野良猫と身の危険 1
それから数日は、幸い平穏な日々が続いた。
小夏を追い掛け回した女子生徒たちのことはどうしたものかと小夏の頭を悩ましていたが、翌日の学校で、矢田が小夏に全く近寄ってこないどころか完全に無視した形だったのを見て、彼女たちは充分に満足したらしかった。
逃げた厄も、どこに行ったのかは分からなかったが、今のところ特に被害はなかった。
小夏の内心では、鬱々としていなくもなかったが、少なくとも、表面上は穏やかな毎日。
「お待たせ」
本日は部活もない日なので帰宅しようとしたのだが、柏木に用事ができてしまった小夏は校門の前でぶらぶらと時間を潰していた。ようやく柏木が用事を済ませて来たので、小夏は少し揶揄する口調で言う。
「もてる男は辛いですねー。子犬の件が柏木君の人気を落とすことに繋がらなくて良かったわ」
「モテない女の僻みは見苦しいですねー」
ムッとした顔の小夏にはどこ吹く風で、柏木がすたすた歩き出す。
「嫌味言ってる暇があるならさっさと帰るよ」
柏木は矢田と違って表立って取り巻きやファンがいるようには見えないのだが『本気の女の子』が多いのだ。だから、こうしてお呼び出しの告白をよく受けている。
(まあ、ちょっと気持ちはわからなくとないんだけど)
柏木の、普段冷たいようで居てさりげない優しさとか。いかにも自然に実はフェミニストな所とか。
(しかも、アイツ。他の女の子にはすごい感じ良いし)
小夏に対するような憎まれ口も叩かず、冷たい口調でもなく、にっこり笑って感じの良い、成績者良くて良く物事に気がつく。
(そりゃあ、惚れるわよねえ。あたしでさえ……)
考えかけて自分でハッと思い返す。
(ちょっと待って!? あたし、今、何考えた!?)
何を考えようとした?
小夏は慌てて頭の中の考えを振り払う。
(あり得ない。こんな意地悪で冷たくていやな男!)
よりによって、だ。
「何ぼーっとしてるのさ。帰るよ。僕だって、暇じゃないんだから」
(本当に、こんな可愛くない男!)
「ところでさ、君、明日は休日だけど何か予定あるの?」
柏木の言葉に、小夏は首を振る。
「特にないけど」
「じゃあ、一日中家に居る?」
「……多分」
小夏が言うと、柏木は満足そうに頷く。
「良かった。君が暇人で」
「何で!」
腹の立つ言い方に小夏は憤慨するが、柏木は当たり前の様に返答する。
「なんでって、君が外出しないんなら、僕がわざわざ一緒に居てあげる必要もないから。……僕、今夜から明日まで家族で旅行なんだよ」
「はい?」
家族旅行? 柏木が?
小夏の胡散臭そうな顔を見て、柏木は「失礼だな」とでも言うような顔をする。
「この年になって、家族と旅行?」
小夏の問いかけに柏木は当たり前だとでも言うように頷く。
「そう。温泉に一泊二日で。君は行かないの?」
「行かないよ。余程良いトコとかなら別だけどさ」
例えば海外旅行とか。
「だって、家族と行っても面白くないし」
「良い親御さんだったじゃないか」
なぜ柏木が小夏の親を知っているかといえば、数日前、びしょぬれになった小夏を送って来て柏木は小夏の両親に挨拶をして行ったのだ。「小夏さんが噴水でつまづいて溺れてしまって……」と大変不名誉な説明と共に。
「君の事、ちゃんと心配してたしさ」
「そりゃ、娘がびしょ濡れになって帰って来たら心配の一つや二つもするだろうけど」
ソレとこれとは別だ。この年になって両親と出歩くのはみっともない感じがする。
特にカッコよくも美人でもない、どこにでもいるようなおじさんとおばさんと連れ立って歩くのは。
「まあ、そんなワケで」
柏木は特に小夏の言い分を気にするわけでもなく言う。
「僕は明日と明後日居ないから。もしも、出かける用事が出来たら矢田に頼んでね」
「はいぃー!?」
柏木の思わぬ発言に、小夏は目を見開く。
「だって、矢田君はあたしの事認めないって」
「大丈夫。明日だけは特別。秋芳様に関わってくる事だから矢田と言えども邪険にする事はできないよ」
「でも」
嫌われてる相手に対して、そんな事を頼めるはずもない。
(明日は、一日中大人しくしてよう……)
小夏はそう、心に誓った。
それなのに___。
(やばい! マジでやばい)
小夏は自室に戻って頭を抱えた。家に帰り着いてから、変なことが起り過ぎているのだ。
不意に何もないところで引っ張られた感じがしてつまづいたり。
そして、厄の憑いているモノの正体の見当もついていない事はないのだけど。
(でもなー。生き物には憑きにくいって言ってたし。前回の二の舞してもねえ)
にゃあ、という鳴き声が聞こえて小夏は身を硬くする。カリカリカリ、と部屋のドアを引っ掻く音。入れて入れて、と言っている。
母親が本日、唐突に連れて帰ってきた野良猫。野良猫にしては結構毛並みが綺麗で美人さんだという理由で母親のお眼鏡に適ったらしい。薄い灰色の毛並みに金色の瞳を持つ猫だ。
(入れてあげたいのは山々なんだけどさー。万が一の事があってもまた、迷惑かけちゃうしさー)
ドアの外で猫はいまだに入れて入れて攻撃を続けている。
小夏が帰って来た時には、猫は既に家の中にいて、小夏の姿を見た時からずっと小夏の後を付いて回っているのだ。
母親などは「懐いてるねー」などと笑っていたが、小夏にしてみればどうも懐かれているような気がしない。
(むしろ、なんか見張られてる気がする)
小夏はいそいそと電気を消して、ベッドに入って布団を頭から被ってしまう。
(ゴメン猫! だけど今日はお母さんのところで寝て)
万が一、あれに厄がついていた場合、寝込みを襲われるのは大変宜しくないのだ。
翌朝早朝。小夏は休日の朝にしては珍しい程早く起き出した。
(はー。緊張して眠れなかった……)
どうやら家の中にまで入り込まれてしまったようだと思うと、おちおち眠っても居られない。小さな物音にも敏感になって、夜中に何度か目が覚めてしまった。
(あたしって、こんな敏感だったんだー)
考えながらいそいそと服に着替える。
(とりあえず、無事そうなトコって言ったら秋芳さんの所だよね)
とてもじゃないが、矢田になど会いたくない。一応と柏木に手渡された矢田の携帯電話の番号は振り返りもせず、小夏は身だしなみを整えるとそっと部屋を抜け出す。
ドアの前を確認して、猫が居ないことに一応安堵する。朝食代わりに食パンを一枚失敬して、音を潜めながら歯を磨いて顔を洗うと、慌てて家の中を飛び出した。
しばらくは朝の住宅地を駆けて、背後に猫がついてきていないか確認する。
(よし、大丈夫)
ようやく一安心して、小夏は歩調を緩めた。
朝の秋芳神社は閑散としていた。ただでさえあまり参拝客のない神社。こんな早朝には誰も人がいるはずもない。
神社の側に平屋の家があって、そこが榊の家だと本人に聞いた事がある。見るともなくそこを見てみたら、犬小屋があって、小夏は思わず顔をほころばせていた。
(あの時の子犬の家だ)
鳥居を潜って中へ進む。社殿の側に小さな祠があって、両脇を石造りの狐が囲んでいたので、なんとなく柏木を思い出した。
(ったく、こんな時に家族旅行だなんて)
内心で毒づいてはみるものの、よく考えれば柏木は最近いつも小夏につきっきりで自分の時間をもてないで居るのだ。そのくらいの息抜きも必要だろう。
(それにしても、家族好きすぎ)
そういえば以前も家族が心配するからあまり遅くはなりたくないと言っていたし。
(……マザコン?)
そんな事を考えているうちに、小夏は社殿の前に辿り着いた。
(秋芳さん、いるのかな? 寝てたらどうしよう)
やっぱりここは、ノックなどをして入るべきだろうか。少し躊躇ったその時だった。
「何してんだよ」
そんな声と共に、後頭部に鈍痛を感じた。
「痛っ!」
思い切り勢いをつけて振り返ったら今度は顔面に鈍痛。
「いったー!」
「馬鹿。何やってんだよ。一度目のは故意だけど今のは事故だぞ。お前が勢い良く振り返るのが悪いんだからな」
矢田の結構逞しい拳に鼻を激突させてしまい、小夏は手でそこを押さえる。押さえながらも、鼻声で反論する。
「一度目に殴ったのは故意ならどっちにしろ有罪じゃん」
「それは、お前が馬鹿な行動とってるからだろ」
「馬鹿な行動?」
小夏が怪訝そうに眉を顰めるのも気にせず、矢田はむんずと小夏の腕を掴むと、有無を言わせずずりずりと引っ張って神社の外、鳥居の外側まで小夏を引っ張って行く。
「鳥居から向こう、結界の内側なんだから気安く入るな。なんのために、携帯番号をキツネに渡したと思ってるんだ」
「何のため?」
小夏が首をかしげると、矢田はチッと舌打ちをした。
「アイツから聞いてないのかよ。……お前に何かあったら、まずお前は秋芳様に会いに来るだろう。とすると秋芳様が危険だけどそれでもいいのかって」
(読まれてる)
小夏のその考えが表情に出ていたのだろう。矢田は苛立たしそうにもう一度舌打ちをした。
「だから俺は不精不精お前のお守りを今日一日と言う約束で引き受けたんだよ」
(そういうからくりがあったのか)
矢田が素直にそんな事を引き受けるわけはないと思っていたけれど。
「それで? お前はどうしたんだ?」
「なんとなく、変なことが起るからこの前の厄が側に居るんじゃないかと思って。家の中に居ても起るから、不安だし……」
「それで、なんで直接秋芳様のトコに来るんだよ!」
「だって、矢田君あたしを嫌ってるじゃん」
小夏が言うと、矢田はぴくりと反応する。
「おおそりゃそうさ。嫌ってるともさ。お前からの電話なんて一切受け付けたくないね。でもな、指示された事はきちんとしろよ。それがお前の義務ってもんだろ」
(あたしの、義務……?)
「自分勝手に行動して、それで守ってくれとか思ってるんならジョーダンじゃねーぞ? 分かってんのかよ。そこらへん。甘ったれが」
矢田はそう言って、もう一度べしりと小夏をはたく。
(痛……!)
矢田にしてみれば手加減しているのだろうが。それでも痛い。だけど。
(そうだよね。あたし、守られてばかりだしね……)
「ごめんなさい」
小夏が言うと、矢田は少し驚いたように、微かに動揺したような顔をした。