第一幕 狩りは夕暮れ
シラカワの帝の御世のこと。
都近くの山寺に、蛇法師と呼ばれる男がいた。
蛇法師は傘をさし、濡れた紅葉を踏みしめながら境内を歩いていく。土蔵の扉を開いた。
「ホウイチ、喜べ。鬼が出たぞ」
答えのない中、法師は扇を手にして歩んでゆく。
土蔵の奥には、微かな明かりがともっていた。その光に照らされ、ホウイチの姿が浮かび上がった。
僧侶・ホウイチは、その長く屈強な腕と脚を、鉄輪と鎖につながれていた。鎖のあらゆる箇所に、経文の書かれた札が巻かれている。蛇法師の姿を見て、ホウイチは咆哮した。
「蛇、鎖を外せ!!」
「少し頭を冷やせ」
蛇法師は左手に数珠を握り、陀羅尼を唱え出した。
「仏法僧の三宝に帰依せよ。大慈悲の観自在菩薩に帰依せよ。畏怖からの庇護者に帰依せよ。青頭の菩薩の真言。悪鬼・迷いに打勝つ真言」
法師が広げた扇が、風を生む。
「光明よ、光明の智慧。世界の超越者。偉大な菩薩よ。真言を念じ刻め」
空気が大きく震えた。
「真言を保て。汚れなき者よ来れ」
蛇法師が扇をあおぎ下ろす。旋風が起こり、ガシャリと鉄輪と鎖が外れた。
その風圧は凄まじく、ホウイチは壁に叩きつけられる。
床に這いつくばって呻くホウイチに法師は冷たく問う。
「どうだ? 覚めたか?」
「蛇法師、テメェ!!」
「よしよし、覚めたな。延珠寺の管理する墓地に鬼が現れたと聞く。さっさと着替えて行ってきなさい」
「……錫杖とるからそこをどけ」
蛇法師は溜息をつき、身体をずらした。ホウイチは土蔵のすみに飛びついた。布に巻かれた棒を取り出す。ホウイチは震える指で経文を写された布を解きはじめる。そのあり様を見て、蛇法師はぼやいた。
「早く鬼を狩り、鎮めてきなさい。お前の顔は鬼に近い」
蛇法師が見やったホウイチの顔は、垢と無精髭にまみれ、ぎらぎらの目だけ光っている。
* * *
こうして、ホウイチが心待ちにしていた、『狩り』の幕があがった。
身支度ももどかしく寺を飛び出したホウイチは、延珠寺の墓地にいる。
墓地の卒塔婆の下にはいくつも大穴が空いており、ホウイチは嬉しそうに笑い出した。
「群れだ、群れだな? 群れが居るな?」
その言葉通り、腐敗した肉体の群れでがホウイチに襲いかかった。ホウイチは錫杖を屍鬼の顔面に叩きこむ。
「ソラァ、羯諦!!」
拳に経文が浮かび上がった。赤文字が光る。
「ウラァ、羯諦!!」
腐りかけの眼球が顔に飛んだ。ホウイチは気にも止めない。
「波羅羯諦!!」
両側から襲い来る二体も両腕を突き出し止める。屍鬼の腹を拳が貫通する。
「菩提薩婆訶!!」
両手を組んで、屍鬼の頭上から振り下ろす。悪臭を放つ脳漿が飛び散った。
紅潮した顔で息を吐くホウイチの背後から、一つの気配が不意に現れた。
「お主、良い体格をしているな」
ホウイチ振り向くと貴公子の姿があった。ただし、その額には角がある。
「鬼に褒められても嬉しくねぇ」
「そうか? 光栄に思え。私の大事な人形を壊されてしまったからな。お前の身体で新しい人形を作ろう」
公達姿の鬼は石を結んだ縄をホウイチに投げた。黒く艶のある太縄は、ホウイチの右腕に絡みつき異臭を醸し出しはじめる。ホウイチは鼻で笑い錫杖を抜き下ろし、即座に縄を切断した。
「ほお、『屍人の髪縄』を切るとは」
鬼は感心した声を出す。
「下らねぇ人形遊びが出来ねぇようにぶっ殺してやるぜ」
錫杖を構えて走ってくるホウイチを見て、鬼は微笑む。鬼は地中の死者たちに呼びかけた。
「襲え」
地面の陥没する音が無数に響き、その音の数だけ、墓穴から屍鬼たちが飛び出してくる。鬼の姿は分厚い屍鬼の壁に阻まれて見えなくなった。
ホウイチは舌打ちし、錫杖を地面に引きずりながら走りだす。ホウイチは駆けながら読経し続けた。その声は大きく、雨音すら打ち消すほどである。
「貴様の存在すべき世界は見えねぇ!貴様を照らす光はねぇ!貴様を隠す闇もねぇ!」
ホウイチの錫杖が地面に描いた線は、炎のように紅く光りだした。
「老いと死の理をわからぬゆえになす術なしィッ!」
錫杖の軌跡は熱をもち、墓地の湿気を孕んだ土から蒸気がたちのぼる。
「知り得ず、得られず、得られぬが故にぃ!智慧の中に往生する!!」
雷鳴の音と共に、紅い軌跡から光線が放たれた。雲霞のごとき屍鬼が光線に吹き飛ばされ、ホウイチの視界が晴れる。鬼を見い出した、ホウイチの唇は歓喜に歪んだ。
ホウイチは鬼の脳天めがけ、思い切り錫杖を振りおろす。しかし、鬼は錫杖を力強く掴み受け止めた。
錫杖を掴んだ鬼はその怪力で錫杖ごとホウイチを振り回し放り投げる。ホウイチは地面に叩きつけられる前に、錫杖を槍のごとく放り投げて唱えた。
「心に妨げも恐れもねぇッ」
錫杖は狙いたがえず、鬼の胸を貫く。
ホウイチは地面に転がったが、すぐ立ち上がった。鬼に近づき、その胸から錫杖をひき抜き、唱え続ける。
「一切の妄想を離れ、涅槃に安住せよ!!」
抜いた錫杖は何度も鬼に突きたてられた。鬼の身体から赤黒い液が吹き出す。
「・・・羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」
ホウイチの読経の声だけが墓地に響き、鬼の血飛沫がとんだ。血液、肉、骨、鬼の全てが塵と化していくにつれ、ホウイチの焦燥は和らぎ、心が凪いでいく。
『狩り』への飢えが満たされ、人心地ついたホウイチは差し込む赤光に気づく。いつの間にか雨は止んでいた。