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6 鼻血と私と、私を連れ出した幼馴染な婚約者

 オルティス達と別れた時点では、鼻血は止まってくれていた。まさか、すっかり馴染みとなった救護室で、再び鼻血が出るとは思ってもいなかった。


 普段は目をつり上げている年配の女性医が、私を見て「あら、今日は意識がある状態なのね。安心したわ」と気さくなに笑んでくれた時、感極まって「うっ」とやらかしてしまったのだ。


 女性医とは一年も付き合いがあるので、どうにか言葉少ないやりとりなら、鼻血を我慢出来る相手だった。カーテン越しなら問題なく体調についても答えられていたのに、不意打ちの笑顔には、くらりとした。


 眉間の皺もなく笑む顔は、抱きしめたい衝動に駆られるものだった。


 女としては、溢れる想いを胸に留めておく事なんて出来なかった。思わず私は、「あなたの全てを守らせて下さい」と、指の隙間から血を流しつつ、床の上に座り込んだ状態で伝えていた。



「なんて素敵なの……私がもっと成長したら、普段からあの笑顔が見られたりするのかしら」

「鼻血を流しながら言うのはやめなよ。強烈な告白にドン引きして、逃げるように出て行ってしまった彼女には同情しかない」



 既に女性医は、部屋を出て行ってしまっていた。救護室には現在、私に大きめのタオルを手渡したラディッシュだけが残っている。


 彼は、すぐに移動させるには多過ぎる出血量だと判断したのか、床に座り込む私のそばにしゃがんで、ずっとこちらの様子を見ていた。


「常々疑問には思っていたけど、普通の人なら貧血を起こすレベルの流血を、どうして鼻から出せるのか不思議だ」

「他人と比べた事がないから分かんないけど、貧血なんて経験にないわよ。普段から肉を食べてるからじゃない?」


 私は少し記憶を辿り、憶測を口にした。野菜ばかり食べているラディッシュの方が有り得ないのだ。そう思いながら、もう少しで止まってくれるだろう鼻血へ意識を戻し、二枚目となったタオルを押し付けた。


 しゃがんでいたラディッシュが、こちらを見つめたまま頬杖を付いた。



「エミリアは、女の子の声もダメなの?」



 唐突に言われて、私は「ん?」と首を捻った。さらりとした銀髪から覗く、相変わらず何を考えているのか分からない青い瞳を見つめ返す。


「どうかしら。ドキドキはするけど、そこまでではないと思う」

「さっき、耳を塞いでもらっていたのは、どうして」

「あれはまた別なの。興奮すると声だけでも姿が想像出来ちゃって」


 私だって、鼻血や気絶の回数を減らそうと努力しているのだ。そうなってしまったら、彼女達の姿から目をそらさなければならなくなる。颯爽と手を貸して「大丈夫ですかお嬢さん」と声を掛けて、仲良くなる流れが私の目標なのだ。


 そう熱く語り聞かせてやったのに、やはりラディッシュの反応はいまいちだった。頬杖を付いたまま「ふうん」と言い、馬鹿じゃないの、というように僅かに眉を顰める。


 愛想もない癖に、女の子達にキャーキャー言われている男には分かるまい。


 私は腹の中で「チクショー」と愚痴り、用が済んだタオルを離した。鼻血との付き合いは長いので慣れたものだが、血の跡が残っていても困るので、念のためそばに用意されている濡れ布巾で顔を拭った。



「じゃあ、僕が耳を手で塞げば、君は気絶してしまわないで済むの?」



 やたら近くから意外な言葉が降ってきて、私は「は?」と間の抜けた声を上げた。


 顔を上げてみると、目の前にこちらを覗きこむラディッシュの端正な顔があって、びっくりした。鼻先が触れそうなくらいの距離から見た彼は、随分と幼さがなくなっている事にも気付かされた。


 すっかり大きくなった、武人と違う細くて長い指をした手が伸びて、私の両方の耳を形ばかりに覆った。その指先が、ふわふわとした髪に僅かに触れるのを感じた。


「こうしていれば、君は安心するの?」


 ラディッシュが、やや首を傾けて尋ねてくる。


「えっと、『安心する』かと言われても分かんない……というか、そばにいないと無理なんじゃ?」


 あれは応急処置みたいなものなのだ。コンマ二秒で興奮が脳髄を突き抜ける場合だと、鼻血の前に失神するから防ぎようがない。目覚めた時は、その失態が気にならないくらいの幸福感に包まれてもいる。


 しばらく、ラディッシュから返答はなかった。普段喧嘩を吹っ掛けてくるような顰め面でもなく、リラックスしたような無表情で見つめてくるので、珍しく思考が遅れているのだろうかと思って、私も大人しく待っていた。


「小さな顔だ」

「パチンってやったら、許さないからね」


 彼が何気なく口にした瞬間、私は間髪入れず指摘していた。


 こいつ、まさか普段から迷惑を掛けられているし返しでも考えていたのだろうか、と勘繰って思わず顔を顰めると、ラディッシュが「――そんな事しないよ」とワンテンポ遅れて答え、手をゆっくり引き戻した。患部を冷やした方がいいと説明し、準備のために立ち上がる。


 私は、そういえばと思い出して、彼の白衣の背中に向かって呼び掛けた。


「婚約破棄はいつ頃になりそう? 何か私に出来る事があるのなら協力するわよ」


 私達は誕生日が近いのだ。ラディッシュが十八歳を迎えた一週間後、私は結婚が可能になる十六歳になってしまう。あと一ヶ月も切ってしまっているので、少し気になっていた。


 すると、ラディッシュがピタリと足を止めた。


「…………先に応急処置をしたいから、返答は後でもいいかい」


 急ぎの用事を思い出して時間もない、と珍しく回答を保留にされた。思えば、私もそろそろルシアナ様を迎えに行かなければならない頃合いでもある。


 私が「分かった」と了承すると、こちらを振り返らないまま、ラディッシュが冷水とタオルを取りに一旦救護室を出て行った。


              ※※※


 返答は後でと言われたのに、私は、しばらくそれを忘れてしまっていた。五日続いたメイド勤務の最終日だったので、実家に戻るために定時よりも早い時間に退勤した私は、着替えて荷物をまとめている時に思い出した。


 鞄一つに収まった荷物を持って、自分の馬を預けている場所へ行く前に、宮廷薬師研究課に寄ってみた。


 そこにラディッシュの姿はなかった。白衣を着た男達の話によると、戻ってきてしばらくもしないうちに仕事の手を止め、「用がある」と言って急きょ早退してしまったらしい。


 仕方がないが、週が明けてから再度尋ねてみよう。


 私はそう考えて、宮廷薬師研究課を後にした。互いの家を行き交う間柄でもないし、二日後にはまた王宮に戻るので、その際にでも構わないだろうと思っていた。



 我が家で一番の俊馬である、漆黒の愛馬ハルトに跨って実家まで駆けた。いつも通り夕刻には到着し、討伐に出ている父や兄達が帰る前に、軽く湯浴みをして汗と埃を流したのだが――



「お嬢様、ラディッシュ・カスター様がお見えになっております」

「は……?」


 何故か、家族の帰宅よりも先に、ラディッシュの訪問を知らされた。


 執事のバレッドから知らせを受けた時、私は聞き間違いかと思った。思わず振り返ってまじまじと見つめ返すと、父よりも少し年上のバレッドが、冷静沈着な面持ちで、もう一度同じ事を告げた。


 ラディッシュが訪ねてくるなんて珍しい。立ち寄っただけなのだと言い、屋敷には入らず外に停めた馬車の前で持っているという。


 訝しみつつも外に出ると、見慣れたカスター伯爵家の馬車が停まっていた。そこには外出用の正装着に身を包んだラディッシュがいて、秋先の弱い夜風の中、少し寒そうに腕を抱えて馬車にもたれかかっていた。


 彼は昔から、寒がりなところもある男だった。多分、鍛えておらず身体が薄いせいだろう。私の家に勤めている屈強な四人のメイド達も、昔ラディッシュが「彼女達が、女装している男にしか見えない」と失礼な事を口にしてから、常々「野菜の根みたいな男ですわよね」と口にしていた。


 ラディッシュは私に気付くと、馬車から背中を起こして、ツカツカと歩いてきた。


「突然どうしたの? 寒いなら珈琲か紅茶でも出すけど」

「すぐに終わるから、いい」


 そう言いながら、彼が私の左手を取った。一体なんだろうかと思っている間にも、薬指にぴったりの指輪がはめられた。


 屋敷の灯かりに反射するそれは、幅の細い銀色の指輪だった。よくよく見てみれば、小さなダイヤが控えめに埋め込まれている。彼の左手の薬指にも、同じ指輪が収まっていた。


「…………あのさ。これ、何?」

「何って、婚約指輪」


 すぐに返答があったものの、返って来た言葉が上手く理解出来ず、私は呆けた顔でラディッシュを見た。


 というか、なんで婚約指輪?


 ラディッシュは、私の指にぴったりと収まった指輪を確認していた。サイズに問題がないことに満足したのか、無表情のまま一つ肯くと、これで用も済んだとばかりに踵を返してしまう。


 慌てて呼び止めようとした直前、彼が思い出したようにこちらを振り返った。


「婚約は、破棄しない」

「え」


 んじゃおやすみ、といつも通りの口調で言って、ラディッシュは馬車に乗り込んでしまった。



 あっという間に遠くなっていくカスター伯爵家の馬車を、私は呆気に取られたまま見送った。しばし動けないまま、彼の言葉を頭の中で何度も反芻したが、上手く理解出来なかった。


「………………というか、え、どういう事……?」


 内容としては無視できない大きなものである気がするのに、それを語る彼の言葉数が少なすぎて困る。というか、ラディッシュは普段から言葉が足りないと思うのだ。


 三文字を発音し、区切って、残り五文字で伝えてきた。


 その言葉の間に、本来どんな説明文が隠れているのか。まるで訳が分からん。私がぐるぐると悩んで一人佇んでいると、屋敷からバレッドが迎えに来た。


 バレッドは「お似合いですよ、お嬢様」と淡々と指輪の感想を口にし、「夜風は冷えますから。失礼致します」と断って、太い腕で私を担いで屋敷に連れ戻したのだった。

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