第二十話【ボルテ・チノア】
月明りが照らす中、馬で駆けるゲレルは木戸で閉じられた洞窟の前でその足を止めさせ、鬣を優しくなでる。
「チノ、出てこい」
そう声をかけると木戸が開き、中から布一枚を纏った少女が現れた。
「カズヒサは?」
「窯に付きっ切りたい。カズヒサが動くときはハワルたちに知らせろって言うとるけん大丈夫やろ。村の端まで送っけん早う乗れ」
「うん」
チノは軽やかな動きで馬の背に跨り、ゲレルは背中に手を回されたのを確認すると、手綱が弾き馬を走らせる。
「帰ってくる時は、この間森に入って決めた場所に迎えに行くぎよかや?」
「うん、空が日に染まる前には帰るけん」
「そいぎ、服場入れた木箱ば置いとくけん着替えて待っとけ。そのまま箱の中に入って戻ればよかやろ」
「そうやね、わかった」
村の南側にあるバリケードの傍でゲレルは馬を止めた。
「そいぎ、お墓参りに行ってくっけん」
「おう、気を付けて行かんばぞ!」
「トルゴも乗せてくれて、ありがとうね」
チノはゲレルの愛馬と額を合わせると、手綱をゲレルに渡した。
「暴れて怪我すっぎいかんけん、押さえ取ってね」
「お、おうそうやな」
灰色の瞳を閉じたチノは深く息を吸う。
「風の王よ、この身に宿りし草原の覇者よ」
チノを中心に風が吹き荒れ始め、馬は落ち着きを失くす。
「その権能をこの身をもって今こそ体現せよ・・・」
開かれた瞳は、雪の上に落ちた鮮血のように紅く染まっていた。
「ボルテ・チノア!」
古の神の名を少女が呼ぶと同時に、身に纏っていた布は投げ捨てられ、強風によって天高く舞い上がった。
『ビビィ!』
「トルゴ! 取って食われたりせんけん、落ち着かんか!」
暴れる馬をゲレルは必死に押さえつける。
ゲレルの前に現れた巨大な狼は行儀良くお座りして様子をうかがっていた。
「駄目だ、落ち着きそうになかけんもう行ってくいろ!」
「うん、そいぎ皆のことは頼んだばい」
そう言って巨大な狼は身を翻し、バリケードを超えて出て行った。それから七日が経過し、約束の時間より少し早く集合場所に到着したチノは、木箱の上に座って待っていた。
少し戻るのが早かったこともあり、迎えが来るのはもう少し先の事になるだろうと判断したチノは、箱の中に入って眠ることにした。
目を覚ました頃には大きく太陽は傾いており、迎えが来ないことに違和感を覚え始めた。
日没が近づき、様子を見に行こうかと思い始めた頃、馬の蹄鉄の音が聞こえてきた。
「もう、遅かばい・・・ってその怪我はどがんしたとね!」
血の滲んだ包帯がゲレルの腕に巻かれているのを目にして、チノは慌てて駆け寄った。
「こがんと・・・どがんちゃよか。そいよか・・・」
「そいよかって何ね! また魔獣のでたと?」
普段見せることのない思いつめた表情に、チノはゲレルに問い詰める。しかし、その血管が浮いた首は横に振られ、精気のない声でこう答えた。
「カズヒサが、帝国の騎士に連れてかれた・・・」
「は・・・? な、何でっ!」
ただでさえ白い肌から血の気が引き、その頬は青ざめている。
「わからんばってん手枷ばされよった・・・よか扱いはされとらんやろう」
その返答を聞いたチノは目を見開き歯を食いしばると、突風によって森の木々がどよめき、咄嗟にゲレルは顔を腕で守った。
「チノぉ! 飲まれるぞ、気ばしっかり持て!」
「持っ・・・とる! あんた達は村の守りば・・・固めときしゃい!」
白銀の狼はよろけながら、どうにか答える。
「何ばするつもりや!」
「決まっとるやろ! カズヒサば・・・取り返すとくさん!」
「チノ、待っ―――」
ゲレルの制止を聞くことなく、白銀の狼はバリケードを跳び超えて走りだした。
家畜が放たれている放牧場を抜け、崖を跳び越え垂直に近い急斜面を止まることなく山脈を駆け上る。
雪を踏みしめ、その頂きに立った白銀の狼。その視線は遥か彼方に見える街明かりを見つめていた。息が凍る程に冷えた空気を灰に取り込み、天を轟かさんとばかりの遠吠えを上げる。
足元に積もっていた雪には亀裂が走り、雪崩となって崩れ落ちていく。それにも関わらず狼は頂きから跳び下り、白い濁流に飲み込まれる。
崩壊の連鎖の切っ先を突き破り、雪崩を超える速度で狼は駆け抜けていった。
***
その名が呼ばれた瞬間、これまで疑問に思っていた事が一つの線へと繋がっていく。だが、俺はまだ辿り着いたその真実を信じられずにいた。
依然として王女と狼の睨み合いは続いている。
「うちの未熟者と違い、怒りに飲まれても尚、自我を保つとは流石と言ったところか・・・」
ウルスラは感心したように呟く。
「じゃが、喋れぬということはもはや気力で持ってるだけのようじゃな。時間の問題か・・・其方が力に飲まれることを妾は望んでおらん」
牙を剥き出しにして威嚇し続ける狼の足元を指差し、ウルスラはくすりと笑う。
「探し人なら其方の足元に居るであろう。ほれ」
ウルスラがそう言った途端に、風で飛ばされたことで積み重なっていた長椅子が崩れる。
何事かと視線を向けた銀の狼の瞳と目が合ったその瞬間、紅い瞳は大きく見開かれ、眉間から鼻先へと幾重にも重なっていた皺が消失した。
互いに見つめ合ったまま沈黙が続いた後、狼は微かに口を開いて何かを発しようとするも固まってしまった。
不思議と恐怖心は湧かなかった。しかし、白銀の狼が向けるその瞳はどこか悲し気に見えた。
俺が声をかけようとしたその瞬間、割って入るようにウルスラから問いかけられる。
「カズヒサよ、一つ聞いても良いか?」
「あ、あぁ・・・何だ?」
狼から視線を外し、ウルスラの言葉に耳を傾ける。
「毎年この辺りは秋雲のせいで雨が続くことが多いのじゃがなぁ・・・レンガは良く乾いたか?」
「何でレンガの事知って・・・っていうか今それ関係あんのか?」
その問いに、ここ一ヵ月を振り返ると確かに雨の記憶は無かった。
「一月も雨が降らなかったんじゃ、おかしいとは思わなかったか?」
浴場造りで必死だったせいか、そこに考えが至ることは無かった。だが、今思えば確かにおかしい。
「一月前、山脈の向こう側に強い魔力の波動が発生した。何事かと山の頂きへ行ってみれば面白いものが見れた。何だと思う?」
その問いに答えずとも、ウルスラは一呼吸置いて続けた。
「雲払いじゃよ。凄まじい大気の流れが雨を降らすような厚き雲を見事に散らしておった。天候を変えるなどという神の御業に等しきことをやってのける者など、妾を除きこの帝国内に何人おるかのう」
「何が言いたいんだ?」
「それを一月もの間、何食わぬ顔でやってのけた者が居た。その事実に其方は気づかなかった・・・じゃが、其方はこれまでモングールの者達と過ごした時の中で、違和感は感じたことがあるのではないか?」
ウルスラが言わんとすることは分かった。だが、今ここでそれを認めて答え合わせをしてしまったら、もう二度と会えなくなるような気がしてならなかった。
「・・・」
「考えたことは無かったか? 帝国が幾度となく手を出しては破れてきた呪いの森で、たかが三百人程度の一民族が何故生き残れたのか・・・その答えがこれじゃ」
ウルスラは狼へと視線を移して言い切り、頬杖を解いて立ち上がると高砂を下りて、こちらへと歩み寄る。
「最後に、其方に問おう」
そう言って向けられた視線は、この白銀の狼と同じでどこか悲し気に見えた。
「其方は・・・あまりにも強大な力を前に、何も変わらずにおれるか?」
その問いの言葉は震えていて、これまであった余裕など影も形もなくなっている。
「はぁ、わかったよ・・・っていうか、何でお前が泣きそうな顔してんだよ。これ、全部お前が書いた筋書きだろ?」
「う、うるさい・・・それで、どうなのだ」
「そりゃあおめえ、変わらずにいるなんて無理に決まってんだろ」
「そうか、其方は・・・拒絶するのか」
ウルスラの声から覇気が失われる。
「馬鹿か、んなこと言ってねーだろ」
俯くウルスラの顔を上げさせるために、デコピンを食らわせる。
「い、いきなり何をする!」
「俺達の間にズケズケ入ってきて勝手やらかした奴が俯いてんじゃねえよ。友達辞めねぇでデコピンだけで許してやってんだ、感謝してほしいくらいだぜ」
ウルスラは弾かれた額を両手で押さえ、微かに肩を震わせる。
「いつも族長だからって気を張って、それでもどこか抜けてて、一族全員の幸せは願うのに自分のことは後回し。寂しがり屋のくせして甘えるのが下手くそ、そして食べることが好きな女の子。そこに馬鹿でかい狼になれるって付け加えるだけの話だろ」
俺は狼のその怯えた瞳と目を合わせてその名を呼んだ。
「違うか・・・チノ?」
名を呼ばれた狼は微かに口を開け、一歩また一歩と後退りする。
「俺はお前を受け入れた。お前は俺を拒絶するのか?」
そう問われた白銀の狼は俯き、一度だけ深く呼吸すると覚悟を決めたように顔を上げた。
「カズヒサは、その・・・うちことが怖くなかと?」
「はぁ? 何で怖がる必要があんだよ」
「ばってん・・・! うちは化物ばい?」
「化け物だから何だ? チノはチノだろ?」
チノは息を荒くして、問答を続ける。
「だから何だって、うちは村の皆に畏れられとっとよ? 何でか教えてやろうか? うちは四年前・・・力に飲まれたうちば止めるために、十七人の同胞ば殺してしまったとよ」
瞳から涙が零れ落ちる。
「そん中にはハワルのお父さんも、ゾンのお父さんもお父さんもおった・・・目が覚めた時には皆ボロボロになって・・・死んどらした」
自嘲するかのように乾いた短い笑い声が口から抜ける。そして答えなど分かり切っていると言いたげな声でチノは俺に問うた。
「それでもカズヒサは、うちば畏れんって言うつもりね?」
全てを諦めた、そんな瞳が向けられる。
「あぁ、俺はチノを畏れねえ。あいつらの親父さんが亡くなったのは悲しいことだけどさ、優しいチノのことだからきっと何か訳があるんだろ? でないと、皆が付いていくるわけがねえ」
「それは、うちがこの力ば持っとるけん・・・」
「はぁ、チノには分らねえのかもしんねえけど、それは違うってことぐらい俺にだってはわかるぞ。なぁ、初めて会った時のこと覚えてるか?」
「・・・?」
質問に対してチノは微かに首をかしげる。
「泣いたんだよ。どこぞの誰かとも分からない奴にすがってお前は俺に言ったんだ。一族を助けてってな!」
一歩ずつその距離を縮める。
「本気で一族のことを思って涙を流せる、そんなお前だって知ってるから皆チノに付いて行くんだ」
チノのすぐ傍にまで近づき、腕を上げてチノ鼻先に触れる。
「何度でも言ってやる。どんな姿になろうとも俺はチノを畏れたりしねえ。だから・・・その何だ、これからも俺の傍に居てくれ。良く分かんねえけど、お前が居ない部屋は寒い気がして嫌なんだ」
「・・・よかと?」
「あぁ。こっちからお願いするぜ」
白銀の毛を伝い、大粒の涙が次々に零れ落ちる。
「うち・・・狼ばい?」
「別に狼だって良いじゃねえか。図体デカいくせに小せえこと気にすんな。
「ふふ、そがん事言う人・・・初めてばい」
チノは目を細め、コロコロと喉を鳴らして笑う。
「ようやく笑ったか。そうだ、冬になったらその姿で俺を抱きしめてくれよ。フワフワであったかくて気持ち良さそうだ」
「何ば言い出すかと思えば、一応これでも神様の力やけん、罰当たるかもしれんばい?」
「駄目か?」
「・・・馬鹿やね。カズヒサやぎ、よかに決まっとうろうもん」
チノは頭を下げ、鼻先を摺り寄せる。
「もう泣くな。お前が涙を流す姿は見てて辛いんだ」
「・・・うん」
その時、チノの背中に大きな布が掛けられた。よく見るとそれは窓にかけられていたカーテンだった。
「それで人の姿に戻れるであろう?」
そうウルスラに言われたチノは、何か思うところがあるという表情をしたが、それを飲み込んだといった様子だった。
肺の中にある空気がゆっくり深く吐き出され、巨大な狼の身体は徐々に縮んでいく。最終的には小さく見えたカーテンの中に収まり、人の姿となったチノがその布を纏って立ち上がった。
「助けに来てくれてありがとな、チノ」
「カズヒサは一族の一員ばい。何があってもうちが守る」
「おう、期待してるぜ。それじゃ・・・話を聞かせてもらおうか、ウルスラ?」
名前を呼ばれ、ウルスラは一度頷く。
「うむ・・・まず其方等に謝りたい。すまなかった」
「謝罪なんて要らない。俺はなぜこんなことをしたのかが知りたいんだ。ウルスラはこうなることが分かってやったんだろ。一体何が望みなんだ?」
「確かに、ここまでは妾が描いた計略通りじゃ。望みは一つ、其方らには頼みたい事がある。じゃが、それにはボルテ・チノアという存在をカズヒサが知る必要があった。チノがその身に宿す神の存在を明かしておらぬことは大方見当はついておったからのう。こうする他にボルテ・チノアを顕現させる術が思いつかなかったのじゃ」
ウルスラは毅然とした態度を取り続けるが、その手は微かに震えていた。
「すまぬことをしたと思う。取り返しのつかぬことをした妾が頼みごとができる身でないことぐらい自覚しておる。じゃが、それでも妾は其方達に縋る事しかできぬのだ・・・!」
ウルスラは俯き、目を伏せて歯を食いしばる。そしてウルスラは深くその頭を下げた。
「どうか頼む、其方等の力でこの帝国を救ってはくれぬだろうか・・・!」
肩を震わせる少女の蒼い瞳には涙が溜まり、溢れだした涙は雫となって床へと零れ落ちた。




