プロローグ
緑生い茂る森の中、草の絨毯の上で横たわっている一人の少女の姿があった。
少女は目を瞑り、腕を胸の前で組んで寝ている様はまるで死んでいるかの様で、静謐な雰囲気を醸し出していた。
小さく聞こえてくる寝息と、薄く上下しているその胸を見る限り、死んだように眠っているという言葉の通り、決して実際に死んでいる訳では無さそうだ。
不意に、一陣の強い風が吹いた。
サワサワとゆっくり優しく揺れ動いていた木々の声は、その強風によってザワザワとした騒めきへと変わり、その風が地面に横たわる少女にも吹き付けた様で、鬱陶しいとでも言う様に顔を顰めている姿が見える。
そして、その人物は目を覚ます。
眠そうな目を擦りながら上半身を起こし、軽く伸びをすると同時に、今度は優しい緩やかな風が木々の間を吹き抜けた。
まるで少女の目覚めを祝福しているかのように吹いたその風に靡く少女の長く艶やかな黒髪は、サラサラと風に揺れ、木々の間から差し込む日の光を浴びてキラキラと煌いている。
「……はぃ?」
見た目相応に可愛らしい声で、少女は口をポカンと開けて素っ頓狂な声を出した。
辺りをキョロキョロと見回しながら、その気の強そうな赤い瞳を忙しなく動かす。
まるで状況が飲み込めない。そう言った感情がありありと伝わってくる様な仕草であった。
そして彼女はゆっくりと目を瞑り、自分が置かれた状況、この状況へと至る過程等を思案する。
彼女、鑑 真という青年は、25歳という若さで病気により命を落とした。
15歳で不治の病に侵され、進行を遅らせる事で10年という年月を、特効薬の開発という希望に縋って生きて来た。
しかし、その希望は儚くも散り、その一生を終えたのだ。
そう、彼は死んだ筈だった。
しかし、なぜか目を覚まし、気が付いたら大自然の中、素っ裸で少女の姿になって横たわっていたとなると、驚きを通り越して混乱するのは当たり前の事だろう。
彼、ないし、彼女は混乱する頭を落ち着けながら更に思考し、一つの結論に辿り着いた。
生前に病床で読み耽っていた小説にも似通った話があったのを思い出したのだ。
「そうか、これが転生という物か……」
しかし、そう悟ったのは良いが、まだまだ疑問が晴れる事は無い。
何故なら、転生というからには赤ん坊からと言うのが基本的にはスタンダードだった様に思うのだが、見渡す限りの大自然に両親と思しき姿も無く、赤ん坊処か既にある程度の成長を遂げていると思われる体。
思考の渦へと囚われそうになるのを何とか押しとどめ、真は次に自分の体を確認してみる事にする。
願わくば、病気も何もない健康体であればいいなと言う希望を込めて……。
まず自分の体をざっと見渡して、目に付くのは右肩、左腕、両足の付け根だろう。ギョッと目を見開いてマジマジと見ると、そこにはグルリと輪っかの様に回る痛々しい傷跡が刻まれていた。
その傷跡は、まるで取れた箇所を無理矢理取り付けたかのような、違和感を覚える物だった。
真に見えるのはその4か所だが、実際には首筋にも同様の傷が刻まれており、一種の異様さを醸し出していた。
サラサラと風に靡く艶やかな長い黒髪に、その肌は白磁の陶器の冷たさを連想させるほどに白い。
血の気が無いのか、これほどの白さであるにも関わらず、青い血脈は全く見当たらず、触れてみると実際に陶器を思わせる程ヒンヤリと冷たい。
最早以前の自分とは違う別のナニカに変わってしまっている。
真がその確信に至るまでに、そう長い時間はかからなかった。
というか、上半身を起こし、その体を見下ろせば一目瞭然とも言える光景が目に飛び込んできたのだ。
以前の自分の病気で痩せ細った体とは明らかに違う。
ほっそりとしている事に違いは無いが、見下ろすと即座に目に付くのは小ぶりだが形のいい乳房にほっそりとした腰。
そして、細くはあるが適度な肉付きの柔らかそうな太腿の間に覗いているのはツルリとしたモノで、慣れ親しんだはずのモノは奇麗さっぱり無くなっていた。
ここでふと、真は気づいた事があった。
いや、彼が裸である事は見て解る通り、真自身も気づいているが、努めて触れない様にしているのだ。
所謂、現実逃避という物だ。
まぁそれはさて置き、彼が気付いたのは別の事だ。
それは自分の精神状態についてである。
確かに内心焦ってはいるし、混乱はしている、気はする。
しかし、それは振りとか、演じている、と言った表現がしっくりと来るほどに、自分の現在の実際の精神状態は驚くほどに落ち着いているのを感じるのだ。
まるでその肌と同じく、感情さえも冷たくなってしまったかのような恐怖に襲われ、真はブルリと体を震わせた。
そしてその考えを即座に放棄する。
例えどの様な姿になろうとも、自分が元は人間である事は覚えているし、揺るぎが無い真実だ。
感情の無い化物になってしまったとしても、感情が理解出来ない訳ではないという事も大きい。
真は仮にそんなモノとして生まれたのだとしても、心までは見失わない様にしようと、心に決めて拳を握るのだった。
さて、自分の把握は粗方終わったという事もあり、次はここが一体何処なのかという疑問が浮かぶ。
真はゆっくりと立ち上がり、お尻についた土を両手で払い落とした。
そして辺りをグルリと見回して、考える。
何故こんな所に、という疑問が真っ先に浮かぶが、それは今ここで自分でいくら考えたとしても出る答えでは無いだろうと、早々にそれに関しての思考は捨て去った。
次に浮かぶのは、ここは一体何処だろうという事だ。彼が住んでいた街にこのような自然に囲まれた場所など無かった。何処かの田舎に行けばあるのかもしれないが、テレビ等でしかお目にかかったことが無い程の大自然だ。
自分の実際ではほぼ有り得ないであろう姿と、この大自然が線で繋がり、ある仮定、ひょっとすると定番的に異世界と呼ばれる様な場所では無いかという考えに行きつくが、それも今の段階では知りようが無い。
そして、これから自分はどうすればいいのか、という思考へと繋がっていく。
ここが何処かという点に置いても、これは第一の疑問と同様に自分で考えても答えは出ないだろう。
一番簡単で確実なのは、誰か人を探して尋ねる、という事だ。
その答えに辿り着いた真は、次に浮かんだ疑問であるこれからどうすればいいのか、という疑問も同時に解消する。
出した結論として、取り合えず、人を探してここが何処なのかを尋ねよう。
そう自分の中で目的と目標を定め、ゆっくりと歩を進めだした。
キョロキョロと辺りを見回しながら、欝蒼と生い茂る緑の森を彷徨い歩く。
ザワザワと風に揺れる木々の音が、同時に緑の匂いもその小さな鼻に届けてくる。
木々の騒めきを縫う様にして聞こえてくる小鳥の声が耳に心地よい。
病床に付いて10年という年月は長く苦しい物で、久しく忘れていた感情が沸々と沸いてくるのを真は感じていた。
自然に綻ばせたその表情は、明るく、楽しそうな、少女のその見た目相応に可愛らく可憐な物であった。
まぁ、傍目に見るとすこし、いや、かなりシュールである事は否定出来ない。
森の大自然の中、素っ裸で笑いながら少女が歩いているのだ。
誰かに見られると有らぬ疑いを招くのは火を見るよりも明らかだ。
しかし、そんな考えが彼の頭を過るのは、たっぷりと30分程、自然の雄大さを堪能した後であった。
真が森を歩き出して約1時間程が経過しようとしていた。
病に耽っていた頃とは比べるべくもないが、1時間休みなく、ゆっくりではあるが、狭い歩幅で黙々と慣れない森の中を歩いたにも関わらず、息の乱れは勿論、疲れや足に痛み等も全くの皆無だった。
どうやらこの姿は、思う以上に健康体であるらしいと真は結論付け、安堵の想いと嬉しさがこみ上げる。
と、ここでふと今までとは違う音が真の耳へと聞こえてくる。
即座に耳を澄ませてみると、更に認識できたのは、恐らくナニカが走る様な音、荒い息遣い。
前を走る荒い息に対して、後ろから追いかける様に走る3つの足音には余裕さえ感じる程だ。
それもそのはずか、前を走る者に対して、その後方から聞こえるのは二足歩行とは違う様に思える。
4足歩行、森、等から連想して考えられるのは、狼、野犬、熊等だろうが、足音の大きさから言って熊程の重さは感じない。
遠くから聞こえる音に対してこれ程詳細に感じ、考え、結論を出せる事に、自分で少し驚きを感じるが、今はそれどころでないと、真は頭を振る。
誰かがナニカに追われている、そう結論を出したところで、真は特に迷いもせずその場所へと向かって駆けだす。
聞こえてくる場所はここから進んだ先の前方で、待っていても此方に向かっては来ている様だが、ジッとしているという選択肢は真には無かった。
ようやく自分が居る場所等の状況把握が出来そうな機会が転がってきたのだ。
面倒を避けて素通りという選択も勿論ながら無い。
追跡者である三匹に対して、追われている一人に真が合流すれば二人になる。
野性に生きる野犬等の類であるならば、急に増えた人間二人に対して即座に襲い掛かる様な愚は侵さないだろうという考えと、犬ぐらい二人でちょっと棒でも持って威嚇でもすれば追い払えるだろうという希望的観測を持ち、真は駆ける。
そして、少しの開けた場所に出た所で目撃したのは、前方を走る女性と、その後ろを追いかける青い狼の3匹
の姿だった。
急に前方から飛び出した裸の少女に、女性は目を見開いて焦りの色を浮かべる。
逆に、真は目の前に現れた狼を未だ狼とは認識しておらず、やっぱり野犬か、等と的外れな感想を抱きながら落ち着いた様子で女性と青い狼を交互に見ていた。
少女の近くまで走り寄ってきた女性は、見た目的には30代程で、少し土などで汚れているが、美人だと言える程整った顔立ちをしている。
茶色い髪を後ろに一つに束ね、ポンチョを彷彿とさせる様な黒い上着の下には長いロングスカートが見えていた。
どこかの民族衣装を彷彿とさせる姿と、飛び出した台詞に、真はやはりここは、と何かを悟った様に誰にも聞こえない程の小さな声で呟いた。
「あんた一体っ!?って、何故裸なんだい!?あぁもうっ!次から次へと厄介ごとがっ!」
喚き散らすかのように告げたその言葉と意味を、真は即座に判断する。
聞こえて来たのは日本語と言っていいのだが、前から走ってくる女性の見た目、服装から思うに日本人とは決して断言出来ない。
にも拘わらず、真の耳に届いた言葉は日本語に変換、翻訳されて聞こえるのだ。
これはもうほぼここが異世界であると確信を得た様な物だ。
どういう原理かは解らないが、異世界という未知の場所ではあるが、言葉を話す者同士であれば意志の疎通は出来る様だ。
そう確信を覚えた真は、近づいてきた女性に対して告げる。
「お姉さん!二人なら追い払えるんじゃないですか!?ほら、これで……」
そう言葉を発して、真は駆けてくる道中で拾った頼りない木の棒を構えて見せる。
その光景を呆れた顔で見つつ、女性は、真のすぐ傍まで走り寄って手に構えた木の棒を引っ掴み、焦った様に乱雑にその手から毟り取って後ろを駆けてくる狼に向かって投げ捨てた。
女性の弱い力では思ったよりも飛ばず、少しの放物線を描いて狼の近くに転がった。
転がった木の棒をまるで鼻で笑い飛ばすかのように一瞥し、何食わぬ顔で狼たちは二人へと迫ってくる。
隣で真が「あっ」等と間抜けな声をあげていたがそれどころではない。
何故裸でこの少女はこんな所に居るのか、そして何故よりにもよって今の切羽詰まった様な状況に首を突っ込んできたのかという苛立ちにも似た感情を彼女は抑えながら、呆けている少女の手を引っ掴んで少女が来た方向へと駆けだす。
「おバカッ!魔物相手にそんな木の棒で何しようっていうんだい!ほらっ!逃げるんだよっ!」
「魔物……?」
少女の手を掴み、軽い体を最初は引きずる様にして走っていたが、今はもう真も正面を向いて走っている。
大人の歩幅に対して、狭い歩幅の少女では同じ速度で走っていても足の動きは倍近い様な速度で忙しなく動いている。
しかし、息も絶え絶えと言った彼女に対して、真の息は驚くほどに平常時と変わりない。
その光景は通常の精神状態では異常に映ったかも知れないが、今は緊急事態とも言うべき状況だ。
彼女、この森の近くの村に住むミリアと言う女性の目にはそれほど気にした様子は無かった。
逆に辛いかも知れないのでいっその事この少女をおんぶして走ろうか、等と的外れな心配をしていた程だ。
そして、件の真はと言うと、先程のミリアの言葉を思い返し、彼女が魔物と呼んだ野犬の姿を思い出していた。
毛並みが良く、青く光る細い体毛に、獰猛な輝きを灯す黒い瞳。
剥きだした赤い歯茎とその下に除く白く立派な鋭い牙。
体格は恐らく真よりも大きいだろう。
乗りかかられると簡単に押さえつけられそうな程だ。
隣で真の手を引いて走っている女性が大凡160cm程なのに対し、身長差を踏まえて考えてみると、恐らく真の現在の身長は140cm弱と言った所だろうか。
等と驚くほどに落ち着いて思考している真を他所に、隣を走るミリアの顔はみるみる内に青ざめ、最早限界が近い事を予感させるに十分な物だった。
息は途切れ途切れ、縺れそうになる足を、自身の握る小さな手を握り締める毎に叱咤し辛うじて走り続ける。
今も聞こえる絶望の足音に慄き、汗で髪も服も張り付いて気持ちが悪い。
しかし、この小さな手を放す訳にはいかない。
一人であったなら、ひょっとするともう彼女は諦めて足を止めてしまっていたかも知れない。
それを守るべき対象が出来た事によって限界を超えた逃走をさせるに至ったのだ。
しかし、それももう限界が近いと言う事を、ヒューヒューとなる喉に蒼白の顔面が物語っている。
ここでミリアはゆっくりと足を止め、釣られて足を止める少女の手を手放した。
そして彼女は振り返り、肩で息を整えながら告げる。
「ヒィ……フゥ……フゥ……、あ、あん、たは、逃げ、なさい。ハァ……、私が、奴らを引き付けるから」
その言葉を聞いた真は首を傾げる。
息も乱れず、汗もかいていない、平時と変わらない様な顔でキョトンとした表情だ。
真は理解できなかった。
ついさっき出会ったばかりの見知らぬ怪しい裸の少女に対して、何の疑問も持たず、唯小さいから、子供だからと庇護の対象とし、命さえ厭わない自己犠牲の精神は、彼には不思議なモノとして映っていた。
確かに子供は守るべきモノであるという常識や良識はある。
だがこの状況下に置いて、命と隣りあわせという緊急事態に置いて、他人の見知らぬ子どもに対してこんな事が出来るだろうか。
居ないとは言わないが、稀であるのは確実だろう。
えてして人は自分の身こそカワイイ物だ。
漠然と、唯々漠然と、真はこの人はイイ人なんだなぁと、そんな事を思う。
続いて思うのは、今現在の姿がどうであれ、中身は25歳の日本男児、女性に守られる事を是とする訳には行かない!と言う男気とも言える感情だった。
未だ逃げようとせず、ぐっと拳を握り締めている真に、痺れを切らしたミリアは叫ぶ。
「何してるの!?早く逃げなさいって言ってるでしょうっ!!」
切羽詰まったかのような彼女の絶叫に、真はフルフルッと首を振る事で答えとし、走り辛そうに木々の間を縫う様にして、ようやく追い付いてきた魔物と呼ばれる狼の姿を見つめる。
付かず離れず、狩りをするかの様に冷静に距離を保ち、獲物が疲れるのを待っていた狼達は、不自然に立ち止まり、自分たちに相対するかのような構えを見せる人間二人に少し警戒心を露わにしている様だった。
一匹は正面で喉を鳴らしながら二人を見据え、もう二匹は二人から視線を外す事なくゆっくりと左右へと別れていく。
正面と左右へと別れ、逃げるなら逃げろというかのように開けられた後方にミリアの視線がチラリと流れる。
まだ逃がす事が出来るという希望を持って、隣でジッと魔物達を見ている少女へと視線を落とす。
「私は良いから……、あんただけでも逃げなさいって……。大丈夫よ、おばさんも簡単にはやられないわ。ここから南にずっと進めば村に付くから、大人の人を呼んできてくれる?」
優しく、諭すように小さくそう告げるミリアの今にも零れそうなほどの涙を溜める瞳を、真はジッと見つめた後、またフルフルッと首を振った。
「なんで……、言う事聞いてくれないのよ……、もう……」
堰を切ったかの様に一筋の涙がミリアの頬に流れるのを真は横目にチラリと見た後、ジリジリと距離を詰めてくる3匹の魔物に視線を戻した。
彼の頭の中は、ミリアの涙を見た事で一瞬の乱れを見せたが、今は既に落ち着いている。
(ひょっとして、ひょっとしなくてもこれは俺が泣かせた事になるのか……)
等と考えているぐらい落ち着いた物だ。
驚くほどに冷静な真の目に映る魔物達は、真に恐怖を与えるには及ばず、警戒心も殆ど沸かない者達だった。守るべき女性が居る事でちょっとした緊張感はあるが、その程度だ。
真の認識では、ちょっと大きい犬程度でしかない。
これがゴブリンやオーク等と言った化物然とした姿の魔物であったならばまた違ったかも知れないが、今目の前にいるのは前世でも見た事がある様な姿を少し大きくした程度のものだ。
危機感の欠如、そう捉える事も出来るが、真には不可思議な確信があったのだ。
こいつ等は、自分よりも弱者である、と言う確信が。
「ガァゥッ!!」
「ヒッ……」
一匹、正面の狼が吠え、左右に別れた一匹が口を大きく開き、涎をまき散らしながらミリアへと飛び掛かる。
短い悲鳴を上げて目を瞑り、腕で防御しようするミリアに、容赦なくその牙を突き立てんと迫る狼。
そして、何かが地面へと叩きつけられるような音と、「ギャンッ」という悲鳴。
理解の追い付かない音にビクリと体を震わせ、噛み付かれると思って身を固くしていたにも関わらず、いつまでたってもその時は訪れない事を不思議に思ったミリアが、ゆっくりと瞑っていた目を開くとそこには目を疑う様な光景があった。
真は一匹の狼がその体を宙に浮かせ、文字通りミリアに対して飛び掛かろうとしているのを察知した後、即座に地面を蹴った。
一瞬の加速でトップスピードへと至った体に少し驚くが、直ぐにまた冷静な物へ落ち着き、まるでスローモーションの様に流れる景色と狼を視認し、後手に回ったにも関わらず、ギリギリのタイミングでミリアと狼の間へと体を滑り込ませていた。
口を大きく開くその鼻先を無造作に掴み、思い切り地面へと向かって叩きつける。
「伏せっ!」
その言葉と共に、ドンッ、という音が辺りに響き、同時にバキッと何かが折れる音も聞こえて来た。
その音の正体は、裸の少女の細腕の下、鼻先を抑えられて地面へと押さえつけられている狼の姿を見れば明らかだった。
その口の周りには、無残にも細く鋭い牙が数本転がっていた。
それがどれほどの衝撃であったかは叩きつけられた狼にしか解らないが、血が諾々と流れる口元と、既に意識が無いのか白目を向いている様を見るに想像以上の衝撃であった事を物語っている。
叩きつけた本人としては、軽く力を込めた程度だったのだが、予想外の惨事に首を傾げている。
「ガウッ!ガアアッ!!」
地面にうつ伏せたままピクピクと痙攣を繰り返す狼から押えていた手をゆっくりと放す真に対し、口を開いて威嚇の様な声を上げる狼を、真はチラリと横目で見る。
(意識を自分へと向けて、仲間の攻撃を援護するとは予想以上に頭が良いのかな……)
影から忍び寄る様にして近づき、飛び掛かってきていたもう一匹の狼の方へクルリと振り向きながら、真は冷静にそんな事を考える。
涎をまき散らし、赤く大きな口を目一杯広げて、その白く鋭い牙を少女の柔肌へと突き立てようと迫る凶暴な獣の姿。
そんな姿を何の感慨も無く一瞥し、広げた口に添える様にして両手を突き出した。
左手はその上顎を掴み、左手はその下顎をしっかりと握られており、小さな少女に対して、その巨大な狼の体はなんの優位性も見る事が出来ずに空中で止められる。
勿論勢いはそのままに、頭だけを固定された形になったため、グキッと言う音を伴って狼の巨体がブラブラと振り子の様に揺れ、地面へと後ろ脚を擦らせながら止まる。
「カッ……、カフュッ……」
狼は大口を開けた状態で固定されている為に奇妙な息を零しながら、痛む首に何とかこの小さな手を外そうと宙に浮いた前足を振るう。
2度、3度と少女の体へと叩きつけられるその前足には余り力が入っては居ない様に見えるが、目の前の少女が見た目通りの存在であるならば即座に後ろに転げる程の力は籠っている。
何せ体格は一回りは違うのだ。しかし、そんな前足の抵抗に対して、少し鬱陶しいという程度の感情しか見せず、身体に関して言えばその場から微動だにもしていない少女の姿があった。
体重差等から考えても、その光景は余りにも現実離れしていて、まるで少女に飼い犬がじゃれているのかと思う程だった。
そんな奇妙な光景を目撃していた一匹と一人は、思わず後退る。
一匹は恐怖した様に腰が引け、今にも逃げ出しそうな雰囲気を醸し出しているが、それが可能かどうかを同時に考えている様だ。
狼、シルバーウルフと呼ばれる魔物の脳裏には、逃げ出した途端に標的が自分へと変わり、即座にその小さな手に首根っこを捕まえられている様がありありと浮かぶ。
ジリジリと後退はしているが、体が思う様に動かないという状況に陥っていた。
そしてもう一人、ミリアは自分の隣に倒れ伏すシルバーウルフという魔物の一匹と、現在目の前で裸の少女にまるで弄ばれているかのようなシルバーウルフに目を見開き、カチカチと歯を鳴らしている。
そもそもこんな森の中で出会った、体のあちこちに大きな傷跡を持つ裸の少女が普通の存在であると思った事の方が間違いだったのだ。
存在感が希薄で表情も乏しいその少女は、美しい外見とは裏腹に首、腕、足に大きな傷跡を持っている。
目の前に飛び出して来た唯の子供という認識で物を見ていたミリアに、その光景は驚きと畏敬、恐怖、色々な物が綯い交ぜになって押し寄せてくる。
体が粟立ち、歯がしっかりと噛み合わずにカチカチと鳴ってしまう。
ミリアは自分の体を掻き抱く様にしてその一部始終を見守る。
真はチラリと後退ったシルバーウルフを見た。
その視線に気付いたシルバーウルフの体は硬直し、それ以上の動きを見せる事無く真の動きに集中し、警戒しているようだ。
その光景を見た真に浮かぶのは、逃げないのか、という落胆した物だ。
まだ戦う意志があるのかと、そう解釈したのだ。
であるならば、未だ動けるであろうこの狼は邪魔になるだろう。
動けなくするにはどうするか、そう思考が流れ、前世、人であった頃であれば考えもしなかったであろう結論に行きついた。
(あぁ、なんだ、そっか。殺せばいいのか)
沸いた疑問がスッキリと解けた。
そう言った晴れ晴れとした気持ちのまま、真は両手に力を込める。
左右へと、手に持った狼を裂く様に。
「アギャッ!アアアアガガガッ!ガァァ、ァァッ!!」
バギッ、ミキミキッ、グチッ、ビチャビチャッ、ボトッ、ビチャッ。
ありとあらゆる擬音が飛び交う。
口が裂ける音、骨が開く音、肉が裂ける音、血が滴る音、裂けた体から落ちた臓物と血飛沫が少女の体と足元を濡らしていく。
何の感慨も無く、血に濡れた少女の手からポイッと投げ捨てられたシルバーウルフの体は、上下に力の限り引き裂かれた無残な物だった。
さて、血に濡れた裸の少女は振り返る。
真の目に映ったのは、恐怖からか震えながら体を小さくして、地面を濡らす液体を下半身から垂れ流すシルバーウルフの姿だった。
「キュゥゥン……」
弱々し気に発されたその声は、屈服、懇願、と言う様な物が綯い交ぜとなったシルバーウルフの命乞いの声だった。
目の前の化物を相手に、最早立ち向かう勇気も、逃げる勇気すら折れたのだ。
戦う意志が無いと悟った真は、襲ってこないならまぁいいかと気にも止めず、へたり込んで震えているミリアの傍へと近寄っていく。
「ヒィッ……」
短く悲鳴をあげ、へたり込んだままで後ろへと後退るミリアに対し、真は、(余程怖かったんだろうなぁ)、等と的外れな考えを巡らせた。
そして、血迷った事に、安心してもらう為にその顔に笑顔を浮かべたのだ。
先程目の前でシルバーウルフを何の感情も覗かせずに殺し、その血に濡れた少女が、笑顔を浮かべて自分の方へと近づいて来るのだ。
恐怖以外の何物でもないだろう。
完全に恐怖というメーターが振り切り、ミリアの肉体と脳が取った行動は、意識の消失と言う名の現実逃避であったのは仕方がない事だろう。
「…………」
「ぇっ!?ちょっと!お姉さん大丈夫ですかっ!?」
何の脈絡も無く、プッツリと糸の切れた人形かのようにその場に倒れてしまったミリアに、真は焦り、慌てて近くへと駆けよろうとした所でふと立ち止まる。
(あれ?ナニカが可笑しい。俺はさっきまで狼を相手にしていた事は間違いない)
今自分がしていた事がまるで他人事かのように思える程、現実感が無い。
しかし、やった事は事実、殺した事も事実、それに対して何も感じていないのも、変えようのない事実。
降りかかる火の粉を払った。
その程度の感傷しかない。
(これは参った……。こんな姿じゃぁ、流石に怖いよなぁ……。何平然と殺そうなんて考えを実行してるんだよ……。この化物め……)
血濡れであった自分の体に気付き、自分の心持ち等を罵倒しつつ、恐怖に身を震わせていたミリアに申し訳ない気持ちが湧き上がる。
あれはシルバーウルフに恐怖していたのではなく、真に恐怖していたのだ。
(水の音が聞こえるな。小川か湧き水でもあるのかな……。取り合えず体を拭いてこよう……。起きて直ぐにまたこのままだったら怖いだろうし)
耳に聞こえてくる水音を察知し、そちらへと向かって歩き出した所でふと足を止め、倒れているミリアの姿と未だ伏せの状態で此方を見ているシルバーウルフの方を見る。
(襲う気はもう無いのかもしれないけど、流石に心配だな……)
そう考えた真は、此方を見ているシルバーウルフへと向かって手招きしてみる。
すると、シルバーウルフの垂れていた耳がピンッと立ち上がり、尻尾を振って近寄ってきた。
真がしゃがんでシルバーウルフを迎え入れると、その頬をペロリと舐めてくる。
体はデカイがこうして居ると普通の犬の様で少しカワイイかも、などと真は呑気に考える。
「お前も体洗わないとちょっと臭いぞ。一緒に水辺に行くか」
「ワフッ!」
一声鳴いた事を返事と受け取り、頷く真の頬をもう一度ペロリと舐めるシルバーウルフに、何か顔にでもついているのかと不思議に思い、手を頬へと伸ばす。
血ではない、透明の雫が拭い取れた。
瞳から流れたかのようなその雫の理由を真は少し思案するが、その理由に思い至る事は無かった。
首を傾げた後、シルバーウルフを伴い、森の奥へと体を洗う為に駆けていく。
その涙も一緒に洗い流す為に。