カラスと巫女さん 1
柏木斎が最低な冷血漢だ、という噂は、翌日にはすっかり学校中に広まっていた。
「すごいわよ小夏。あんたの彼氏」
半ば呆れたように机に頬杖ついて千里は言う。
「彼氏じゃないって」
「毎日一緒に登下校してて?」
「それはのっぴきならない事情からです」
「だからその事情ってなによ」
「……秘密」
小夏の言葉に千里は大きく溜息をつく。
「まあいいけど。それにしたって、周りにはすっかりあんた達は付き合ってるって事になってるわよ。放課後犬を虐待していた柏木斎とそれを止めようとしてぼろぼろになった彼女……なかなかドラマチックじゃない」
気軽なその言葉に、小夏は大きく溜息をついた。
(やっぱ、悪いよねえ……)
いくらなんでもここまで柏木が悪者になっているのは。
本人は至って気にした様子もなく、いつもと同じく淡々と生活しているようだったけれども。
「せっかく今まで好青年だってポイント高かったのに、噂のせいで一気に株が暴落よね」
「やっぱ、そう思うよねえ?」
「なあにい? 小夏。そんな深刻そうな顔しちゃって」
深刻そうな顔をしたくもなると言うものだ。柏木は自分をかばってこんな汚名を負ってるわけなのだから。
柏木にも登校中、なんとか誤解を晴らす方法を考えようとは言ってみたものの「そうやって足掻けば足掻くほどうそ臭くなると思うよ。人の噂は七十五日って言うし、放っとけば良いよ」と言ってとりあってくれなかった。
(かといってその言葉に甘えるのもねえ)
小夏が悩んでいると、突然目の前にパッと華やかな顔が飛び込んできた。
「佐藤。何眉間に皺寄せてるんだ?」
「うげ」
小夏は慌てて飛び退く。至近距離で小夏の顔を覗きこんだ矢田は、小夏の反応を面白そうにケタケタと笑った。
「もっとさー、女の子っぽい叫び声あげろよ」
「例えば?」
「きゃあ! とか?」
「うっふん、とか?」
「笠原、オマエ、なかなか愉快な事言うな」
矢田は意外そうな顔で言ってからそういえば、と思い出したように言った。
「佐藤、昨日何やってたんだ? 窓ん所で」
小夏はぎくり、として、昨日の無様な状態を思い出す。
「頼むから忘れてください」
「なんだよそれ。落ちそうだから俺が支えてやろうと思ってたのにさっさと教室入っちゃうしよ」
「なになに? 聞いてないよ? それ、何の話?」
千里が面白そうに話に加わろうとする。
「やめてちーちゃん、盛り上げないで」
小夏が懇願するように言うと、千里は益々目を輝かせる。
「何、どんな面白い話なの!? 矢田君!」
「佐藤が良いって言ったら教えてやるよ」
「こら、小夏……」
状況が不利になってきたと見て、小夏はパッと立ち上がる。
「わたくし、お手洗いに行ってまいります!」
「女子がなに宣言してんだよー」
「あ、こら……」
矢田と千里の声を背後に聞きながら、小夏はたっと駆け出した。
(ああしてると、普通に見えるんだけどな)
話してみると結構気さくだし、恐い人の様には思えない。けど。
(やっぱ、あの事があった翌日から急に馴れ馴れしくなったんだし。昨日だって矢田君がいなくなった直後にあの犬が変になったし……)
やっぱりどこか不信感を感じて警戒してしまう。
(そもそも普通に考えて、あたしみたいなのに彼が声をかけてくるのはおかしい)
トイレの洗面所の鏡を覗き込んで、自分をマジマジと見つめる。
(別に良くも悪くも無いし……特に目立つワケでも華があるわけでもない)
そんなことは、とうの昔に知っている。そして、そういう人間にああいうタイプの人間が興味を持つはずが無いと言う事も、嫌と言う程知っている。
(だから、矢田君にはきっと裏がある)
悲しいかな、これが現実。
不意に耳に聞こえるチャイムの音。小夏は慌ててくるりと鏡に背を向けると、教室に駆け出した。
始めは、何が起こったのか分からなかった。全くもって気付いていなかった。
気付いたのは、慌てて席に着いた後、自分の後ろの席の生徒が「きゃあ」と小さく叫び声を上げたからだ。それを聞いたときも、小夏は「さっきのあたしと違って女の子らしい叫び声……」などとまるで緊張感がない事を考えていた。
不意に、ぐい、と後の生徒が小夏の腕を後から掴む。
「小夏、あんた背中、どうしたの?」
「え? 背中? 何かついてる?」
「ついてるも何も……」
相手は絶句しているようだった。それで、小夏は首をかしげながら背中に手を伸ばしてみる。
湿った何かが、指先に触れる。
(何?)
何だか嫌な予感を感じながらその指を見て、小夏は眉根を寄せた。
「何この泥水」
「何言ってるの今更! 半端な量じゃないわよ。すごい汚れてる」
後ろの席の生徒が呆れたような、そして何故か怯えたような声で言う。
「だって、全然心当たりないし……」
「そのままじゃみっともないよ。ジャージか何かに着替えてきなよ」
既に小夏の周囲には野次馬の人だかりが出来てきた。教師も呆れた顔で小夏を見ている。
「来る途中、転んだりしたんじゃないか? 怪我とかしてたら大変だし、保健室いってついでに着替えて来い。保健委員、ついていってやれ」
教師のその言葉に、小夏は大事になってしまったと内心で苦々しく思いながら立ち上がった。そして、同じく教師に言われて立ち上がった保健委員を見てびくりと体が引きつる。
「せ、先生。大丈夫です……一人で行けます」
「そうかあ? そんな派手な転び方してたらどっか痛くねえか? しかもその転び方、打ってるとしたら確実に頭だろう」
「いやホント、大丈夫なんで」
「大丈夫ってお前……」
「ではちょっと、失礼します」
先生の言葉を聞かず、小夏は廊下に走り出る。
(むしろ、保健委員の矢田君と二人きりになる方が恐いよ……)
思い出すのは今朝の事。矢田は小夏にも千里にも気付かれずに二人の後ろに立っていた。思えば、毎度矢田は気付くとそこに居て、突然声をかけてくる。
(私が気付く前に、背中に何かする事だって、あの人なら可能だ……)
痛みはないから、きっとこれは怪我ではない。それが警告なのか、危害を加えそこなっただけなのかよく分からないが、危険なことに変わりは無かった……。
「佐藤ー、俺さー。無理矢理押し付けられた保健委員とはいえ、あそこまであからさまに避けられると傷ついちゃうな」
結論から言うと、小夏の体には何の傷あともなかった。だが、制服を着替えるためにそれを脱いでみて、ようやく小夏にも後ろの席の生徒が叫び声を上げた理由や教師が妙に心配そうだった原因に気付いた。
小夏の制服の背中には、一面と言って良いほど広範囲にわたって泥が塗りたくられていた。それも、ただの染みではない。くっきりとした手形がいくつもいくつも、ぺたぺたとスタンプでも押すようについているのだ。保健医も平静を保つよう努力しているようだったが、見た瞬間ぎょっとした顔をしたのを、小夏は気付いてしまった。
(なんかこう、イジメとかと勘違いされてそう……)
と思うのは保健医が時々気遣わしげな視線をちらちらと小夏に送ってきたからだ。
それがなんとも居心地悪くて小夏は早々に教室に戻ってきた。そして、矢田のこの発言だ。
「いやほら、矢田君の大切な学業の妨げになっては申し訳ないというあたしの精一杯の心遣いだよ」
「いらねー。俺、成績良いのに」
「なんて嫌味な」
「天才と呼んでくれ」
軽口を叩きながら、小夏は注意深く矢田を観察する。何か不審な点はないか。今度から、こっそり背後に回られないように注意をしなければ……。
「ちょっと、マサ、なんでこんな所で油売ってるの?」
そんな声が聞こえて振り向くと、派手な格好をしたクラスメイトの女子が数人、険のある目で小夏たちを見ていた。マサ、とは矢田の事だろう。矢田の名前はたしか雅幸だ。
「どうしたんだ? オマエら」
「マサ、最近付き合い悪くない? ちょっと感じ悪いよ」
などと言いながら彼女たちは矢田を引っ張って行ってしまう。
「あーあ。行っちゃった」
千里は残念そうな声を出すが、小夏はホッと胸を撫で下ろした。
その日から、小夏の周りでは奇妙な事が続いた。置いておいた物がちょっと目を離した隙に不意になくなったり、背後から誰かに引っ張られた気がしたり、時には何もない所から視線を感じたり。
学校帰りにその話をすると、柏木は難しい顔をして考え込んだ。
「厄が、君の側のものに何か入り込んでる可能性が高いね」
「そうは言ってもね。これでも身の周りの物結構注意して見てるんだよ。でも特に最近は変わったものは持ってないし……」
「家の中に入り込んでる事は無い?」
「それは、ないと思う。大体そう言う事が起こるときっていつも外」
「じゃあ、君の持ち物ではないな」
その言葉が何故か分からずに小夏は首を傾げる。柏木はそんな小夏を面倒くさそうな顔をして見た。
「成績、下から数えて何番目?」
「し、失礼な」
「……もし、君の持ち物に厄がついてるとしたら、君が持ち返って厄は家の中まで入り込んでるはずだからね」
その解説を聞いて、ようやく小夏は納得した。
「なるほど」
「で、他に心当たりは?」
一瞬、小夏の脳裏に矢田の姿が浮かび上がる。だが、小夏はそれを口に出すことはしなかった。
(ただでさえ、柏木君の評判が悪くなってるのに、万が一こんな時に矢田君と対立なんてしたら評判が地に落ちちゃうし)
それに、本当に、小夏のただの思い込みかもしれないのだし。
「ないよ」
小夏のその返答を聞くと、柏木はまたもや面倒くさそうに溜息をついた。