野良猫と身の危険 4
バサバサバサバサ___。
凄まじい羽ばたきの音。息の詰まるような暗闇に光が入って、小夏は大きく深呼吸する。
周囲で大量のカラスが羽ばたいている。羽が風を送るたび、黒い靄が吹き飛ばされていく。
「佐藤! 大丈夫か」
強い力で小夏を引っ張り出した矢田の声は、僅かに上ずっていた。
「なんとか生きてる。ありがと……」
小夏がぜいぜいと息をつきながら言うと、矢田は一瞬驚いたような苦々しいような顔をした。
「それはこっちの台詞だ」
「え?何」
大量の羽ばたきによく声が聞こえなくて、小夏は聞き返すが、矢田はなんでもないというように首を振った。
「それよりこれ、、持ってろ」
渡されたのは、小夏が放り投げた刀。
「あ、拾ってくれたんだ。ありがと……」
言いながら、さっと矢田の腕を盗み見たのは以前の柏木の行動を思い出してしまったからだ。幸い、矢田には何も外傷はないようだった。
「すぐに、依代が姿を現すだろうから、よく見とけ」
「見とけったって……」
(影をどうやって刺せばいいの?)
小夏は当惑しながらも、目を凝らす。やはり、影は、黒い物が無くなる頃には地面に姿を隠していた。
矢田がいまいましそうに舌打ちをする。明らかに、小夏と同じことで悩んでいる。グズグズしていては、また逃げられてしまうのに___。
矢田がぎり、と悔しそうに歯を食いしばる。小夏も刀を握りながらも、内心どうしようもないと諦めていた。
(せめて、榊さんがいたら)
その時、不意に視界が青く染まった。もう何度か、見慣れた青。それを見ただけで、小夏は少し安堵してしまった。
青い炎は、影を取り囲む。取り囲まれた陰は、青く強い光に照らされて、じわじわと姿を消す。
「影って基本的に光に弱い物じゃない?」
知らぬ間に背後に立っていた柏木が、いつもの淡々とした口調でそう呟いた。
見る間に地面から、炙り出される様に黒い物が浮き上がってくる。
青い炎の道が割れると、小夏は迷わずそこを駆け出した。
「お疲れ様」
パチパチ、と手を叩く音が聞こえて振り返れば秋芳が相変らず暢気な顔で拍手をしながら微笑んでいる。
「いつ帰ってきたの?」
小夏は刀を鞘にしまって返しながら柏木に尋ねる。
「さっき。帰って来たら銀が君たちの危機だって言うから慌てて来てみた」
「銀?」
小夏の疑問の声に被せるように柏木の足元でにゃあと声がした。
「あ、猫……」
「アタシよ」
小夏は一瞬、頭が真っ白になる。
「え?」
聞こえたのは確かに女の人の声。少しハスキーな、艶っぽい。でも、聞こえたのは足元から。つまり、その、猫から……。
「なんて顔してんのよ。化け物とかと戦ってるんだからこのくらいで驚かないでよ」
(し、喋る猫……)
「彼女は銀猫。色々手伝って貰ってる。今回は旅行に行ってる間、一応保険のつもりで君を見張っていて貰ったんだ」
(あ、じゃあ矢田君が言ってた使い魔って……)
ようやく小夏は思い当たった。この猫のことだったのだ。
そういえば、矢田はどうしたのだろう? 思い当たって小夏は頭を巡らす。だけど、その姿はどこにもなかった。
「佐藤さん」
秋芳が微笑みながら近づいてくる。
「お茶でも飲んでいってよ」
「じゃあ、僕は先帰ってるね。今日一日は矢田に佐藤さんのお守りは任せるよ」
そう言って柏木は銀猫を引き連れて去ってしまった。
「マサが失礼な態度をとってしまってるようで、ごめんね」
言いながら、秋芳は今日は自分で茶を運んできた。
「その矢田君は、どこにいるんですか?」
「今は自分の部屋で休んでるよ」
「部屋?」
小夏が首をかしげると、秋芳はくつくつと笑う。
「境内に祠があったでしょう? あそこ」
意味が分からず不可解な顔をしている小夏に、秋芳は穏やかに続ける。
「ここの中もそうだけど、私たちの住んでるこの建物や社は私たちが住んでる世界に繋がってるんだよ。ここの世界とはちょっと違って、いわゆる妖怪や化け物なんかもうようよ居る場所。斎もそうだし、マサも勿論あそこで生まれた。斎はこちらに家族と住んでるけど、マサは特にそういうものを持たないからね。社を通じて向こうの世界にある自分の家に戻ってる」
「そうなんですか」
なんとも不思議な話だけど、そろそろ耐性ができてきたのか、驚きが少なく受け入れることができた。
秋芳はまるで独り言でも言うように静かに、穏やかな口調で語る。
「私たちはあちらで生まれた生き物を1匹選んで力を与え、自分の力を分け与え、それを使役する事が出来るんだけどね。私は始め斎を選んで、でも、斎はちょっとした手違いでこちらの世界に落ちて行方不明になってしまってね。見つからなくて、斎の代わりにマサを選んだ。でも本来一匹だけにあげるつもりの力を二匹目にあげる事になったのだから、こちらもあまり蓄えがなくてね。マサにあげられた力はあまりなくて、そのせいであの子はいつも肩身の狭い思いをしてたんだ。だからかなあ、妙にひねくれちゃってね。オマケにしばらくして斎がこちらで見つかってからは張り合っちゃってもう。今も斎に良いトコとられちゃったから拗ねて部屋にこもっちゃったんだよ」
秋芳はくすくすと笑う。その笑い方は、本当に我が子を見るように、可愛くて可愛くて仕方がないといった様子。
「でも、ホントは良い子なんだ。だから、嫌わないでやってね」
秋芳はにっこりと笑って言う。
(嫌わないで、って。嫌われてるのあたしなんだけど)
とは思ったものの、小夏は神妙に頷いておいた。
秋芳とそれから他愛もない話をして社殿を出ると、鳥居の所で矢田が待っていた。
「送る」
ブスッとした顔で、それだけを吐き出すように言う。
(あーあ、嫌そうだなー)
小夏は内心で溜息をつく。
しばらく無言で歩いていて、不意に矢田が口を開いた。
「秋芳様を庇ってくれてサンキュ」
呟くようなその言葉に、小夏は目をむく。
「なんだよその顔は」
「いや、矢田君がそんな事素直に言うなんてすごく意外で」
小夏が言うと、矢田は小夏の頭を軽くはたく。
「正直すぎだ」
(なんだ、そんなに怒ってない)
矢田のその様子に小夏は安心して、口が滑らかになるのを感じた。
「でもね。別にお礼言われることじゃなくて。あたし、最近ずっと、街を守るとか良くわかんないなって思ってて、街を守るとか、漠然としすぎてて現実感が無くて、柏木君とかにもそれで遊びだって言われてて。ずっと考えてたんだけど、なんかやっと分かった気がするんだ。秋芳さんが厄に襲われそうになった時、嫌だって思った。あたし、それが柏木君でも嫌。ちーちゃんでも榊さんでも、もちろん矢田君でも」
矢田は驚いたように目を見開くが、小夏は構わず続ける。
「あたしが知ってる人、少なくとも嫌いじゃないあたしの知り合いなら、そういう人たちが怪我したりするのは嫌だなって思った。だから、まだ、街を守るとかよくわかんないけど、とりあえずあたしの周りの人のためって事ならなんか、もう少し頑張れる気がするって。だから、別にお礼言われるような事じゃないよ」
矢田はしばしじっと小夏を見つめた。
脳裏に、かつて自分が拠り所にした言葉が蘇る。
『どこの誰とも知れない、見たことも話したこともない人の命より、私は幼い頃から育てたお前が大事___』
幼かった矢田を抱き寄せた大きな手が、身に染みるほど温かかった事を覚えている。
「俺、お前のこと憎んでた」
矢田は呟くようにぽつりと話し出す。
(嫌いを通り越して、憎むときたか……)
分かりきった事ながら、小夏は地味にショックを受けたが、気にしないようにして言葉に耳を傾けた。矢田の口調はとても真剣なものだったから。
「俺、まだ小さかった頃、巣から落ちて、戻れなくなって死にそうになっていた時に秋芳様に拾われたんだ。秋芳様は俺に力をくれて、生かしてくれた。雛だった俺の世話もしてくれたし。……でも、その事であの人は他のヤツラに結構嫌味を言われたみたいだった。どうしてもっと優れた生き物を使いにしないのかって。大体神様は狐とかを使いにする事が多いから。だけど、そういう時も秋芳様はいつも気にしないで良いって俺を安心させてくれた。斎が見つかってからだって、片方から使いの役目を奪って力を秋芳様に戻せって色んなヤツラに言われたみたいだけど、断ってた。だけど、禍厄が通るってなった時、そうは言ってられなかったみたいだった。俺に余計な力を与えた分、秋芳様の力は禍厄を祓えるほどなかったから。その時、俺か斎を……主に俺を、って意見だったけど、殺せって意見はすごく多かった。一端使い魔に与えられた力は、殺さない限り主に戻ることはないから」
小夏は息を詰めてその衝撃的な話を聞いていた。何を言って良いか分からなかった。平穏に暮らしてきた自分が何を言っても、説得力がないという気しかしなかった。
「でも、秋芳様は俺を生かす事に決めたんだ。人間ひとり犠牲にしても、それよりも俺の方が大切だって言ってくれた。秋芳様はすごく苦しんでた。罪のない一人に全ての咎を背負わせてしまうのを。それでも、俺を選んでくれた。でも、選んだ後も悩んでいて、すごく苦しんでいて、俺はいつもそんな秋芳様の姿を見て怖れてた。やっぱり秋芳様が気持ちを変えて俺なんかいらない、殺してしまえって言うんじゃないかって……だから、その相手は俺のライバルだった。敵だった。俺の命を脅かす物だった。だから、その相手を憎んだ。見たこともない、佐藤小夏を」
矢田は大きく息を吐く。
「結局秋芳様は自分の力をアンタに与えることでアンタの命も俺の命も救ったけどさ。俺はそれでも、秋芳様は俺に力を与えた事を後悔してんじゃないかって恐かったから、その反動でお前のことも憎んでた」
「なんでそんな話、あたしにするの?」
矢田の話にひと段落が着いて、矢田が黙ってしまったのでとうとう小夏はそう尋ねた。矢田は小夏を見下ろす。まっすぐに。
「だって、お前も秋芳様と同じこと言うから」
その言葉はとても苦しそうだった。
「同じこと言って、その対象に俺まで入れるから……俺はお前の守りたい対象に入る資格なんてねーんだよ」
「ふうん」
小夏は少し首を傾げて微かに空を見上げる。淡い月が優しく輝いてる。
「でもあたし、もしあたしがその秋芳さんと同じ立場だったら、悩んでも苦しんでも、後悔はしてないと思うよ」
今度こそ、矢田は大きく目を見開いて小夏を見る。小夏はあはは、と笑って続ける。
「まあ、それで殺されっぱなしだったらあたしも困るんだけど。あたしだったら、そこで矢田君助けて後悔しない。それにさっき、秋芳さん、まるでほんとに矢田君のお父さんみたいな顔してたし」
「生意気なコト言うな!」
ボスっと頭を叩かれて、小夏は前につんのめる。つんのめったから、見えなかった。一瞬矢田の表情が、泣き笑いのように、くしゃりと崩れた事を。
「いったー。矢田君、毎度思うけど女の子叩くの良くないよ」
「うっせー」
静かな夜の道を二人は口喧嘩をしながら帰って行った。