意地悪な狐青年 3
「で、今まで厄に襲われて逃げ回ってたわけか」
小夏の簡潔な説明を聞いて、柏木は呆れたように溜息を付いた。
「まったく、そんなボロボロになって」
逃げる際についた擦り傷等を見ながら、柏木は言う。
「ちょっと、あたしが文句言われる所じゃなくない?」
「もうちょっとこう、要領よくできないものかな」
小夏の反論などまったく無視して柏木は溜息を付く。
「まさか、犬にとり憑いてるとは思わないもん」
「警戒しろって言ったじゃないか」
言いながら、柏木は小夏の前にスッと刀を差し出した。
「はい。これがあればもう大丈夫でしょ?」
「え……」
小夏は言葉に詰まって、手を伸ばすこともせずただそれを見つめる。
「……どうしたの?」
「ねえ。厄を祓う方法って本当にこれで殺すしかないの?」
「殺す?」
柏木は怪訝そうに首を傾げる。
「別に、殺さなくてもいいんじゃない?」
「へ!?」
「ただ、君がこの刀で相手を傷つければいい。そうすれば、その傷口から直接秋芳の力が厄の中に入り込むから。この前の虫は流石に殺さずにってワケには行かなかったけど」
「そうなんだ……」
小夏はとりあえず安堵するが、すぐにまた気持ちが沈むのを感じた。
(あの子犬を、斬るのか……)
例えば自分が少し包丁なんかで手を切っただけでもとても痛いのに。
(そしたらもう、あの子に懐いても貰えなくなるな)
せっかく飼おうと思っていたのに。
す、と柏木が立ち上がる。
「何してんの? 早く立って。行くよ?」
途端、周囲に異様な気配を感じて小夏は目をしばたかせた。いつもと同じ学校なのに、何か圧倒的な違和感。
「どうしたの?」
せかす柏木の声に慌てて立ち上がりながら、小夏はきょろきょろと辺りを見渡す。
「なんか変じゃない?」
「そうだろうね」
あまりにもあっけなく柏木が言うので、小夏は怪訝な顔をする。
「なんで?」
「もう忘れたの? 昨日と同じ現象でしょう? 僕がやったんだよ」
(ああ!)
それで思い出した。昨日と同じ。見慣れた学校なのに感じる違和感。人の気配が全く途絶えたこと。
「すごい。何をしたの? 具体的に」
小夏が興奮して聞くと、柏木は呆れたように溜息をつく。
「狐に化かされるって、よく昔話とかにあるでしょ? 同じところをぐるぐる回ってたってアレ。原理はそれと同じ。君と厄の居る空間だけど、いつもの場所からちょっとずらして繋げたの。だから、ここには君と厄と僕しか居ない。思う存分刀を振り回して良いよ」
「振り回してって……」
嫌な言い方、と文句を言おうとした時、不意に低い唸り声が耳に届いた。
見ると、先ほどの犬が小夏に牙を向けて唸っている。
「一応聞くけど、君、あの犬がどう見えてるの?」
「牙をむき出してよだれを垂らした大型犬」
「なるほど、君が逃げている時、傍から見てたかったな。子犬に追い掛け回されて猛ダッシュしてる君の間抜けな姿」
「……言わないで」
小夏は溜息をつく。柏木はふう、と溜息をついた。
「厄が君に接触すると、磁力のように周囲の厄を呼び集めてしまうんだな、きっと。それで君には怪物のように見えてしまう。……普通の人には厄は見えないから始末が悪いよね」
「柏木君はどう見えるの?」
「両方」
「両方?」
聞き返した小夏に頷いて、柏木は言う。
「取り付かれた対象も見えるし、その周囲に厄が形作っているものも見える。……どっちが本物かって言ったら、君が見ているほうも本物なんだよ。他の人は見えなくても、あれに触れたりしたら危険だからね」
そういいながら柏木は手を口の前に持ってくると、以前と同じようにふっと吹く。
瞬く間に、青い炎が犬の周囲を取り囲んだ。苦しげな雄叫びが耳をつんざくように響く。思わず耳をふさいだ小夏の手を、柏木は引き離す。
「可哀相だと思うんなら、早々に決着を付けたらいいよ」
「でも、犬を傷つけるの?」
小夏が恐る恐る言った言葉を、柏木は鼻で笑った。
「へえ、あんなに乗り気だったのに、そんな事くらいで怖気づくんだね」
「だって……」
「言い訳なんか聞きたくない。所詮君は巻き込まれただけだしね。……ただ、引き受けたからには甘い気持ちでやってもらっちゃ困るんだよね。こっちは君と違って遊びじゃないんだ」
ずきりと、心臓が痛む。
「いい気分になるのは結構だけど、それならちゃんと役目を果たしてよ。心地いい事だけしたいなんて、虫が良すぎるんだよ」
小夏は唇を噛み締めて、刀を掴む。
「分かったわよ。やればいいんでしょ!?」
怒鳴るように言って、柄を握り締めた。
柏木からの返答の代わりに、ざっと青い炎の道が開ける。その先に居るのは、小さな子犬。
(どこらへんが、一番痛くないんだろう)
苦しそうに、炎に囲まれて暴れまわっている子犬を見る。
(お腹、だと当たり所が悪くて死んじゃうかもしれない。だとしたらやっぱ、足……)
だけど、その小さな生き物は暴れまわっている。こんなんじゃ、狙いがしっかり定まらない。
小夏は少し怯んだ物の、背後から突き刺さるような柏木の視線に押されて足を踏み出す。
(必要以上傷つけないですむ方法)
思いつかないではないが、それはとても痛そうだ。……自分が。
(でも、この犬はもっと痛い思いをするわけだし)
その代償と思えばいいのかもしれない。
少し竦む足で、それでも小夏は決意を決めて歩いていく。
(ゴメン!)
刀をその場に突き刺して、小夏は腕を伸ばす。怯えた子犬は小夏を腕に、まっしぐらに食いついてきた。腕に当たる鋭い歯の感触。
(痛……)
それでも、先ほどのように振り落とさずに、痛みに耐えながら反対の手で刺してあった刀を掴む。
噛まれた腕を犬の体ごと自分の体に体に押さえつけて犬の動きを封じて___。
ひときわ高い子犬の叫び声と同時に視界が揺らいだ。
「お疲れ様」
気が緩んで呆然と座り込んでいた小夏に柏木が静かに声を掛ける。
「うん。疲れた……犬は?」
「厄が剥がれたせいかショックのせいか知らないけど、気を失ってるよ」
「ふーん」
目を向けると、子犬の体はボロボロだった。たとえ厄に包まれていたとはいえ、繰り返しドアに体当たりした体に、ダメージはあったのだろう。その足から流れ出ていた血に気付いて、小夏は慌ててポケットからハンカチを取り出すと、きつく締め始めた。
「何泣いてるのさ。泣き虫」
「うるさい冷血漢」
「……否定はしないけどさ。君も血、出てるよ?」
「ちょっと黙ってくれない」
苛苛と小夏が言うと、柏木は肩を竦めた。
と、静かになった教室に人のざわめきの声が聞こえてきた。
「ここらへんだよなさっき叫び声みたいの聞こえたの」
「どっかの教室じゃない?」
隠れる暇もなかった。ガラ、と言うドアを開ける音と小夏が顔を上げるのはほぼ同時。数人の男女の顔が教室を覗きこんでいる。そして、次の瞬間聞こえたのは悲鳴。
「ちょっと! あんた、なにやってんの。それ矢田の拾ってきた子犬じゃない!」
「あんた、それ矢田に貰ったんでしょ!? 最低ー。引き取るとか言っていい顔して、虐待してるなんて」
いっせいに耳に響き渡る罵声。
「やだ。血ぃ出てるよ! 誰か、矢田連れてきてよ」
「アンタ。その犬こっちに寄越しなさいよ。あんたなんかに預けておけない」
小夏は呆然とするしかなかった。弁解しようにも、する言葉はない。どうして彼女たちが信じるだろう。厄だとか、なんとか。
「かわいそー。気ぃ失ってるじゃん。あんた、何したのよ」
座り込んでいる小夏の周囲を数人の女の子建ちが取り囲む。見下ろす顔は非難、非難、非難……。
(もう、ヤダ……)
ただでさえ落ち込んでる時にこんな事。どうしていいか分からない。今日で背筋は寒くなる。
明日から、自分は噂の的だ。とてもよくない噂の。
「佐藤さん、いい加減僕のそれ、返してよ」
不意に、女の子たちの姦しい声の中に、落ち着いた静かな声が落ちた。その声の静かさに、周囲の女子が皆いっせいにそちらを向く。
柏木はツカツカと小夏の方に歩いて来ると、側に落ちていた刀を拾い上げ、大切そうに持つと小夏を見下ろした。
「まったく。邪魔してくれちゃってさ。せっかくその忌々しい犬を殺れるところだったのに」
(……なに?)
呆然とする小夏をいつもと変わらない淡々とした顔で見下ろして、柏木は言う。
「君のせいで大失敗だよ。邪魔はしてくれるし、こんなうざい女どもに見つかるし。お優しい事で」
嫌味な、憎憎しげな口調。
周囲の女子たちの非難の視線は一気に柏木に集まる。
「ヤダ、これやったのアンタなの!? 柏木」
「ひどい! なんて事するのよ」
柏木はまったくそんな事を気にする事なく、つかつかとドアを出て行ってしまう。小夏は呆然とそこに座り込んでいた。
「……大丈夫?」
不意に声をかけられて小夏は顔を上げた。柏木を非難するために女の子たちはみなぞろぞろと出て行ってしまったと思っていたのに、まだ残っている人が一人いたのだ。
(榊さん……)
普段はあまり話さないけれど、派手な感じの美人。金に近い茶色に染まった髪とか長い爪とか短すぎるスカートなどが、小夏の敬遠の対象になっていたのだけど。
「大丈夫。有り難う」
そう言って、小夏は立ち上がる。榊は小夏が立ち上がるのを待って、子犬を抱き上げた。
「ねえ、あんた。この犬、飼う事に決まっちゃった?」
「え? なんで?」
「うちに、前から犬欲しいなって思ってて。誰も引き取り手いなかったら引き取ろうと思ってたんだけど」
素っ気無い口調だけど、彼女は特に矢田のとりまきと言う印象でもなかったし。
「お願いします」
小夏は大きく頭を下げた。
あの子犬は、きっと小夏の事を恐れるだろう。刃物を向けてしまったんだから。もう、飼ってあげる事などできないと思う。
榊は軽く会釈をすると、子犬を抱き上げたままパタパタと駆け去ってしまった。
今度こそ家に帰ろうと校門を出ると、律儀に柏木が待っていた。
「さっきは有り難う」
小夏は歩きながら言う。
「別に。守るって言うのは、別に体を守るって意味だけじゃないし。もし厄を祓う関係で君が損害を蒙ったら、それを僕が被るのも当然でしょう。君にお礼を言われる事じゃないし、言われても嬉しくない」
本当に、可愛くない言い方。それでも、小夏は反論せずに黙った。
彼が言う事はきついけれど、きつくて胸に刺さるからこそいつも正論で。そんなにきついくせに、きちんと小夏を庇ってくれる。柏木自身の立場を悪くしてまで……。
(あたし、反省しなきゃ)
悔しいから言ってやらないけれど、柏木の言う事は全てもっともだ。
浮かれ半分にこんな事を引き受けて、辛いことが起きたらすぐに嫌になってしまう。 落ち込んで、項垂れて歩く小夏の耳に唐突に柏木の声が届く。
「こんなこと、僕にはどうって事のない些末事だ」
それはいつもの憎たらしい口調ではあったけれど。
(もしかして、慰めてくれたのかな?)
言動はとっても、憎たらしくてしょうがないけど。もしかしたら、もしかしたら。
(イイヤツ、なのかもしれない……)