第十話【守護神】
日の出前に俺たちは出発した。
荷車を押して坂道を上り終えて荷台に乗り込むと、湖を背にして目的地へと進み始めた。
あの時と違って白い息は出ない。だが、その代わりに汗が額にじんわりと滲んでいる。
この山道を通るのは冬以来だからか、緊張してしまう。あの時は、急がなくては死んでしまう状況であったため、自暴自棄に近い大胆な行動を取ることができた。だが、生活の基盤を作り上げた今、その命の価値が暴騰している。
命など捨てる気でこのカースド大森林に定住したわけだが、何度も死という危機を乗り越えてきた今、一日を重ねていくごとに、繰り返される月の満ち欠けを眺める度に、道端の石ころ同然だった俺たちの命の価値は、少しずつ回復していった。
しかし、緊張しているのは俺だけのようだ。
意外にも皆の表情は硬くなく、談笑なんかしていてリラックスしているようにも見える。
「おいおい、難しい顔してどうしたよカズヒサ?」
思考が顔に出ていたのだろう、ハワルが心配して声をかけてくれた。
「いや、緊張で胃が痛くこわいっちゃてなってな・・・。ていうか、何でお前らはそんな平気そうなんだよ? 怖くねえのか?」
「そりゃあ、怖くなかとやって聞かれるぎ怖かに決まっとうろうもん。ばってん怖かけんがって怯えてもしょうがなかやろ。震える手じゃ弓は引けんしな」
矢を放つジェスチャーをしながら、ハワルはケラケラと笑う。
「そういうもんなのか?」
「そういうもんやろ。そいに、おい達はボルテ・チノア様に守られとっちゃけん、安心してよかぞ」
はっきり言って俺は宗教というものに疎い。
これまでの人生の中で神という存在に本気で祈った経験など、テスト期間中以外にないのだ。
だから、彼らのように神を心より信じる生き方というのを目の当たりにすると、どう答えて良いのかが俺には分からない。
「じゃあ俺も守ってもら・・・まて、そのボルテ・チノア様ってモングール族専門の神様だったりしないよな? 俺だけ仲間外れとかねーよな?」
「はっは! おい達の神様はそがんケチ臭うなかけん、心配せんちゃよかさ。そいにカズヒサはとっくに一族の一員やっけん、守ってくいらすに決まっとうぜ!」
こうも屈託のない笑みを向けられ、力強い言葉を投げかけらると、勧誘を受けて入信してしまう人々の気持ちが分からなくもなかった。
前回は膨大な家畜と団体での移動であったため三日を要したが、今回は少数であるため、目的地までは一日かからないと予想している。
「前に通った時だいぶどかしたけど、やっぱ石が多いな。余裕ができたら道の整備とかした方が良いかもしれねえなぁ・・・」
「うわぁ・・・まーた、やらんぎいかん事の増えたばい」
「おい達はいつになったら休めるとや?」
俺のつぶやいた一言に同乗していた者達から一斉に落胆の声が上がる。
「まぁそう言うなって、道が整備されれば馬の怪我も防げるし移動も早くなる。つまり、納税のために一か月近く村を開ける必要もなくなる。それにもし、今ここで落石なんて降ってきてみろ、頭に当たれば首から上は捥げるし、体に当たれば挽肉だぜ?」
俺の言ったことを想像したのか、皆は一斉に静まり返る。
「今年は無理でも毎年納税月になれば、大勢でここを通るわけだしな。こんなことで誰か死んじまったら悔やんでも悔やみきれないだろ?」
「そいもそうやな・・・」
こうしてまた、一つやるべきことリストに仕事が追加されたのだった。
そんな雑談をしつつ、夕刻頃に目的地である海に到着した。
「ようやく着いたな。あー、尻が痛てぇ・・・とりあえず、今日は崖の上で夜を越そうと思う。夜間はここから砂浜を交代で監視して魔獣が出ないか確認する。だからさっさと順番決めようぜ」
「そいぎ、おいと最初に見張りばしゅうで。月が早う沈む今日は、夜目が効くおい達の方が見張りに向いとる。明日はお前が指示ば出してくれんぎ話にならんけん、さっさと寝た方が良かやろ」
「ハワルの言う通りぞ。カズヒサは早う寝ろ」
ハワルの意見にゾンも同意し、特に断る理由も無かったため、その提案を素直に受けることにした。
「良いのか? じゃあ甘えさせてもらうわ」
簡易式のゲルを建て、順番の割り振りを終えると砂浜の監視を開始した。
煙の臭いで獣が警戒しないよう、火を焚かないため周囲への警戒も怠る事ができない。
そんな事を考えていると、ふと丸くなって寝ているコロ丸の姿が視界に入った。
「呑気な奴め」
腹いせに背中をワシワシと撫でたが、尻尾を軽く振って返事をするだけで相手にされない。
こんな時は何をしても無駄なので構うだけ負けである。
だが、コロ丸のそんな堂々とした姿に安心感を与えられたのは事実だ。
今日の夕食である干し肉を齧り、水筒の水で口に含んで胃に流し込む。
砂浜から目を離し、空を見上げると星々の煌めきが視界いっぱいに広がっていた。
「そういえば、最近まともに星すら見てなかったな」
言葉にしているとは思っていなかった独り言が、話しかけられたと勘違いされてしまったようだ。
「最近ていうかずっと忙しゅうて、毎日ヘロヘロになるまで働いて、家に帰るぎ寝るだけやったもんなぁ」
「ばってん野郎ばっかいで星眺めるとかゾッとすっぜ」
「そうだな・・・」
ハワルの反応から、どうやらモングールには星空は異性と見る風習があるらしい。その辺は日本とあまり変わらないようだった。
「そういやハワル」
「どがんした?」
「ウースとは最近どうだ?」
「ブフォッッ! ゲホッ、ゲホッ!」
水筒に口を付けていたハワルは、思い切り噴出してしまった。
「うわっ、汚ねえなぁ・・・」
「ケホッ・・・あー、いきなりどうしたよ? 」
「いや、あの後に進展あったのかと思ってさ」
ここまでの反応をされると、少しだけイジワルがしたくなった。
「こん間、奇麗か花ん咲いとったけんさ・・・」
「あぁ、それってこの前、山百合に毒があるかどうか聞いてきたやつか?」
ハワルはこっちに顔を向けてコクコクと頷いて続ける。
「そ、そうだ。それを渡したら・・・そのなんだ、受け取ってくれたんだよ!」
「おぉ!」
「そいでそいで?」
普段は、口数の少ないゾンも話に食いついている。
「そがん詰め寄んなって! ったく、ちゃんと見張りばしながら聞けさ」
「悪い、悪い。で、どうなったんだ?」
「そいで今度・・・一緒に星ば見に行く約束ばした!」
「「おぉー!」」
村社会という閉鎖的環境でありながら、食料不足から人口制限をかけられ恋愛自粛状態であるモングールでは、色恋沙汰など滅多にない話題の種であるため、退屈な見張り時間を潰すには持ってこいだった。
月が完全に沈むと一層暗くなった。目を凝らしてもほとんど見えなくなってしまった。それに対して。他の者達は、先ほどの話通り夜目が効く様子である。
西の空に月が沈んでから程無くして交代がやってきたため、砂浜の見張りを交代した。
するひまゲルに入り、水を口に含んでは飲み下すことを数度繰り返して横になると、すぐに睡魔に襲われる。思いのほか移動で体力を消耗していたようで、特にハワルたちと雑談や、何か考え事をする暇もなく俺は寝付くことができたのだった。
***
簡易式のゲルの中で寝息が一つ。それはさっきまで見張りをしていたカズヒサのものだった。
「おいゾン、カズヒサはしっかい寝たや?」
「あぁ、寝とう。こいやぎ簡単には起きんやろ」
カズヒサを挟んで声をかけられたゾンは、その寝顔を見て頷くとハワルにそう答えた。
「そいぎ、おいが合図ば出しに行ってくるけん、先に寝とってよかぞ」
「一人で大丈夫や?」
「大丈夫やろ。ここが獣の縄張りやったとしてもとっく狩られとるか、逃げ出しとるやろう」
「そいもそうやな。そいぎ任せっぞ、おいは眠たかけん甘えさせてもらうわ」
そういってゾンは起こしていた身体を倒し、ハワルに背を向けて横になった。
ハワルはゲルの外に出ると、荷車から革袋と二本の棒を手に取ると、足早に来た道を引き返して緩やかな曲がり角までやってきた。
「この辺で良かか?」
二本の棒につけられた固定具に革袋から取り出した二つ光石をはめ込み、光を発せさせると、それを眼下に広がる森に向けて大きく左右に振るった。
それと同時に突風が吹き付け、思わずハワルは顔を腕で覆う。そして、その目を再び開くと、白銀の毛を風になびかせる、あまりにも巨大な狼が突如現れた。
ボルテ・チノア。それがこの白銀の狼の名前だ。
怪しい紅色の眼光を放つ瞳とは裏腹に、その口元は朱殷に染まっており、微かな血生臭さが鼻腔を擽る。
目の前に対峙している狼の正体を知っていても、なるべく笑顔を取り繕おうと思っていたハワルの顔は既に強張っていた。
「・・・カズヒサはもう寝たと?」
くぐもった低い声。だがそれは確かにチノの声だった。
その声を聞いたことで、いくらかハワルは平常心を取り戻す。
「あぁ、疲れとったちゃろうな、あいはすぐに寝らいたばい」
「そう・・・良かった。そいぎ、うちはもう行くばい。風の結界ば張っとうけん、見張り番も休んで良かよって皆に伝えんしゃいね」
「わかった・・・なぁ、チノ」
身を翻し、崖から飛び降りようとしたチノをハワルは呼び止める。
「・・・?」
巨大な狼は前足から先を曲げてハワルの方に視線を向けると、少しだけ首を傾げた。
「・・・その姿は、いつまでも隠し通せるもんじゃなか。今までは魔物が来ても、おい達で退けることができた。でもそれは、おい達の武器でどがんかできたけんにすぎん。硬か鱗で覆われた飛竜なんてきてみろ、槍も弓も全部弾かれて終わり。そうやろ?」
「・・・」
問いかけに対して狼は顔を伏せて答えない。それでもハワルは続けた。
「チノ、カズヒサはその姿ば見て怖がるごた小さか男じゃなか。ばってん、隠し事ばされとったって知ったとき、カズヒサはおい達の事ば信じれると思うや?」
「・・・ばってん、カズヒサに本当の事ば全部打ち明けて、絶対に受け入れてくれるって言えるね?」
「カズヒサなら・・・」
そこで言葉が詰まってしまった。
それもそうだ。なぜなら、ボルテ・チノアという存在を最も畏れているのは、他でもない、彼らモングール族なのだから。
ゲルで生活していた頃はもちろん、今のチノとカズヒサの住居だって、一族の皆とは一定の距離が開けられている。
「カズヒサと一緒に過ごすごとなって始めの頃は、いつかお別れの日がきて、また一人になる日が来るっちゃろうって思っとった。ばってん、一緒にご飯ば食べて、何ともなか言葉ば交わして、一日が過ぎていくたびに、うちはカズヒサの事ば・・・その、好きになとった」
白銀の狼は、照れくさそうに巨大な尾を左右に振るう。
「きっと、うちは怖かとよ。カズヒサに、ううん、好きになった人に怖がられるとが・・・そうけん、本当の事ば打ち明けて一緒に居られんごとなるくらいなら・・・いつかばれるその日まで、うちはカズヒサと一緒に居りたか」
その答えに、ハワルは複雑そうな顔を見せたが、それ以上の言及はしなかった。
「・・・後悔だけはせんごとな」
その言葉に対し、狼は瞳を閉じて頷くように頭を下げる。
「昔からハワルは優しかね。でも、無理してうちに優しくせんでよかとよ?」
「親父が死んだとはチノのせいじゃなか・・・何度も言わせんな」
その言葉とは裏腹に、ハワルの声に僅かに力が入る。
「・・・そいぎ、うちは行くけん。皆によろしく言うとってね?」
「あぁ・・・」
返事を聞いた狼は、崖から飛び降りて去っていった。
ハワルは、森に消えて見えなくなった後ろ姿を追うように、暗い森を眺め続ける。
爪が食い込む程強く拳を握りしめながら。




