

 

『安心したんだッ』

 

 自分の中に落ちた言葉が私の怯えを止めてくれる。呼吸を穏やかにして、煮え滾っていた熱を落ち着かせてくれる。


 多くの不安が、怖さが、折れそうだった勇気が、三十番の一言で救われた。

 

 安心したかった。安らぎが欲しかった。安堵したかった。

 

 たったそれだけ。それだけを望んで、私は走ったのだ。

 

 いっそう腕に力を込めた私は、離れがたくも抱擁を解く。それから工具を三十番に渡し、濡れた瞳と視線を合わせた。

 

「三十番、これを君にあげる」

 

「澪……?」

 

 首を傾けた三十番。私は彼と額を合わせて、白い獣の手を重ねた。

 

「これをどう使うかは君が決めればいい。どうしたいか、君が選べばいい」

 

 三十番の喉が緊張する。私は彼の両頬に手を添えて、笑ってしまった。

 

「こっちの世界で異物の私が救えるのは、三十番(わたし)だけだ」

 

「それは、」

 

「三十番」

 

 絡まる白い毛に指先を埋めて、私は静かに息を吐く。泣いている三十番は、工具を抱いてしゃくりあげた。

 

「ここからは、君の道だから」

 

 彼から手を離して立ち上がる。私の手首を掴んだ三十番は口を結び、同じように立ち上がった。

 

 同じ目線、同じ顔、同じ姿で、違う道。

 

 鏡がある部屋に戻ると、他の奴隷の子達は弾かれるように顔を上げた。

 

 三十番は工具を握り締めて、一歩一歩進んでいる。切れた鎖を揺らす彼は周囲を確認し、私は鏡の向こうを見た。私の部屋には、膝を抱えた男の子がいる。

 

 私も知ってる男の子。落とした椅子を戻してくれた、変わった彼。

 

 一部分だけ灰色に染めた髪を揺らした二十五番くんは、鏡面に掌を添えた。

 

「こっちの俺はこんな顔なのな」

 

「そうらしい」

 

 夕暮れの教室を思い出して笑ってしまう。二十五番くんは鏡面から腕を突き入れて、私はその手を掴んだ。

 

「そっちに残らなくていい?」

 

「いいよ。俺はこっちの俺を殺したくないし、角がないのは落ち着かない」

 

 二十五番くんに言われ、腕を勢いよく引かれる。私は鏡面を越えて自室のフローリングに足を着き、再び激しい痛みに襲われた。

 関節が元の形に戻ろうとして、白い山羊の毛は抜け落ちていく。頭にあった重たい角の感触も消えていき、見えた手には五本の指が生えていた。周囲を見渡せば、抜けた白い残骸が溶けるように消えていく。

 

 私は腕を摩り、鏡の向こうに視線を向けた。そこには工具を握り締めた三十番がいて、泣きながら笑っている。

 

「澪、僕はこれから、どうしたらいいかな」

 

「したいようにしたらいいと思うよ」

 

「僕は奴隷だよ」

 

「鎖は切れたよ」

 

「特別な力も才能もないよ」

 

「特別じゃなくていいよ」

 

「ここにいなくてもいいかな」

 

「好きな所に行ってみようよ」

 

 鏡面越しに三十番と掌を合わせる。

 

 ご主人様が起きないうちに。怖い人が目覚めてしまうその前に。

 

 向こうからはそんな声が聞こえて、私は三十番の目を見つめた。そうすれば、君はやっぱり泣き続けるのだ。

 

「ごめんね澪、泣いてごめん」

 

「泣いていいよ。勝手に泣けるなら、仕方ない」

 

 いつか貰った言葉を君に返すよ。

 

「僕は君に、なにも返せないのに」

 

「自分に見返りなんて求めないよ」

 

「それでも、僕は、僕ばっかりが、」

 

 泣いてる君の隣に、起き上がった二十五番くんが並ぶ。私は眉を下げて笑い、突き抜けた指先を白い毛むくじゃらの指に絡めた。

 

「なら、三十番、君が大好きな空を見せて」

 

 願えば君の指先が震えた。

 

「暗くて冷たい部屋の景色は、もう見飽きちゃった」

 

 深く絡めた指先は、君の体温を伝えてくれる。

 

「三十番、昨日と違う今日を探しに行こう」

 

 笑ってお願いしてみれば、君は大きく頷いてくれた。

 

 絡めていた指先を離して、私は大鏡から距離を取る。映るのは、小刻みに震えている三十番の手。

 

 工具を両手で握り直した彼に、私は満面の笑みを向けた。

 

「一歩さえ踏み出せば、どうにかなるみたいだよ」

 

 三十番は深呼吸し、頷いてくれる。

 

 二十五番くんは、鬼の顔に柔らかい笑みを浮かべていた。

 

 三十番が工具を振り上げ、大鏡に叩きつける。鏡面にはヒビが入り、私は両手を鳩尾の前で握り締めた。もう一度、もう一度と三十番が鏡を叩き、鏡面が激しく音を立てて割れていく。

 

 砕け、壊れ、足元に散らばった魔法の鏡。

 

 私は破片を見下ろして、時計を確認した。たった数分。三十分も経っていない。それは長いようで短い、いつもと違う時間。

 

 私の鼓膜には、再び蝉の声が戻ってきた。

 

***

 

 今日も最後まで残った自分の椅子を下ろし、鞄に教科書を詰めていく。慣れた作業だと思っていれば鞄を掴まれ、私は顔を上げた。

 

「あ、」

 

「重いだろ」

 

 ため息を吐くのは、荒鬼くん。彼はまだ閉めていない私の鞄に視線を向けた。

 

「いらないものは、持って帰らなくていいと思う」

 

 私は詰めた教科書を視界に入れる。荒鬼くんは一冊ずつ、私に確認しながら出していた。

 

「これ、家で使うか?」

 

「使わないと、思う」

 

「こっちは」

 

「多分、使わない」

 

 荒鬼くんは私のロッカーに教科書を入れていく。問答無用で、容赦なく。

 

 私の鞄は今日の課題で必要な物しかなくなり、今までにないほど軽くなった。

 

「軽い」

 

「それくらいでいいんだよ」

 

 荒鬼くんは気だるげな口調で自分の鞄を揺らす。彼の鞄も軽そうだ。

 

 私が灰色に染められた髪に視線を移せば、彼も自分の髪を触っていた。

 

「……変か?」

 

「ううん、似合うよ」

 

 正直に伝えれば、目を丸くした荒鬼くんが少しだけはにかんでくれる。その顔は、あの黒い鬼の彼と似ていると思ったのだ。

 

「ありがとう、荒鬼くん」

 

「……あんまり無理すんな、秋月」

 

「名前、知ってたんだ」

 

「知らねぇ奴を気にかけねぇだろ、普通」

 

「そんなもんか」

 

「そんなもんだ」

 

 言い切った荒鬼くんに笑ってしまう。そうすれば、彼の耳たぶが夕焼けと同じ色に変わっていた。

 

「暑いね、荒鬼くん」

 

「……すっげぇ熱い」

 

「アイス食べて帰ろうか」

 

「買い食いか?」

 

「ダメかな?」

 

「いいや、いいさ」

 

 荒鬼くんは気が抜けたように目尻を下げる。なんで君が私を気にかけてくれるのか、声をかけてくれるのか、そんな話はまた機会がある時にすればいいね。

 

「……秋月、なんか変わったか?」

 

「うん?」

 

 聞かれて首を傾げておく。心当たりを探せば自然と口角が上がり、鞄の外ポケットから研磨した鏡の破片を取り出した。

 

 鏡に映る夜空では、私が見たことない星座が瞬いてる。

 

「荒鬼くんは、ドッペルゲンガーって知ってる?」

 

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