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8 僕と彼女の婚約指輪について

 思い返してみれば、彼女について僕が聞かされるのは、いつも失神か不審たっぷりの行動による騒ぎばかりだった。


 王宮に上がって約一年、最近は少なくなったとはいえ、エミリアは相変わらず、建物の影から女性の方を覗きこんではぁはぁ言っている。その姿を見た知人から同僚へ、同僚を通して僕の方に直接、通報と相談が寄せられるのだ。


「お前の婚約者、熱心に俺の恋人を見つめていたんだけど、まさか狙っているんじゃないよな……?」

「なんでビクビクしているの。恋人の座は狙われていないから安心しなよ、そもそもエミリアは女の子じゃないか」


 僕の婚約者であるエミリア・バークスは、ちょっとおかしな女の子だ。思えば、そのせいで僕の日々は騒がしくて、女友達を作る事に苦戦している彼女の交友関係については、考えた事もなかったのだ。


 資料を取った帰り道、僕は偶然にも、鼻血を起こした彼女を目撃した。


 あの時、鼻血を起こしたエミリアの周りには、衛兵、騎士といった各部署の軍服を着た男達がいた。一人がハンカチを手渡して、いつものことだと言わんばかりに誰もが彼女に付き合う。すると、少しもしないうちに、彼女の長男を思わせる巨大な男もそこに加わった。


 衛兵服に身を包んだ熊のように大きな男が、気遣うように腰を屈めて、エミリアの耳に手を伸ばして塞いだ。彼女は有り難いとばかりに任せていて、それは慣れたような、何度もされた事があると僕に伝えてきた。


 彼女を誰よりも知っている、というような台詞が聞こえて、何故だか胸がざわりとした。



「――僕の方が、彼女を知っている」



 思わず、反論するように、そう口の中で呟いていた。


 でも僕は同時に、彼女の髪の柔らかさも、頬の感触も知らないのだと分かって、呟いた言葉は小さくなって消えた。体調が悪い訳でもないのに胸の辺りがきゅっとして、落ち着かなかった。



「衛兵のオルティス? さぁ、誰かは知らないな……。最近【鋼の令嬢】と仲がいいデカい男がいるとは聞いた」



 薬師研究課の棟に戻った際、チラリと聞いた大男の名について、覚えはあるか尋ねてみた。同僚である四つ年上のヒューズは、首を傾げたものの「多分その大男が『オルティス』なんだろうな」と推測を口にした。


 ちょうど居合わせた所長が「あまり軍人と関わる事はないからなぁ」と頭をかいたところで、ふと、こう尋ね返してきた。


「というか、解消するんじゃなかったのか?」


 エミリアとの婚約について、僕はこれまで、先の方針について誰かに語った事はなかった。確かに婚約した当時は、両親が行った「結婚の約束」を解消するつもりではいた。


 それなのに、先程エミリアに「婚約破棄はいつ?」と問われた時と同じように、他人の口からハッキリと婚約破棄について指摘された僕は、数秒ほど言葉が出て来なかった。何故か、思考が上手く働いてくれない。


 沈黙した僕を見て、所長が無精髭をなぞり「あれ、違ったのか?」と首を捻った。ヒューズも彼と同じ考えであったのか、不思議そうな顔をしていた。周りにいた同僚達の空気からも、婚約破棄が時間の問題だと思っている事が肌で感じられた。


「なんつうか、婚約者同士って感じがしないし、てっきりそうなのかと」

「他の部署の奴らだと、婚約しているのを知らない連中もいるみたいだぞ?」

「先輩との婚約が解消されて、騎士団の誰かと付き合うかもしれないって噂を聞いたんですけど、お互いが別の結婚相手を探してるとか、そういうのじゃないんですか?」


 丸い眼鏡を押し上げながら尋ねる、後輩からの純粋な疑問が、耳を通り過ぎて行った。


 何故か脳裏には、先程見たエミリアと大男の光景が浮かび上がっていた。ふと唐突に、彼女が倒れた際に駆け付ける男が、僕である必要がなくなる未来が想像させられた。


 彼女が、別の誰かと付き合う。


 そこで思考回路が硬直して、先を考える事が出来なくなった。まるで本能がそれを拒絶するように、大人の男女についての一般的な交際過程と、脳裏を過ぎった想像の光景に、今まで考えた事もなかったと思うのがやっとだった。



 誰と交友を持とうが、彼女には僕という婚約者がいる。まだ僕の婚約者なのだと、その言葉が頭の中でぐるぐると渦を巻いて――気付いたらじっとしていられず、僕は婚約指輪を買いに向かっていた。



 どうしてなのか、ハッキリとした理由はよく分からない。


 買いに行こうと思った時には、婚約を象徴するような証を指にはめたエミリアの姿が浮かんでいた。別の誰かが選んだ、別の男とお揃いの指輪を彼女にして欲しくないと思った。出会った頃よりも、彼女は随分と身長も伸びて幼さもなくなった。きっと、その指に似合う指輪を、僕は知っている気がした。


 店先で、迷うことなくサイズを告げた僕を見て、受け付けをした男女が、何故か微笑ましげに愛想良くにっこりとした。ずっと一緒にいるのだから、体系や身長、指のサイズくらい知っているのは当然だろうと、僕は訝しげに思った。


 エミリアは変わった女の子で、剣が強いとは思えないほど華奢で、その指も細い。大量の鼻血を出すくらい血の気が多い癖に、今でも僕よりも体温が低いままでいる。


 いや、男の方が体温が高いのは、当たり前なのか。


 僕らには二歳の開きがあって、同じ分だけ歳を取って、いつの間にか大人になった。だから、彼女が僕より随分小さいのも、僕と比べると指のサイズがとても細いのも、不思議な事ではないのだろう。


 それでも僕は、仕上がった婚約指輪の大きさの違いを、しばし見つめずにはいられなかった。



 婚約指輪を彼女の指にはめて、帰ろうと踵を返したタイミングで、日中にされた質問を保留にしたままだった事を思い出した。婚約破棄はいつするの、という質問が唐突に耳元に蘇って、僕は、過去の彼女に答えるようにこう言っていた。


「婚約は、破棄しない」



 どうして、そんな事を口にしてしまったのか、よく分からない。婚約指輪を届けてから二日間、本を開いても食事をしていても、婚約指輪をはめたエミリアの姿が思い起こされた。


 王宮でメイド服を着た彼女の白い指にも、それがあるのだと思ったら「……早くその日が来てしまえばいいのに」と、またしても自分でもよく分からない事を呟いていた。


              ※※※


 二日間の休みが終わり、僕はいつも通り夜明け前に、五日分の荷物を持って王宮まで馬車で揺られた。


 薬師研究課のある別棟へ向かいながら、メイドとして勤めている間の彼女の部屋がある階へ、チラリと目を向けていた。エミリアはメイド専用の宿泊部屋ではなく、勤め人の休憩場所の近くにある、半分以上も空きのある使用人の仮部屋一つを与えられていた。


 どうして僕が彼女の部屋を知っているのかと言えば、何度も足を運んだ事があるからだ。王宮に上がったばかりの頃、歩く先々で倒れる彼女の介抱がてら、どうにか部屋まで案内してくれと周りの者に懇願され、ご指名を受けたせいである。


 婚約者だから大丈夫だと言われて、彼女が王宮に不慣れな間は、二人で荷物を片付けた。エミリアの鼻血がなかなか止まらない時も、男女共に出入りする救護室から出て、部屋まで付き添い、落ち着くまでしばらく付き合うのも珍しくない。


 メイド服のリボンが止められないと愕然とする彼女に、「僕だって知らないよ」とむっつり答えた事もあった。これ以上ルシアナ様に迷惑を掛ける訳にはいかなかったから、僕の方が先にリボン結びを覚えてしまったのだ。


 今でもエミリアの胸元と、エプロンの腰元のリボン結びは、ちょっと斜めで歪な形をしている。試しに僕のネクタイを結ばせた時も、ひどい有様になった。



――僅か数分で、ネクタイがぐしゃぐしゃだ。

――ちょっと黙っててッ、この結び目が解けないんだけど!?

――落ち着きなよ。これじゃあ、嫁のもらい手がなくなるんじゃないの。

――いいのよ、結婚の予定なんてないんだからッ



 去年はそんな事もあったなと思い返していた僕は、彼女が同じように、ネクタイ着用である騎士か衛兵の、誰かのネクタイに挑戦する姿を想像してしまい、ピタリと仕事の手を止めた。


 その距離感というか、シチュエーションには知らず眉が寄る。すると、同僚のヒューズが「どうした?」と、椅子を回転させてこちらを振り向いた。


「足りない材料でもあったか?」

「――君、女性が男性のネクタイを締める事を、どう思う?」

「唐突だな。何があったんだよ、ラディッシュ?」


 ヒューズは首を捻ったが、そういう方面にはまるで興味もなく疎い僕を知ってか、これから十八歳という若い後輩に教えてやろう、という顔で少し思案した。


「そうだな。夫婦だったら普通にやるし、パートナーの特権って言うか、婚約者らしい事でもあるんじゃね? ウチの嫁も結婚前からやってたよ」


 ま、ウチの嫁は細かいところもあったからな、とヒューズは語った。


 婚約者らしい事、という言葉が、なんとなく頭の片隅に引っ掛かった。僕は無意識に左手の薬指に触れ、それから時計で時刻を確認し、気付いたら所長の方へ身体を向けていた。


「所長、午後三時に昼休憩をもらってもいいですか?」


 尋ねると、所長が訝しげにゆっくりと顔を顰めた。


「……まぁ、問題はないけどさ。お前、そんなに遅く入って大丈夫なのか? 一時間半あるんだし、半分ずつに分けて取っても構わないんだぞ?」

「いえ、三時に入ります」


 僕がキッパリ断ると、先月に配属されたばかりの眼鏡の後輩、エバンスが「なら僕のお菓子をお裾分けしますよ!」と挙手した。相変わらず彼の仕事机の隣の棚には、大量の菓子が山積みされている。初給料で大人買いをし、味を占めてからその光景が続いていた。


 すると、ヒューズを含む同僚達が「後輩、俺にもくれ」「あとで菓子代少し出すから」と次々に名乗りを上げた。所長が負けじと主張するように、凛々しい表情で素早く手を挙げ「年長者にも是非」と、普段にない良い声で発言した。


 甘党が多い部署だよなと思いながら、僕は菓子を断わって仕事に戻った。

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