想いの方向 1
「あ」
学校に向かう道。何故か唐突に柏木が呟いた。
「どうしたの?」
小夏の声も聞こえないように柏木の視線は一つの物に集中していた。小夏もつられるようにその視線の先を追う。
そこには、のどかな住宅地にはあまりにも不似合いな印象を受けるスーツ姿の男がいた。
(わー。足長ー。顔ちっちゃい。かっこいー)
何かオーラがあるというか何と言うか、とにかくその辺をふらふら歩いている事はあまり想像できないような男がすたすたと歩いていた。
「何やってるの?」
突然柏木が男に向かってそう声をかけたので小夏はぎょっとした。
男はその声に怪訝そうに振り返る。そして、柏木の姿をみとめると、少し意外そうな顔をした。
「おー。斎じゃねーか。めっずらしー、お前がオンナづれ? おもしれー。藤子に報告しよっかな」
にやにやと笑いながら、長身のその男は近寄ってきて二人を見下ろす。柏木はわざとらしく眉を顰めた。
「確か今はまだ姉さんと喧嘩中でしょ?」
大人気ない、と言わんばかりの柏木の口調に、男はムッとした顔をする。
「お前、年々可愛くなくなるな。昔はもっと素直だったのに」
「はいはい。それよりどうしたの? こんな朝っぱらから一人でふらふらして」
「ああ、実は……」
言いかけた所でプップーとクラクションの音が響いた。そちらを見れば、あまりお目にかからないようなこれまた場違いな高級車が一台。
「お。やべ。バレた」
「何、逃げてるの? 相模さんから」
「そうなんだよ。今日ホームパーティーに呼ばれててさ、面倒くさいから欠席しようとしたのに出ろってうるせーんだよ」
「どこのパーティー?」
「秋のハハオヤの家の」
柏木は大きく溜息をつく。
「まあ、頑張って……」
言われなくとも、と言うように男は高そうなスーツが乱れるのも気にせずに駆けて行く。
「なんかすごい人だね。知り合い?」
再び歩き出しながら小夏は聞く。柏木はなんでもないことのように頷いた。
「知り合いって言うか、父親」
「え!?」
小夏は思わず驚いた声を出してしまった。先ほどの男性からはとても「父親」という言葉は想像できない。スマートでカッコよくて、颯爽としてて。
小夏の持つ父親像といったら、くたびれたスーツを着て気の弱そうな顔をした中年の自分の父親の情けない姿だ。柏木の父親を見た後ではとても虚しくなる。
「いいなぁ……」
思わず小夏が呟くと、柏木は軽く小夏を一瞥しただけで、すたすたと歩き出した。
「ちーちゃん、柏木君のお父さんってカッコイイんだね」
「柏木君のお父様? え!? 小夏、会ったの?」
教室に入って千里に朝の事を話すと、千里は目を輝かして食いついてきた。
「いいなあ。あたしも会ってみたいなあ。柏木光さん」
「何。ちーちゃんチェック済み?」
学校内だけでなく学校外もなのか! と呆れる小夏に「当たり前でしょう」と胸を張って言い切って、千里は言う。
「って言うかね。小夏は中学校の学区違うし、結構家遠いから知らないだろうケド、柏木一家って有名なんだよ。お姉さんは美人でしかも頭がすっごい良いって才女だし、お兄さんだってカッコよくて頭良いって……で、二人とも三宮高でお兄さんの方は生徒会長までやってるし」
「三宮!? あの有名進学校!?」
「そうだよ。柏木君だって多分入ろうと思えば三宮行けたと思うよ。中学の頃からすごい頭良かったもん」
千里はあっけらかんと言う。
「弟君もすごい可愛いし、それであのお父様は一代ででっかい会社を築いてバリバリ働いてる実業家なのよねー。……それを考えると、柏木君はあの中だとちょっと地味よね。確かに綺麗な顔立ちしてるけどそんな華やかってわけでもないし、目立つわけでもないし。それに顔立ちも他の人たちとちょっと違う系統。お母さん似なのかな?」
千里は好奇心に目をくるくると動かして楽しそうに話す。
「まあ、カッコいい事に変わりは無いからいいんだけど」
楽しそうに、本当に楽しそうに千里が話すのをやや呆れて眺めている時だった。不意に、小夏の頭の上にずしん、と重みが乗っかった。
「何の話してんだ?」
「あ、おはよー。矢田君」
千里は暢気にそう朝の挨拶をしているが、小夏はそれどころではない。
「矢田君。重い。腕、どけて」
矢田は小夏の頭の上に腕を乗っけてそこに圧し掛かってくるのだ。
「頭が重い? 風邪じゃねーの?」
「アホな事言ってないで。他の女の子たちの目も恐いし」
「気にするな」
「気になる!」
(また水ぶっかけられるじゃん!)
先日矢田の過去を聞いた夜以来、矢田は以前の険のある態度を改めた。それは良い。嫌われるよりよっぽど良い。
矢田とは話していて気楽だし、楽しいと思う。友人として好ましいとは思うのだけど。
(女の子の目が恐いんだ)
そんな小夏の気持ちなど気遣うこともなく、矢田は言う。
「そういえば、佐藤。今日は俺と結子も一緒に帰るからよろしくな」
「はあ!?」
意図していない言葉に、小夏は思い切り不審な顔をする。
「なんか秋芳様が親睦を深めるためにたまにはみんな一緒に下校でもしなさいってさ」
矢田はまんざら嫌でもなさそうに、そんな事を言った。
「……あいつら、遅いね」
待ち合わせの校門前。榊と小夏は二人で手持ち無沙汰なまま柏木と矢田を待っていた。
柏木は委員会の仕事で少し遅くなる。矢田は例によって例の如く女の子に捕まっている。……もっとも小夏が推測するに、今朝の会話がしっかりと周囲に聞かれていて、この集団下校を阻止しようと言う彼女たちの意志が働いているのだろうと思われるが。
榊は校門に背中を預けてしゃがみ込んでしまっている。小夏はぶらぶらと鞄を揺すりながら気まずい暇さに耐えていた。榊とはそれ程仲の良いというわけでもなくて、二人きりになると何を話して良いのか話に詰まる。
「あのさー。あんたさ」
小夏の方を見ることもせず、榊はやる気のない口調で話す。
「斎とできてるの?」
「は?」
思ってもない事を聞かれて小夏は榊をまじまじと見つめる。
「なんで?」
「そういう噂じゃん。それに、あの外面がイイ柏木がアンタには結構ずけずけ言ってるから。あいつ、気を許す程取り繕わなくなるからさ」
小夏は目の醒めるような思いで榊を見る。
(なんか、すごくよく見てるんだ)
おまけにその口調と言ったらとっても親しげで。
ちくり、と胸が微かに、ほんの微かに軋むのを感じる。
「あたし、最初っからダメダメだったから。そのせいじゃないのかな。噂はつきあってる事にしといた方が一緒に登下校するのの口実ができるって事で、だよ。別にあたしたちが宣言したわけじゃないし」
「ふうん、そうなんだ」
榊は自分で聞いておきながら、まるで大して興味もないようにそんな相槌を打つ。
「榊さんは……」
小夏は話題を続けようと思って開きかけた口を唐突に噤んだ。とてもギョッとした顔をして。どうかしたのか? というように小夏の視線の先を振り返った榊は、嫌ぁな顔をして立ち上がった。
「何アレ? バスケットボールの化け物?」
「……あたしはただ大きな真っ黒いものとしか見えないけど」
なかなかこんなストレートなものに厄が憑いてくるのも珍しいが、榊の言う事を信用するのなら、ボールに厄が憑いたものだろう。黒い大きな物体がばいんばいん、と飛び跳ねながらこちらに迫ってくる。
「ど、どうしよう……」
小夏が少し動揺して言うと、榊はさっと小夏の手を引っ張る。
「とりあえず、場所変えるよ。ここで戦ったら、うちら傍目にはボール相手に大騒ぎしてる危ないヤツになるから」
小夏は榊に腕を引っ張られるようにして校門から走り去った。
「あんた、今日は桜小太刀持ってないんだ」
「うん」
少し離れた場所にある公園。周囲には生垣が茂っているから、外からはよく見えないだろうし、幸い遊んでいる子供などの姿も見かけない。そこで、榊はそう確認して溜息をついた。
「じゃあ、あたしが散らすしかないね」
「できるの!?」
小夏が驚いた声を上げる。榊は確かに不思議な事をできるとは思っていたけど、正直柏木や矢田と同じ事までできるとは考えて居なかった。そんな小夏の態度を見て、榊は不満そうに鼻を鳴らす。
「見くびらないでよ」
言いかけたところで数倍に膨れ上がった黒い物が公園に姿を現した。相変わらず、大きく跳ね上がり、バウンドしながら近づいてくる。
「潰されそー」
小夏は言って後ずさりする。
「うん、頑張って逃げてね」
「へ!? 散らしてくれるんじゃないの」
小夏の言葉に、、榊は腕組みをする。
「それはするけど、柏木みたいに炎で一気に、ってわけにもいかないからね。色々と準備が。とりあえず神社戻ってご神水とってくるからなんとか逃げ回って耐えて」
「そんな! だったらあたしも一緒に行くよ!」
公園で一人逃げ回っているよりも、まだ榊と一緒に居た方がいい気がする。
榊はちらりと面倒くさそうな顔をしたものの、軽く頷いて走り出した。
「じゃあ、一緒に来な!」
(死ぬ……マジで死ぬ……)
前を走る榊の乱れない足取りを見ながら、小夏はぜいぜいと息をして必至に駆ける。
(榊さんすご……修行してるってホントなんだな)
ようやく神社が見えてきた頃には、小夏はすっかり息切れして、頭もぼーっとしてしまっていた。自分でよくもまあ、追いつかれなかったのもだと感心する。
赤い鳥居の前で榊は待っているようにと言って神社に入っていく。
(待ってろって言ったって、追いつかれちゃうよ……)
すでにびよーん、びよーん、と跳ね上がるたびに姿を見え隠れさせてるそれは、かなり近くまで来ている。
呼吸を整えながら、小夏はそれを凝視する。
そして、ふと気付く。
(いっやぁぁぁぁぁ! なんか目がある!)
真っ黒の球体の真ん中。そこに赤く血走った目が。かなり、とても、気色悪い感じで……。
思わず仰け反って足を踏み外し、尻餅をついた小夏と飛び上がって空中にいたそれの瞳が、そして、ばっちりとあってしまった。
(見つかったー!)
次にソレがとった行動は、小夏の予想にもつかないことだった。
跳ね上がったそれは、そのまま着地せずに、空中を一直線にこちらに向かって飛び落ちてくる。瞳の部分はそのまま、小夏の方に向けられて。
(ぎゃー! なんなの!? アレ。もうボールじゃないよ!)
小夏は慌てて逃げようとするが、足がもつれてうまく立ち上がれない。
(来る! 来るぅ!)
「榊さーん!」
思わず助けを求めるように叫ぶ。
「分かってるよ!」
と、返事が来たのは意外だった。振り返ると、榊は手に竹筒を持って急いで石段から駆け下りてくるところだった。折りながら、筒の口をポン、と開ける。
(あ、あれを振り掛けるのかな?)
小夏はなんとなくそんな事を思いながら、榊の到着を待つ。
「お待たせ」
視界の横に長細い足が突き立って、小夏は見上げるように榊を見る。
榊は一度大きく息を吸うと、竹筒を右手に持ち、それをいきなり自分の右足にかけた。
(えー!?)
意味が分からず小夏は目を白黒させる。
そうしている間に、化け物はすぐ側まで近づいてきていた。
榊の右足が上がる。ハイソックスとかローファーとか、びしょびしょに濡れたままで。そして、榊の瞳が狙いを定めるように一瞬細められ。
次の瞬間、榊は黒くて丸いその化け物に、激しい音が響き渡る程の強力な蹴りをお見舞いしていた。
目を見開く小夏の眼前で、宙に舞い上がったその物体から黒い物がどんどん散っていく。
「ほら、ついでに持ってきてやったから」
榊は呆然とそれを眺めていた小夏の手に、かちゃりと重い物を乗せる。それは、そろそろ小夏の手にも馴染み深くなってきたもの。
「あ、うん……」
小夏は急かされて慌てて刀を鞘から抜き、落ちてきたそれをまた舞い上がらないように榊が素早く足で踏みつけるの目がけて、突き刺した___。