第九話【熊狩り】
腕時計の針は午後四時を指し、尚も時を刻んでいく。
岩熊と初めて対峙し、森に追いやって三時間が経過した。
「もう来たのか。まぁ、日が暮れる前で助かるけどな」
木々が揺れ、その気配と殺気はより濃厚な物へとなっていく。
破壊されたバリケードはそのまま解放されていて、ここに居るのも俺一人だけだった。
「ちがうか。お前も居たなコロ丸」
既に、臨戦態勢に入っているコロ丸は、森に向かって威嚇し続けている。
森を抜け、一歩一歩進む岩熊は、しきりに地面の匂いを嗅いでいる。
当然だ。地面にはこちらへと一直線に進むよう羊の血を撒いている。
肉食獣は、血液中に含まれる成分の香りを好み、興奮作用すらもたらす。
血の匂いで警戒するかとも思ったが、奴が警戒するつもりなら始めから戻っては来ないだろう。
弓の弦を引き、矢を放つ。
矢は放物線を描き、岩熊の肩に命中するがあっけなく弾かれてしまう。
頭を狙ったつもりだったが、まぁ命中するわけがない。
矢に当たったことで、岩熊は顔を上げて頻りに鼻を震わせる。
「コロ丸!」
その名を呼ぶと同時に、コロ丸は岩熊に向かって吼えながら駆け出した。
それと同時に俺は、コロ丸とは反対方向に走る。
「戻れコロ丸!」
目標の位置まで走り抜き、距離を取ってまくし立てるコロ丸を呼び戻す。
疾風の如く駆け抜けるコロ丸とは対照的に、その後方からは重戦車の如き疾走ぷりを見せる岩熊が追いかける。
しかし、遅いわけではない。油断すればコロ丸も捕まってしまうだろう。
目の前に迫る岩熊。その迫力は鬼気迫る物がある。
だが逃げようとは思わない。何故なら―――
「俺達には知恵があるからだ」
人間は獣ではない。追いかけ、逃げるただそれだけを繰り返す自然の食物連鎖とは、一線を引いている。
唸り声をあげる岩熊は巨大な口を開き、牙を剥き出しにして喰らい付こうとする。
「悪いな、人間は弱い。だから臆病で卑屈で······ずる賢こいんだ」
軋む音と同時に割れる地面。立ち昇る水柱。
「本当に作っといて良かったぜ。まぁ、本来の用途とは違うけどな」
水の中でもがく岩熊は、自らが纏う岩の装甲のせいで這い上がれない。
「もうすぐ水が溜まる。卑怯とは言わないでくれよ」
地面に置いていた丸太を手に取り、這い上がろうと伸ばす腕を丸太で叩きつけて打ち払っていく。
流れ込む流水によって、水嵩は増していき、やがて岩熊の背丈を越えた。
そこからより一層強くもがき始めたが、もう既に遅い。
もがけばもがくほど、体内に残された酸素は消耗していき、補給する手段がない岩熊はやがて息絶える。
そして、僅か数分で岩熊は動きを止めてしまった。
「これでニ十分放置すれば確実に死ぬな」
自動車学校に行った時に習ったカーラーの救命曲線では、人間が呼吸停止になって十五分で百パーセント死ぬとなっている。
人間より岩熊は体格も大きく、血液量も多いため長く見積もって四十分程沈めておけば、この熊も命を落とすことだろう。
この作戦を俺一人でやったのは、コロ丸と密な連携が取れるのが俺だけというのもあるし、大人数で岩熊の進路が変わるのも困るからだ。
それに、あまりに囮役が危険で、じわじわと殺すこのやり方が惨いから皆にやらせたくなかったというのもある。
水の中に沈み、今では静かになった岩熊を一瞥する。
「これは熊鍋にしたいな。まぁ、食えるか分からんが」
丸太を下ろし、地面に突き刺していた火石の杖を手に取って天に掲げる。
「あんまり待たせるのも悪いからな······オル・ファイアー!」
そう唱えると同時に発せられる火柱。これは皆に集まって良いという合図だ。
内包する魔力を使い切った火石は、静かに輝きを失った。
炎を放つとすぐに、馬達の蹄が鳴らす地響きが聞こえ、数分後にはここに集まっていた。
「あと半刻は水に沈めておく。解体しながら引き上げるから、皆はその準備をしてくれ」
「あ、あぁ······」
勝利しても、岩熊がこの森に生息しているという事実に彼らは喜べずにいた。
「今回は何も準備をしていなかったから苦戦した。だけど、次からはもっと楽に殺す方法を考えてるから、そんな暗い顔すんなよ皆」
「で、でもよ······」
「でもも糞もあるか。こいつらはまだ良い方だぞ。こいつの大きさから考えて、餌を獲得するために必要な行動範囲はかなり広いはずだ。この付近に何千頭も居る訳じゃねえから心配すんな。それより、よっぽど武器持った人間の方が怖えだろ」
「そ、そうだよな」
「確かに······」
「ったく、いつまでボサっとしてんだ! さっさと道具取りに行ってバリケード直すぞ!」
あまりにも動こうとしないので一声を上げると、水面下の岩熊を見て茫然としてい皆は我に返り、散り散りに動き出した。
「ようやってくれたなカズヒサ」
そう言って歩み寄って来たのはゲレルだった。
「当たり前だろ、砕猪の時は助けて貰ったからな。今度が俺の番だっただけだよ」
「そうか······とりあえず、後始末はおい達がやるけん、休んどってよかぞ」
どこかバツの悪そうな表情に一瞬なった気がするが、考え過ぎだろう。
「いや、調べたいこともあるし手伝うよ。ゲレルはバリケードの復旧の指揮を頼む。俺は岩熊の解体の方に行くからさ」
「おう、じゃあそっちは任せたけんな」
「あぁ、明日は熊鍋だから楽しみにしててくれ」
そう言って、俺達は二手に別れた。
空は橙路に染まり、今日という日の終わりを告げる。
結局、岩の装甲によって難航した岩熊の引き上げと解体は、日の入りまでには終わらず、深夜まで篝火の明かりが灯っていた。




