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マーブル

作者: 糸井槌

キーを叩く音がかすかにうなっているパソコンのモーターに乗っては外れる。首もとに汗が伝う感触すら鬱陶しく、けれど拭うことはしない。出来ない。紡いでいる言葉が鳴りやむくらいなら、と寝食をおろそかにするのは自分の昔からの性質だった。とはいえ眠気は耐えられる限界が浅いので、消去法で食べることが優先的に後回しにされた。

軽さが売りのヘッドホンも疲れた身には重く、そっと外してから眉間をほぐす。四徹に差し掛かろうとしている頭からはパキパキと音さえするようだ。背伸びをして深呼吸をすると、喉がひどく渇いていることに気付いて向かった冷蔵庫から水と小さなタッパーを手に

してそこから取り出したサンドイッチを口にした。パンはぱさぱさで、冷えてしなびたレタスもただ不味い。同じく冷えきった玉子焼きはただ不快な塊でしかなかった。結局三口ほどかじってゴミ箱に捨てた。きっと胃袋はかなり縮んでいるのだろう。沸かない食欲を不思議に思うことすらしないまま、いい加減寝ようとベッドに身体を倒した。


少し体重が増えていて、運動しないこともあるし、それと年齢のせいとか、あとはそうしてみたら身体がすっきりしたという知り合いが周りに少しいたので、とりあえず自分もやってみるかと、なんとなく固形物を摂ることをやめた。そんな軽い気持ちだった。それ

から二日間、食事らしい食事をやめた。

スムージーとサプリメント三つだけの生活を、長橋くんはすこし首をかしげてからおいおいとでも言いたげに笑って、ふみよは眉をひそめた。それを俺は笑った。

「昔から心配性だよね」

でもふみよが心配することじゃないよ、と放って咳払いをひとつしてから、すこしだけだよ、どうせすぐ飽きるから大丈夫、と笑ってみた。曇ったままの表情で彼女は、三国くんも昔から気まぐれだもんね、とこぼした。彼女は笑わなかった。


「それまだやるつもりなの」

スタジオの狭い風呂場でシャワーだけ浴びて、バスタオルで乱雑に髪の水気をとる傍ら、作業の続きに考えをめぐらせていた俺の背に尖った声がかかる。振り返れば、ふみよが立っていた。先に風呂に入らせて、もう寝室に行ったとばかり思っていたのに、彼女はスタジオに泊まる時いつも着ている白いパジャマ姿で、壁にもたれるようにして伏し目がちにこちらを見ていた。切り揃えられた前髪は伸びたようで目元は隠れかけていたけれど、顔色は暗く、なによりそれを隠そうともしていない。がしがしと頭を拭く手はそのままに、ぼんやりとふみよを眺めようとしても束になった前髪に阻まれる。したたっていく水滴に焦点が狂わされてうまく見えない。


断食ともいえないそれは、もう特別な行為であったはずの意味をすでに失っていた。行為は習慣になり慣性は惰性となって日々に溶け込んでいった。さっき言われたことを反芻すれば物を噛むことを久しくしていない気もしたけれど、数えればまだ三週間と二日だけ

しか経っていない。それでも、元からあまり太れない体質ということもあって体重は面白いように減っていった。

脳内に紗がかかっている感覚を覚えたのは、確か三日目から。けどそれも慣れた。とろとろとなにかが流れて出していく錯覚も、時おり指先がむず痒いように痛くなってしまうのも、慣れてしまったから気にならなかった。はじめは不便に思えたものも、今では作業の煮詰まりから目を反らす役割になっている。

見かねた彼女がサンドイッチを作ってきてくれたのは、食べないようになってちょうど一週間に入った時だった。スムージーとサプリだけを飲み込み続ける俺の咀嚼機能のことなどをきっと細やかに考えてくれたのだろう、出来るだけ小さく切られた白いパンに挟まれた、緑、黄色、赤。それらはきれいにタッパーに並んでいた。

「ちゃんと食べて」

おねがいだから……。

呟かれた声は泣き出しそうに震えていて、彼女はそのまま祈るようにこうべを垂れた。そのまるい頭に骨が目立ちだしている手を軽く置いてから、あとで食べるよ心配してくれて有難うね、と言って渡されたそれを冷蔵庫に入れた。紛れもない本音だった。その日の

夜、口にしたサンドイッチは大半がもうゴミに出されている。そうして目覚めた次の日、いつものようにスムージーで錠剤を飲み込んだ。

この行いは何かを、今の俺にはうまく説明できない何かをゆるやかに狂わせていっている気はしていたけれど、変化に対する喪失感よりも、それに付随して得られる変化の方が俺には大切に思えた。

だから、顔をあげたふみよがかなしそうだったから、それを目にした瞬間に、ああそうだこれは大切そのものなことなんだ、とこぼれそうな嘲笑いをそっと呑み下した。

立っている廊下は薄暗く、そこで彼女が神経質そうに丸めた爪先で微かに床をひっかいているのに気がついて、ああ苛立ってくれているんだ、と嬉しくなった。

「廊下暗いでしょ、こっちきなよ」

ふみよはまた項垂れて、そのままでなにも言わなかった。

俺の行動や表情や、無気力に垂らされた腕の角度までが彼女の勘に触れていて、だからこそ彼女の目つきに、そこにははっきりとした不安と心配とそして名前の付けられない感情が渦のように混ざっているそれは手に取るまでもなく見て取れてしまって、醜いことに俺はそれが嬉しくて、たまらなく嬉しくてだから一人へらへらと笑った。

「それってなに」

「三国くんのしてる、……ダイエット?」

疑問符とともに、俺が壊れることをはじめた日と同じように彼女は眉をひそめる。あの日より複雑に、影をもったそれ。

「ううんダイエットじゃない、断食みたいなものだよ」

「なんでもいいから、ちゃんと食事してよ……見てられないんだよ」

「え?べつに食事はしてるじゃない。今日だって三食、ちゃんと食べた」

色をもって迫ってくるような苛立ちから目を離して、体重計に乗って文字盤に表示されている数字を見た。48キロをすこし切るくらい。そこから降りて、屈んで電源を落としている俺の肩に、視線がやわらかく突き刺さってくるのがわかる。

怒るだろうな、と思った。

それもひどく怒って殴りでもして、泣いてくれたらもうこれ以上ないくらいに最高だ。そこが俺の目指しているところなのかもしれないと今では思うほどに、俺の身体にいくつも小さな拳をよわく当てながら慟哭する彼女の姿は、想像するだけで美しかった。そのうち

に呆れられてもうこうやって構ってくれることもなくなるかも、と思ったけれどその可能性はすぐに否定出来た。

こんな、かわいそうに不安定(少なくとも彼女にはそう見えるだろう)な俺から離れてしまえるほど彼女は非情ではないし、離れていけるほどの傷は、俺はまだつけていない。

大丈夫だ、大丈夫だ、喉の奥で繰り返して、見せつけるようにその場にばさりとタオルを落とす。上に着るスウェットを取ろうと棚に手を伸ばしているその後ろからかさついてひび割れそうな気配が近付く。裸足の足が四本、ぺたりぺたりと歪んだ音を立てた。舌打ちをした声が近くなって、パジャマの上から腕ををがりがりと掻くのが振り返らなくてもわかった。

「食事してるって?液体じゃん、あんなの食事にみえない」

「どれを食事と思おうと俺の勝手でしょ」

背を向けたままやっと上着に手をかけたところでそっと肩を掴まれて、強引に動くことを躊躇させられた。こちらを見てと懇願されているのが手つきから伝わるようだ。言葉と行動の強さがそぐわないのは怖いからだとわかっていて、それがさみしくて、けれどこうして触れてもらえることのほうが嬉しかったから素直にそちらを向いた。スウェットが棚から落ちて、乾いた音をあげた。戸惑うように伸ばされた右手で剥き出しの俺の肩を撫で、左手は深くなった輪郭にひたりと沿えられる。

こういうとき、どちらからともなく感じられた色は今やこの空気にはもうない。俺が食べることをやめたことが悪いのだろうとは解っていたけれど、以前よりわかりやすく接触は減るようになって、こうしてたまに彼女が呑み込めなくなってこぼしてしまう感情の片鱗を目にするたび俺はひどく興奮したし、それだけで充分に満たされた。剥き出しの感情を小さな両手と身体にもてあまして困惑する姿だけで、なにもかも構わないと思った。

雫が髪から彼女に落ちていく。きれいにしたはずなのに、彼女を汚してしまう気がした。でもそれでいい、ずっと望んでいることだから。

触れている部分から薄い皮膚の下の骨の枠組みが彼女に伝わっているだろうと、その手の震えに俺は目を伏せる。もともと一般男性としては細いほうだった。最低限の筋肉量を落とさないよう絞った今では、筋肉と骨と筋とそれだけで、皮膚すらも張りつめて緊張して、俺はまるで、痩せこけてかわいそうな獣のようなはずだろう。

そうだから、気持ちのやわらかなこの目の前の人はおずおずと、でもしっかりと受け取ってくれる。耐えられるはずもないのに懸命に抱え、必死に取りこぼさないようにして倒れたその時、欲しがっている感情を晒してくれる。俺はもしかするとそれを食べたいのかもしれない。顔をあげて、てろりと光を弾く白目との境界がきれいな瞳がまたたく間に傷ついて絶望していくのを、どうにか堪え無関心を装って眺めた。彼女の左目に映る俺は、水分量を増した表面で揺らいでいて能面のように白っぽく無機質だ。震える手を肌から離さないまま、ふみよはうすく唇を開いて息を吐く。落とした首をゆるやかに振る様すらもうつしくて、俺は嬉しくなると同時に、ひどく言いようのない心持ちにさせられて、だから足下に落ちたスウェットを蹴る素振りにかさねて距離をあけた。

その息も手もあたたかくて、そればかりがすこしかなしかった。前は俺と彼女の体温はちょうどおなじほどで、でも寒がりな彼女が時々寄ってきてくれるのがとても嬉しかった。それなのに今では、俺はいつでも冷えていて、変わっていない彼の体温さえも焼けつくようだった。もしかしたら、こうやって触れられて灰になることも叶わず水分だけ奪われつづけて、ゆるやかに死んでいくのかもしれないとすら思う。それも悪くない。

ふみよの髪がゆれる。こんなこと。

「なんでこんなことするの」

風にゆらされた水面のように落ち着きのない鉛の感情で、また繰り返される、もう何度も吐かれた問いへ俺は同じように、いつか飽きるよ、と返す。でも、と呟かれたその声に目を向けて笑いかけてみせればついに彼女の目からかなしみがあふれ流れた。それは電燈に照らされて金色に輝いてとってもうつくしい何かみたいで、俺の持っている感情は暗く澱んでいるのに、文美代はその名前どおり本当にどこまでもきれい。

もったいないから身体を屈め舐めて、それからやわらかい温度を抱き締めれば、こわばった身体でも彼女はおずおずと、けれど手を回してくれる。ぎこちなく背中をさすられて、浮き出た肩甲骨と背骨に、それへ竦む手を感じながら俺は再び目を閉じた。

こんなに気にかけてくれていることが嬉しく、理解してくれないことがかなしい。もうすこしで辿りつけそうなのに、いつまでも届かない。だからとても、ずっと、虚しかった。仕方のないことだけれど、さみしかった。伝わればいいのになんて、いやこれも嘘かなあ。

何も伝わらないで、伝えないで、それゆえに苦しんでくれればいいのに、と声にはせず優しく言う。俺のために、残るほど傷ついてくれればいいのに、それがこんなに難しいことだなんて、知りたくなかった。

「ふみよのためなのにね」

わざとらしくやさしい声で言えば、彼女が堕ちていくのがもう手に取るようにわかってしまって、それは俺の口角を歪ませてゆく。

やわらかな首筋に頬をうずめて匂いを嗅いで、いま俺はとても嬉しい、とても嬉しいと言い聞かせる。こんな俺をほおって離れてしまえるほど彼女は非情じゃないことはとうに解りきっていたから、だから近くで見ていてそうしてずっと傷ついていてほしい。俺が望むところまで傷ついてそこで永遠に動けなくなってほしい。そうしてようやく、ふたりは同じになる。

ねえ、この思いが釣り合うには俺は重すぎるんだよ、そんなこと気づいてるでしょう。これを見れば気づいてくれるでしょう。

背中に回されたまま固まっている彼女の腕をとり、そっと当てたてのひらに浮いた胸骨を教えながら、あたたかく焼いて、けど焦がしてはくれないその温度を俺は笑う。

ふみよ。


ねえ文美代、きっと、もうすぐ。

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