野良猫と身の危険 3
昼食も公園に戻って来て採って、小夏と矢田は相変らず公園でだらだらとしていた。
あまりの暇さに秋芳さんに少し挨拶して行きたい、と言った小夏の言葉も即座に却下された。「今まさに厄に目ぇつけられてる状況のお前を秋芳様に会わせられるか」という理由で。
「矢田君、本当に秋芳さん好きだね」
「うっせえ」
暇にまかせて、小夏と矢田もだらだらと会話をする。
「なんでそんなに好きなわけ?」
矢田は少し押し黙る。とても、不自然な間。
「……主人だからだろ」
「柏木君はあんまりそんな風に見えないんだけど」
どちらかと言うと、憎まれ口も叩いていたし、あまり関心がなさそうに見えるのだが。
小夏の言葉に、矢田は一瞬、顔をしかめる。
「アイツは事情アリだからだ」
「事情?」
「そういうのを、探ろうとするのは下世話だぞ。お前、嫌な女のレッテルまで貼られたいのか?」
その言葉に、小夏は少しムッとして矢田を睨む。
「確かに矢田君の言ってる事って正しいんだけど、一々言葉が悪いと思う。カチンと来る一言が多いよ」
「それは俺がお前を嫌いだから」
その言葉に、小夏は不満気に呟く。
「そりゃーさ。分かってるよ。あたしは足手まといで、お荷物で、迷惑で邪魔なだけの、秋芳様の代わりって分かってるけどさ。だから、嫌われるのも分かるけどさ。ちょっとそこまであからさまにされると流石のあたしも傷つくって言うか……」
その言葉に、矢田は大袈裟に顔をしかめた。何が気に触ったのか知らないが、今までよりも更に硬質な声で、表情で小夏を見る。
「俺、自惚れる女も嫌いだけど、卑屈な女ってもっと嫌い」
怒った様な声。
「それじゃああたしにどうしろと」
「荷物だったら強くなろうって思えばいいだろ。足手まといでも開き直ってればいいじゃねえか」
「じゃあ、なんであたしを責めるの!」
矢田の口調につられて、小夏もつい喧嘩口調になる。
「俺は、お前が気に食わないけど、それはお前が弱いからじゃない。弱くたって、なんだって、生きる権利をお前が持ってる以上、厄に襲われたって自分は生きたいんだから迷惑かけたって生きてやるって開き直ればいい。俺が腹が立つのはその事じゃない。もっと個人的な……」
勢い込んで怒鳴り散らした矢田はそこでハッとした様に言葉を途切る。そして、気持ちを落ち着かせるように軽く息を吐いた。
「お前も俺も、熱くなりすぎだ。どうせお互いそんなに関わる気ないんだから、俺に嫌われてる事なんて気にしなければいい」
何かを封じ込めるように、きゅ、と結ばれた口の端。感情を鎮めるように押し殺した声。
その表情を見てしまったら、小夏は何も言えなかった。何故だか、矢田のとても大切な部分、心の傷みたいなものに触れてしまった気がして。
だから、敢えてこれ以上反論しようとせず、小夏は頷いて白々しいほど明るい声で言う。
「そうだよね。矢田君があたしの事嫌いでも関係ないもんね。でも、今日一日あたしを守ることは矢田君の義務なんだから、手ぇ抜かないでしっかりやってよ! あたしだって、厄介者でも、足手まといでも出来る限りやるんだから」
(これで、いいのかな……?)
言いながら小夏が矢田の表情を伺うと、矢田は最初小夏がこれ以上食いかかってこない事に驚いたようだったが、一瞬ホッとした顔をして、それからすぐにいつもの偉そうな顔になった。
「分かってるよ。その代わり、お前、秋芳様に迷惑かけんじゃねーぞ」
そう言って笑った矢田の顔に、微かに以前よりも親しみを見出したのは、小夏の見間違いだっただろうか___?
(……失態だ)
矢田は微かにブランコを揺らして頭を項垂れた。
二人で話すこともそうないので、小夏は矢田の許可をとって、榊の家の犬を見に行ってしまった。それは、小夏が自分に気を使ってくれたのかもしれないと言う事も、矢田は承知していた。そして、先ほどの小夏の行為もまた矢田に気を使っての物であることも。
(クソっ……)
内心で情けない自分の歯痒さに身悶える。嫌いな女に……嫌いであると思い込んでいる女に気を使われた自分。
矢田は小夏を憎んでいた。ずっと幼い頃から、佐藤小夏というその少女の姿も見たことのないうちから、その存在を憎んでいた。正確には、秋芳がその少女の命を救って自分の能力を彼女に託した時から。
思い出すのはまだ未熟だった頃の自分。力を与えられたばかりの、幼い自分。
『なんでカラスなどを使いにしようと?』
『身を守らせるのならば術の使える狐に……』
『あんな未熟な者に力を与えるなど、秋芳殿の考えている事はわからん』
影で、時に聞えよがしにこそこそと囁かれる声。
『あの狐の方は優秀だったのに』
『あんな者を……』
そんな言葉を気にしなくて良いと言ってくれたのは、自分の主人だ。
あっけらかんに笑って、なんでもないことのように、どこか自信の輝く目で。
「あんな者達の言う事なんて、所詮低脳どもの戯言だから聞いてはいけないよ。これは、命令だ。私はお前を気に入って使いにすると決めたのだから」
だから、自分は秋芳に仕える。心から、慕う。
ただの主人というだけじゃない。あの人のためなら、命を捧げても良いと思っている。
___あの人からは、どんな危険も遠ざける。
自分は足手まといにはならない。邪魔者にはならない。
(狐の代わりなんかに、ならねえ!)
いつも、そう思っている。自分に言い聞かせている。
だから、先ほどの小夏の言葉に頭に血が昇ってしまったのだ。まるで、自分の事を言われたような気になって___。
(そういえば、あの女どうしたんだ……?)
小夏が子犬に会いに行くと言ってから結構時間がかかっているように思えるのに、全く帰って来る気配がないのに矢田は気付いて、眉根に皺を寄せる。なんだか、嫌な予感がする。
(……拙い)
慌てて立ち上がると、無人になったブランコが大きく揺れた。
(ぎゃー!)
小夏はわけも分からず駆け回っていた。小夏のやった事を全く覚えておらず、すぐに小夏に懐いた子犬が不思議そうな顔で小夏を眺めているが、それはこの際どうでもいい。
問題は、現在急速に周囲に黒い厄の靄が集まってきている事だ。
(なんなの!? 元凶はどこよ!)
元凶が見極められれば、一応持ってきた桜小太刀で断つ事も出来ると思うのだけど。問題は、その元凶がまったく見当らないのだ。
とりあえず、黒い物が集まって来るからには逃げるしかない。そう思って、小夏は走り続けてるのだけど。
(!!)
不意に、足が引っ張られて小夏はたたらを踏んだ。ハッとして地面を見て、小夏は息を飲んだ。
自分の影。黒い影の手が地面からにゅ、と伸びていて、小夏の足首を掴んでいる。
(このパターンは、アイツと同じだ!)
前に小夏の目の前から逃げ出した、鏡の中の厄___。
(今度はしくじらないようにしなきゃ)
思って刀に手をかけるが、影の手がにゅるりと伸びてきて、刀を掴んでしまった。すごい力で、ぴくりとも動かない。
とりあえず逃げようにも足を掴まれて逃げられない。黒い靄はどんどん集まる。
焦る中、小夏は視線の先にある物を見つけて身を硬くする。数メートル先にいる、金の目をした灰色の毛並みの猫。
しなやかな体で、一直線に小夏目がけて駆けて来る。
硬直するうち、猫は小夏に近づく。
(来るー!来るぅぅぅーー!)
ス、と足に猫の柔らかい毛並みが触れた。
(ひぃ!)
そして、猫は鋭い爪と牙を、地面から伸びている手に向かって突き立てた。
驚きと同時に、影が地面に引っ込んで、小夏の足首が動く。猫は小夏を促すように軽く振り返ってから駆け出した。
(助けて、くれたんだ……)
小夏は逃げながら背後を伺う。
(って、厄が憑いてんのが影なら、逃げられないんじゃない!? あたし!)
しかも、地面の中に居られたのでは刀を突き刺すこともできない。
(本当に、前と同じパターン!)
しかも、今回は榊は留守なのだ。
(どうすんのー!?)
思ってもう一度地面を確認する。確認して、小夏は仰天した。
(影が、ない!)
見れば、影は小夏が桜小太刀を抜いてしまったのに気付いてまた地面の中を泳ぐようにすいすいと逃げ出している。
(なんて軟弱な!)
思うものの、以前もこれで逃げられているのだ。なんとかしなければ。
「佐藤!」
ようやく矢田の声がして、小夏は少し安堵する。
「矢田君!アレ。逃げる!」
「あ? なんじゃアレ」
矢田は一瞬目を瞬かせる。
「影」
「かげぇ?」
その時、不意に全く関係のない落ち着いた声が二人の耳に入った。
「あれぇ? 二人とも、こんなトコで何やってんのー?」
あっけらかんとした声。二人同時にその声を振り返って、二人同時に愕然とした。
榊の家は神社の近くだ。だから、大声を出しているのが聞こえてしまったのだろう。鳥居の前に、不思議そうな顔をした秋芳が突っ立っていた。
(やばい!)
小夏の背筋が粟立ったのは、厄の憑いた影の進む先に、秋芳が立っていたから。
『その代わり、お前、秋芳様に迷惑かけんじゃねーぞ』
小夏の頭の中で、先ほどの矢田の言葉が蘇る。
「秋芳さん!」
ぬ、っと影が浮き上がる。秋芳の姿に覆いかぶさるように急激に、大きく膨らんだ、黒い姿。
小夏は咄嗟に、その方向に刀を放っていた。
黒い靄の中に、刀は落ちる。そして、それは小夏が刀を放したのに気付いて、標的を小夏に戻した。
黒い物がすごい速さで近づいてくる。
小夏はすぐに逃げ出したが、スピードの差が並ではない。
背後に、多い被さった黒いもの。小夏の視界が真っ暗になった。