第二話【狼の戯れ】
風呂から上がると涼し気な風が頬を撫で、火照った体を優しく冷ましてくれる。この間まで続いていた熱帯夜の気配はなく、秋の訪れを感じさせる。
チノと特に待ち合わせもしていなかったため、家に戻ると明かりはついていたが既に寝床で横になって眠りについていた。
ここに来るまでに荷車で二週間程かかった距離を、数時間で往復したのだから疲れるのは当然と言えるだろう。
光石の明かりを消して寝床に就く。肌はサラサラで過ごしやすい気温。今日はあまりにも色々あったため、疲れていたのかすぐに睡魔が襲ってきたその時だった。
「何じゃ、もう眠るのか?」
「あぁ、おやすみ・・・チノ」
最初は夢かと思ったが、その口調に違和感を覚えて飛び起きた。
「え、は? いや、誰だよ?」
それはチノの声でありながら、チノの口調ではなかった。
「かっかっか、そう驚くでない」
暗闇でありながら、赤い二つの瞳がこちらを見つめている。
「こうして言葉を交わすのは初めてじゃな。じゃが、わしはヌシのことをずっと見ておった」
木窓が開け放たれると、月明かりが差し込み、白銀の髪を煌めかせる。
「初めて? 何言ってんだ。え、チノ・・・だよな?」
「いかにも、わしの名はボルテ・チノアじゃ」
妖艶な瞳で笑うチノは、明らかに別人のようだった。
「いや、お前チノじゃねえんだろ。いったい何者なんだ?」
「なんじゃ、まだ分らぬか? 数刻前に見たであろう、このワシの威厳ある姿を」
言葉の意味を考えると答えは一つしかない。
「もしかしてお前は、あの馬鹿でかい狼だって言うつもりかよ?」
「だから、初めから言っておるであろう。ワシはモングールが崇める神、ボルテ・チノアじゃと。」
立ち上がったボルテ・チノアはクツクツと笑い、寄りかかるように俺の膝の上に座った。
「お、おい、いきなり何だよ?」
「いや、ヌシも酷い雄じゃと思うてな。先程は、わざとあのようなことをこの娘に申したのであろう?」
これには、思い当たる節がある。
「何のことだ?」
気づかないふりをして話を流そうとしたが、そうはさせてもらえなかった。
「この娘がヌシに好意を寄せていることくらい理解しておるであろう?」
惚れ惚れする程の、ど真ん中のストレート。これをはぐらかしても更に痛手を負うことくらい俺にもわかる。
「はぁ・・・分かってるさ、それぐらい」
「この娘と番になるのは嫌か? これまで幾人もの娘たちの体に入ったが、この娘は歳の割に胸もあるからのう、あと二、三年もすれば抱き心地もよくなるぞ?」
ボルテ・チノアは胸を下から持ち上げては寄せて、自らの手で揉みしだく。
「やめろ、やめろ、人の体で遊ぶんじゃねぇよ。あと、番とか言うなよな」
おでこを優しく押して辞めさせると、不貞腐れたように唇を尖らせる。
「ふん、聖人ぶりおって。さっさと質問に答えよ。嫌なのか?」
「・・・別に、そういうわけじゃねえよ。俺とチノじゃ歳も離れてるし、そもそも俺の目的はあくまで元の世界に戻ることだ。ずっと一緒にいてやれるわけじゃねえんだ、そんな無責任なことできるか」
この返答に対して、つまらなさそうに欠伸をする。
「理性とはつまらぬ雄めが・・・まぁ良い。今日はヌシと話すことが目的じゃったからのう、これくらいにしておいてやる」
「そうしてくれると助かるよ」
膝から立ち上がり、身を翻してこちらに視線を向けられる。
「そうじゃ、言っておきたいことがあったのじゃ」
「まだ何かあんのかよ?」
どっと疲れが襲っているところに、追い打ちをかけられる。
「ワシは、我が愛し仔達を救ってくれたことに感謝しておる。故に礼と言ってはなんじゃが、一つだけどんな望みであろうとも草原の覇者の名に懸けて叶えると、ヌシに誓おう」
「お、おう、そうか。でも、すぐに思いつかないからなぁ・・・ちょっとだけ待っててくれると助かる」
「それで構わぬ。楽しみにしておるぞ」
そう言ってチノは寝床に戻り、木窓を閉めると部屋の中は漆黒の闇に包まれた。
「また、近いうちに会おうぞ」
「勘弁してくれ。おやすみ」
寝床に寝転がって瞳を閉じる。あまりにも衝撃的なことがあったばかりであるにも関わらず、すぐに眠れたのは、この世界に来て驚くのに慣れてしまったせいなのか、それとも疲れに勝てなかっただけかは、俺にはわからない。
***
鳥の鳴き声で目を覚ますと同時に、甘い香りが鼻孔を擽る。
「んぅー?」
何か顔に当たっているのか、酷く痒みを覚える。手で払いのけようと腕を動かしたとき、柔らかい感触が掌に走った。
「ひゃっ!」
「んがっ!」
すると何かがビクンと跳ね、硬いものが顎にぶつかり脳が一気に覚醒に向かっていく。
「カ、カズヒサ・・・? え、何ばしよっと・・・な、何でうち、カズヒサのとこで寝とっと? あれ、あれっ?」
どうやら怒るよりも先に、自らが置かれている状況に気が付いたせいで錯乱している様子だ。
「あの色ボケ狼め、やりやがったな・・・はぁ」
こうなった原因は火を見るよりも明らかであったため、目の前で狼狽えているチノの姿は、酷く哀れに思えたのだった。




