第二幕 北面の武士、鬼に喰われかける
その日の都の夜は、月もなく、墨を流したようであった。人気ない都の通り、篝火をもった武士たちが駆け抜けていく。臙脂色の狩衣に背負う大弓。その出で立ちは、彼らが北面の武士であることを示していた。都の警護をする彼らは、一人の夜盗を追っている。
夜盗の脚は速く、追っ手を大きく引き離す。
だが、武士たちの一人、平茂森はそれ以上に健脚である。あと一息で賊の首根っこを掴むところまで追いついた。賊の襟首に手を伸ばす。しかし、不意に賊の身体が倒れる。予想外のことに、茂森は転びかけた。
逃げるのに疲れ、気絶したのであろうか。茂森は賊の腕を掴み、身体を裏返す。賊は口と鼻から泡を噴き、白目をむいている。その顔の血の気は失せ、絶命していた。
賊の死因を調べようと、篝火をさらに近づける。篝火の煙の匂いに混じって、生臭い、顔をしかめたくなる腐臭が漂ってきた。どんどん濃くなる臭いに茂森は鼻をおおい、そのもとを探す。
それはすぐ分かった。臭いのもとは、口と鼻から硫黄の臭いをまき散らす鬼であった。肌は赤く、口から溢れる血液と境目が分からぬほど色が濃い。金色の眼が爛々と光っている。地を這うような、しゃがれ声を発するとき、鋭く尖った犬歯が覗いた。
鬼の巨躯が飛び上がり、鋭い爪を持った掌が茂森の首を狙う。すんでのところでかわす時、茂森がとりおとした篝火が地面で消えた。
茂森の衣は鬼の爪に裂かれ、腕から血が滲む。茂森はすくみかける身体をこらえ、刀を抜き、思い切り鬼の胸に突き刺した。しかし、慣れぬ奇妙な感覚に茂森は叫ぶ。
刀は刺されど、鬼の皮膚からは血の一滴も流れないのだ。粘土に刺すかの様に、ただ、肉に埋まっていく。
「鬼にはきかぬ。黙って俺の腹を満たせ」
鬼は刀の刃を握り、自ら抜き出す。刀の柄を握り締めていた茂森の身体が宙に浮くほどの怪力であった。鬼は、抜き取った刀ごと茂森を投げた。
地面に転がされた茂森は痛みに呻きつつ、背の弓矢を取ろうとする。だが、弓の弦は切れている。なすすべが無く、茂森は呆然と鬼を見上げた。
鬼の手が茂森の肩を掴んだ。爪が食い込み、痛みに呻く。血まみれの口と牙が眼前に見えた。茂森は絶命を覚悟した。あの世に誘うかの様に、読経の声まで聞こえてくる気がする。
「…闇を照らし導く者。その智慧が行われ、貴様らは地に伏す」
「きっと、浄土へと導いて下さる御仏のお声であろう…」
茂森は静かに眼をつぶった。
「貴様らはただの空に過ぎない…」
読経の音量はどんどん大きくなる。
茂森は鬼からの攻撃が来ないことに違和感を覚え、恐る恐る眼を開けた。
声の主は一人の法師であった。金色の錫杖をじゃらりと鳴らし、闇夜を歩いてくる。背は六尺ほどであろうか。墨染の衣ははだけ、露になった上半身の皮膚に、赤文字の経文がびっしりと書き込まれていた。
赤文字は発光し法師の顔をはっきりと浮かび上がらせている。薄すぎる眉の下から切れ上がった眼が光り、薄い唇と太い喉から、低い、低い、大音声の読経が紡がれていく。
法師の姿を認め、鬼が唸った。
「出たな、血文字坊主」
鬼は茂森を放り投げ、法師に向かって襲いかかる。
だが、法師に体当たりをした鬼は逆に錫杖で食い止められた。鬼の体がぐらつく。法師は跳躍し、鬼の背を錫杖で殴りつける。
「取り除かれよ!!」
鬼はうつ伏せに地面に叩きつけられた。
「俺が仏弟子だ!」
起き上がりかけた鬼の頭部を、再び錫杖が沈める。法師が錫杖を持ちかえ、杵を振り下ろすように鬼の身体に二度突き刺した。
「お前の肉は空でしかねぇ!空の肉体に過ぎねぇ!」
刀では切れぬ鬼の身体から、血が飛び散る。三度目に突き刺したとき、錫杖から紅い光りが放たれた。
「滅びるべき肉でしかねぇっ!」
閃光を浴びた鬼の肉が崩れ、塵と化しはじめる。法師は塵を踏みにじる。
あっけにとられていた茂森だが、ようやくわれにかえり、法師に呼びかけた。
「法師様、ありがとうございます! おかげさまで命拾いを致しました」
「俺は鬼を狩りに来ただけだ。構うな」
はだけた墨染を着付けながら、法師は面倒そうに答えた。赤く光る経文は、皮膚からじょじょに消えていく。茂森は拾った剣にすがって立ち上がりながら、言い募った。
「私は北面の武士、平茂森と申す者。私の名にかけて、この礼はさせて頂きたい」
「礼など要らん。去れ。」
「せめてお名前だけでもお教えくだされ。その法力から余程の高僧と見受けますが、不肖茂森、あなた様の名を知りませぬ」
「ホウイチという。じゃあな」
法師の背中が消えた闇を、茂森はしばらく見つめ続けた。
* * *
鬼の手からあわや命拾いした茂森は、ホウイチの行方を探していた。
礼をしたいという思いは勿論、あの夜のことについて色々と尋ねたくもあったのだ。
ホウイチの不可思議な法力もさることながら、追っていた夜盗が絶命した理由が謎である。
鬼もホウイチも、夜盗を攻撃した様子は無かったのに、なぜ彼は命を落としたのか。
鬼を見た恐怖のあまり心の臓が止まったのかもしれない。しかし、なにか納得がいかぬのである。
ホウイチが名しか名乗らなかったので、茂森は家中の者を方々にやって、都中の寺を訪ねた。しかし、ホウイチは見つからない。
みかねた家人の一人が、おずおずと進言した。
「茂森様、山寺には、怪しげな食客が多く住まうと聞きます。その者たちの一人の中に、恩人の法師様がいらっしゃるかもしれません」
* * *
山寺の門をくぐった茂森は、その敷地の広大さに度肝を抜いた。部屋に通され、茶をだされたが、茂森の緊張はとけない。
この巨大な寺は、山奥にありながら莫大な財を投じて建てられていると見える。室内の調度も控えめな色調ながら、意匠を凝らされたものだった。襖の山水画の見事さに少しみとれながら、茂森はようやく茶に手を伸ばしかけた。
その時、音も立てず、不意に襖が引かれる。紫色の豪奢な袈裟をまとう蛇法師が現れたのだ。
足の運びは畳をすべるよう。心中をうかがわせぬ理知的な顔立ちに、薄い薄い笑みだけを浮かべている。
蛇法師は、二又に裂けた舌を隠すことなく口を開いた。赤く伸びる蛇舌に似合わぬ、涼やかな声で言った。
「ようこそおいでくださいました、茂森様。清森様の自慢の甥御殿であらせられる茂森様のお話、かねがね伺っております。今日は拙僧にもその武勇伝をお聞かせ下さいませ」
茂森はその奇怪な舌から眼を離せなくなりながら、背に汗をかいた。
「法師殿。私は戦がばかりが能の者故、武勇を面白く語るのは逆に苦手なのだ。私がここに参ったのは、使者に伝えさせたように、貴殿の寺に私の恩人がいらっしゃるかをお調べいただきたいからなのだ」
「はい、存じております。現在お調べしておりますが、何分食客の数が多いもので手間取っておりまして…」
荒々しく、襖が開けられた。袈裟を着崩した僧侶がどかどかと足を踏み鳴らし、入室してくる。
「もったいぶるなよ、蛇法師」
よく通る低い声が響いた。茂森ははっとする。
「俺に会いてぇなら会わせてやれよ。義理がてぇ奴じゃねえか」
ホウイチは袈裟の襟を更に緩めながらどかりと座り込んだ。渋面の蛇法師がホウイチをたしなめる。
「身なりと口の利き方に気をつけなさい。お前のような無礼者を、茂森様の前に出すのははばかられたのです」
しかし、茂森はホウイチの口調も衣服の乱れも気にならなかった。這いよる様にホウイチに言った。
「ホウイチ殿、あの夜の御恩の御礼に参ったのです。私に差し上げられるものであれば、なんなりと差し上げたいと思っております」
「礼なら酒がいいな」
「ホウイチ!」
「ホウイチ殿はお酒が好きなのですね」
茂森が嬉しそうに確認すると、蛇法師が水を差す。
「茂森様、お忘れのようですが、僧侶は酒色を禁じられているのです」
「かてぇこと言うなよ」
「お前は黙っていなさい」
ホウイチをたしなめる蛇法師は、凄みが薄れ、茂森はすこしばかり寛いだ気持ちになってきた。茂森は元来、思っていることをすぐ口に出す性質である。直截に尋ねた。
「ホウイチ殿、私は、あの夜のことが解せぬのです。なぜあの夜盗は命を落としたのでしょう? 鬼をも調伏するホウイチ殿なら、ご存知でしょうか?」
「茂森様、いたずらな混乱を招かぬよう、鬼の性質についてはまだ公にせぬようにと、清森様のご希望がありまして…」
蛇法師が口を挟みかけたが、ホウイチは制する。
「どうせその内知れることだぜ。あの夜盗はな、精気を食われたんだよ」
「精気、ですか?」
「そうだ。鬼は人を食うが、肉はオマケみたいなモンだ。人間の精気が吸えりゃあいつらはその力を維持出来る。あんときの鬼に精気を吸い付くされたんだろう」
「なるほど。それは恐ろしい。爪も牙も使わず人が殺せるとは」
「安心しな。肉をかじらず精気を吸える鬼はそんなにいねぇ。こないだみたいな弱い鬼でも吸えたのは、悪心で我を失い、鬼の身体と同化しやすい精気の持ち主だったからよ。俺に言わせりゃそんな奴は、精気吸われなくても鬼と変わんねぇ」
「喋りすぎですよ、ホウイチ」
蛇法師に耳を抓り上げられ、ホウイチは呻く。蛇法師は茂森に向き直った。
「都に鬼が現れはじめたと聞き、ホウイチを呼び寄せてかたづけておりますが、まだまだ跋扈している様子。恐れながら申し上げますが、この度のように鬼が現れましたら、迷わずお逃げくださいませ。法力をもたぬ者が戦える相手ではございませぬ」
茂森は困った。
「銘石法師殿、私は北面を預かる者。鬼が出ようと蛇が出ようと、戦うべき時に逃げる訳にはいきませぬ」
「蛇が出ようと、だとよ。蛇法師、一本取られたな」
ホウイチに茶化され、茂森は失言に気づいて慌てる。蛇法師はにやりと笑い、蛇舌を見せつける様にひらめかせて言った。
「お気になさらず。私はこの舌が気にいっているのです。それにしても、鬼と一度対面しながら、戦意を失わぬ茂森様のご覚悟、拙僧の胸を打ちました。しかし、鬼には刀も矢も通じませぬ。いかにして戦われるおつもりですか?」
茂森は肩を落としながら言う。
「それを思い悩んでいるのです。ホウイチ殿、鬼を打ち倒す方法を教えていただけないでしょうか? この茂森、いかなる鍛錬でも耐えますゆえ、どうか伝授くださいませ!!」
ホウイチに向かって額を畳に擦りつけ、茂森は頼み込んだ。蛇法師はあわてて茂森を起こしながら言う。
「茂森様! このような者に頭を下げなくとも、お教えいたします。法力は一朝一夕に身につくものではございません。しかし、『鬼を射殺せる弓』ならございます」
「弓、ですか?」
「左様。鬼殺木弓銀という渡来の神弓です。高徳の僧が鍛えた銀で神木を覆い造られたもの。ただし、その使い手となれる者が現れず、むなしく蔵しておりました。が、茂森様は弓の腕で誉高き方と聞いております。この弓を引くのに必要な資格をお持ちかもしれません」
「資格?」
「神弓を引くのには『悪心を持たぬ者』であることが必須の条件なのです」
「悪心、ですか。私は悪人ではないと思いますが、悪心を全く持たぬかというと自信がありませぬ」
蛇法師は応えて、薄く笑った。
「ものは試し。一度射てみませんか? ホウイチ、鬼殺木弓銀を持ってきなさい」
ホウイチは億劫そうな足取りで退室すると、大弓を持って戻ってきた。豪腕の茂森にも少し扱えるか不安になるくらいの大きさである。おずおずと茂森は弓を手にとった。木製だが、持ち手は銀色で輝いており、経文が刻まれている。得意気に蛇法師は説明する。
「この大弓自体に法力が込められている故、この弓で射た矢であれば、鬼を殺せまする。」
* * *
弓の試射のため、三人は寺の近くの草原に移動した。蛇法師は、足元から青いススキを一本折りとった。
「このススキを矢の代わりに射てくださいませ」
「ススキを、ですか?」
茂森は耳を疑ったが、蛇法師は当然のように言う。
左様。鬼が相手ではないのに普通の矢では強すぎますからな。それ、あの雁などいかがでしょう」
雁の群れを扇子で指した。茂森は半信半疑、ススキを取って弓を引く。すると、持ち手を握る左手が熱くなる。持ち手を見ると刻まれた経文が青く発光している。驚いて射る手を止めかけた。が、蛇法師に促され、ススキの矢を放つ。
ススキがあたるや否や、雁の群れが一瞬で飛散し、全てボトボトと落下してくる。狙った雁がどれだったかも分からぬその様に、茂森は唖然とした。
蛇法師はホウイチに言う。
「ススキの刺さった雁を探してきなさい」
ホウイチの脚は速かった。僅かな間に射られた雁を探し出してくる。
鳥を受け取った蛇法師は丁寧な手つきでススキを抜いた。雁を撫でながら茂森に言う。
「茂森様、ご覧なさい。この弓は、悪心無き者の命は奪わないのです」
雁は息を吹き返し、法師の手から飛び立った。他の雁達も起き出すと飛び立ち、また群れをつくりはじめる。その有様を見て、思わず眼をこすりながら言う。
「なんと不思議な弓でしょうか……。命を救ってもらったばかりか素晴らしい弓までいただき、どう御恩を返すべきか思いもつきません」
「ご遠慮なく受け取りくださいませ。この弓で鬼から都を守ってくださることが、私達にとって何よりもありがたいことなのです。ホウイチを巡回させてはおりますが、手が廻らぬことも残念ながらあります。茂森様がこの弓を持っていてくだされば非常に心強い」
蛇法師に言われて茂森は感激した。
「法師殿、あなたが都のためにそんなにも心をくだかれていたとは! 今日まで知らなかったことが私は恥ずかしい。この弓に恥じぬようしっかり都を守ってみせまする!!」
茂森の言葉を聞き、法師の口中の蛇舌は愉快そうにひらめいた。
* * *
茂森が寺を辞した後、自室に戻ろうとする蛇法師をホウイチは引き止めた。
「おい、蛇法師。今度は何を企んでいる?」
「ホウイチよ。あそこまで悪心なく弓をひける方は他に居ないでしょう?」
「今はな。でも人は変わる。アイツはまだ若いし、変わっていくだろう。そん時に弓が使えず、鬼に出くわしたらどうなる? アイツはおしまいだ」
「大丈夫ですよ。それに、これは清森様のご希望でもあるのです。北面を預かる平家一門の中に、鬼と戦える者を配備するようにと」
「甥っ子の命をそこまで軽く扱えるとはな」
蛇法師の扇がホウイチの額を打った。血が滲むほどの強さで打った後、厳しい声で叱責する。
「ホウイチ、茂森様を見くびるな。殺人を生業とする兵馬の者が、あの神弓を引く。それがどれほど稀なことかわかるであろう? 禁術で法力を得た者とは根本から違うのだ。鬼を狩らねば外道に身を堕としてしまう、お前とはな。わかったら、黙って鬼を狩れ。」
ホウイチは眼に反抗の光を煌めかせたが、舌打ちだけをして踵を返した。
残された蛇法師は巷に流行っている歌を小声で歌いながら自室に戻っていく。
「花の都の花の寺、塔も高きが徳高き。矢射る蛇居る蛇の道越えて、墨を纏った白蛇かな」