第四話【生きるための対価】
第四話【生きるための対価】
商店街は多くの人々でごった返しており、立ち並ぶ商店は活気で満ち溢れていた。
店頭で取り扱ってる物も様々で、所狭しと商品が店先に並べられている。
高校時代に世界史で学んだように、商品の種類は少ないのだと思っていたが、やはり帝都ということだけあって、多くの需要があるのだろう。
並べられている商品は多種多様で店ごとに特色があり、バリエーションは豊かだった。
八百屋、肉屋、魚屋、呉服屋、靴屋などが並ぶエリアを抜けると、屋台が立ち並ぶエリアとなり、芳しい料理の香りがより一層強く鼻腔を擽った。
両サイドに立ち並んでいる屋台に、何かめぼしい物が無いか探していると、横を歩いていたチノが俺の袖を引き、数軒先にある屋台を指差した。
「カズヒサ、あれにしよう!」
チノが選んだのは、粉をまぶした鶏肉を、熱した大量の油を入れた鍋で揚げた料理だった。
「お、フライドチキンか、久しぶりに食うな」
「ふらどち······?」
「フライドチキン、俺のいた世界での呼び方だよ」
「カズヒサのおった世界では、揚げ鶏ばそがん呼ぶったいね。ちゃんと覚えとくけん!」
チノは嬉しそうにそう言うと、歩く俺の手を掴んで急かすように目的の屋台まで引っ張った。
そういえば、チノも聞いてこなかったのもあるが、これまで俺がいた世界の事は、ほとんど話したことが無かった気がする。俺がこの世界の事を知りたいと思っているように、チノも俺の事を知りたいのかもしれない。
それに、料理の名前一つでこんな笑顔にできるのなら、ここまで来る間に、俺のいた世界の話題をもう少し出しておけばよかったと若干後悔した。
揚げ鶏屋の店主は、金を払う相手は客として見てくれる人種らしく、不愛想ながらも俺達に商品を売ってくれた。
鶏の骨付きモモ肉を揚げた商品が十二本で、三百コパという値段設定だった。
「なぁ、関所ではシルっていう銀貨貰ったけど、今使ったのは銅貨だよな?」
「うん、そうばってん。それがどがんかしたと?」
「いや、この世界の通貨について俺はまだ全然知らないからさ、コパっていう銅貨何枚でシル一枚の価値になるのかなと思って······」
「なんだ、そんなことね。ちょっとこれば持っとって」
そう言ってチノは、手に持っていた揚げ鶏の入った袋を俺に渡し、財布である革袋の中から、大きさの違う三種類の銅貨を取り出した。
「コパっていうのは三種類の銅貨があって、この小さいのが一コパ。それが十枚集まれば中くらいの十コパ、百枚集まれば一番大きい百コパになるとよ」
「なるほどな······つまり、千コパ集まれば一シルになるってことだな」
「そういうことたい。カズヒサは算学ができるけん察しの良かね。草原育ちのうちは、覚えるまでに何回も騙されたとけ······」
チノは頬を膨らましながら、過去の失敗を思い出している。
「大げさだな。こんなの義務教育を受けてりゃ誰でも······」
「ぎむきょういく······? 何ねそれ? 受けるってことは訓練か何かね?」
心底不思議そうに首を傾げるチノは、手に持つ財布を懐に仕舞いながら問いかけてきた。
「あぁ······説明するのは難しいからな······あとで教えてやるよ」
「うん、楽しみにしとるけん忘れんでよ?」
そう、これはモングールにとって重要な鍵になる。さっきチノが言っていたように、通貨の単位や、その価値をあらかじめ知識として身に付けられてさえいれば、騙されることは無いはずなのだ。
確かに人種という大きな壁はある。だが、それ以前に帝国民との間に存在する大きなハンデとは、この帝国という国の中で作られた文化の中で、生きる術という知恵が彼等には欠如しているという点なのだ。
差別というハンデは残るものの、それさえ教育で補えば、金銭に関しては同じ交渉のテーブルに着くことができ、今よりも遥かに優位に戦える。
「カズヒサ、難しか顔ばしてどがんかしたと?」
その問いかけで我に返った俺は、その声がした方向に顔を向ける。すると、心配そうな表情でこちらを見つめているチノの顔がそこにはあった。
「悪い······少し考え事をしていたんだ。もう大丈夫だ」
「なんか困ったことのあったら言いんしゃいね? うちはカズヒサに助けて貰ってばかりやしさ······」
「何言ってんだよチノ。俺が手助けできたのは関所の時だけだろ? こっちに来てからは世話になりっぱなしだったからな。今度は俺の番さ」
「ううん。うちは、もう何回も助けられとるよ······あっ、もう荷馬車の見えてきたばい、皆がお腹空かせて待っとるけん急ぐよ!」
チノは照れくさそうに顔を伏せ、俺から片方の袋を強引に剥ぎ取ると、荷馬車の方へ走っていった。
先を行く少女の、その小さな身体にかかる重圧など、俺には到底計り知ることはできない。だが、触れてしまえば壊れそうな少女にかけられた呪いを、少しでも軽くすることはできないだろうかと考えずにはいられないのだ。
なぜチノが族長をやっているのかを俺は聞けてはいない。そこは今の俺が立ち入るべきではないと、部外者なりに分別ができているからだ。それに、チノから話してくれないのだから、そういう事なのだろうと勝手に納得してしまっている自分もいる。
だから俺は、俺にできることをやるだけだ。それが命の恩人であるチノのためになるのなら。
新たに決意を固めた俺は、歩調を早めるわけでもなく荷馬車を目指したのだった。
食事を終えた俺達は、天空で輝いている太陽が空の頂点を過ぎた頃に、城壁に設けられた門をくぐり抜け、王宮の敷地内にある納税所に辿り着いた。
立派な外観をしたその建物は、倉庫としても使われているのであろう。全開に開け放たれた大きな扉の向こう側には、薄着をした肉体労働者が忙しなく動き回っているのを見て取れる。
荷馬車を止めると同時に、傍らに取り付けられている普通の扉が開き、中から上等な衣服を身に纏った中年の男が出迎えた。
「これは、これは、モングールの族長殿、お久しゅうございますな。おや、一年前に比べて、よりお美しくなられたようで?」
中年の男は演技染みた態度で、仰々しく挨拶してくるものの、その表情は獲物を見定める蛇のように冷やかな何かを含んでいる。
「フランツ殿、私なんかにその言葉はもったいなかですたい。今日は税を納めに来たですけん、確認ばしてもらえんですやろうか?」
チノも必死に標準語を喋ろうとし、チグハグな言葉で男に答えた。その様子はすでにフランツと呼ばれた男の醸し出す空気に、飲み込まれてしまっているようだった。
「えぇ、もちろんですとも。今、労夫と部下達に品目の確認を行わせますので、私と一緒に中でお茶でもいかがですかな?」
「いや、うちらも荷下ろしば手伝おうと思っとるですけん、そがん気ば使わっさんでください」
「これはこれは、ではお言葉に甘えてもよろしいですかな?」
「はい、任せとってください。荷下ろし場は去年と同じ所でよかですか?」
「もちろん、構いませんよ。それでは、よろしくお願いしますね」
そう言ってフランツは、自分が出てきた扉の方へと歩いて行き、その中に入って行った。
「ふぅ······」
チノはフランツが去ったことを確認すると、既に憔悴した表情で小さな溜息を吐き出し、ガチガチに固まっていた肩から、見ていて分かるほど力が抜けていった。
荷馬車を倉庫の中に進め、壁際の一角にある荷下ろし専用のスペースに止める。それから荷下ろしを開始し、自分たちでも数えやすいように並べて行った。
数字を誤魔化されるというのは日常茶飯事なのだろう。それ故にチノはそれを警戒し、辛い荷下ろしという作業を買って出たのだ。
流石、移動頻度の高いモングールだけあって三台の荷馬車に満載されていた荷物は、三十分足らずで全て下ろされてしまった。
荷を下ろしている最中に、フランツほどではないが身なりの良い二人の男が歩いてきた。そこらで忙しく働きまわる労夫達とは身体付きが違い、どうやら事務仕事専門の者達のようだった。
ここにいる六人の中で数字が分かるであろう、ゲレルとチノは残りの荷下ろしを他の四人に任せ、二人が羊皮紙に筆記していく数字を誤魔化されないように、後ろから睨みを効かせて確認する。
荷を下ろし始めて一時間程経過したところで、事務の二人の確認作業が終了し、フランツの待つ応接室に通された。その際、経験則からか良い話は無いだろうと感じたチノが、血の気の多いゲレルを始め、他の四人に馬車へともどるよう指示を出した。
チノに同行を頼まれた俺は、共にフランツと対面する形で、上等な革で作られたソファに腰かける。
「今年も遠路はるばる納税のためにお越し頂き、感謝を申し上げます」
にこやかに挨拶してきたフランツであったが、言葉が途切れた瞬間に、その瞳が放つ眼光は蛇のような雰囲気に豹変する。
「ところで一つお伺いしたいのですが、部下から受けた集計報告によりますと、あなた方モングールに通達していた納税品の数に対し、納品された物品が大幅に足りていない状況なのです。これは一体どういう事なのでしょうか?」
「足りない······? そ、そんなはずはなかですよ! 一年前に渡された納税品一覧に従って持ってきたですけん······ほら、これば確認してくんしゃい!」
そう言ってチノが取り出したのは、一枚の羊皮紙だった。
しかし、フランツはそれを見たその瞬間、微かに口元を歪め、その次の刹那には酷く残念そうな表情へと変化し、申し訳なさそうに口を開いた。
「あぁ······なるほど、そういう事でしたか······今年この周辺の領地は酷い凶作に悩まされましてね、同じ帝国の地に住まう民である亜人の皆さんの税を、少しだけ上げさせて頂いたんですよ。おそらく、その文書を届けに向かった者は、常に移動をし続けているあなた方を見つけることができなかったんでしょうなぁ······」
演技染みたフランツは口元が歪みそうになったのか、自然な仕草で口を抑えてさらに続けた。
「あなた方モングール族に文書が届いていないのは確かなのでしょう······おそらく、あなた方を探しに行った者はどこかの地で、野垂れ死んでいると考えられます。私も長年この国の貿易の要として国益に協力していただいたモングールの方々を心から信じています。ですが······はたして我等の国王はそれを信じてくれるでしょうか······?」
そこまで話を聞いた俺は、まんまとフランツが仕掛けた、逃げ場が無い策に嵌ったのだと悟った。事態の理解が追いついていないチノは、話の流れ着く先がまだ理解できていないらしい。
「よぉーく、お考え下さい。我等は文書を持った使者をあなた方モングールに派遣しています。しかし、あなたは改定以前の納税品概要書をお持ちになったのです。当然、我が国の使者は帰って来ていない······もうお分かりですよね?」
危機的状況に置かれた事態をようやく理解することができたチノの呼吸は、短く早い息継ぎを繰り返し、その顔色はみるみるうちに青ざめて行く。そして重圧がのしかかる双肩は小刻みに震えていた。
「しかし、あなた方は運が良い。モングールの皆さんは丁度、新天地であるカースド大森林への移動の最中だ。つまり市壁の外にはあなた方の全ての財産が運ばれてきているわけです。そこで、この状況を打破する方法が一つだけあります。それは、不足分を納税することです」
ここまで話を進めたフランツの表情は、既にに笑顔となっている。
「納税さえ済ませてしまえば、我が国の使者は、あなた方に文書を渡した後に死んだのだと、我らの王はお考えになることでしょう。如何でしょうか······ボルテ・チノア族長殿?」
反撃の一手すら無い状況まで追い詰められたチノは、一度静かに長い息を吐き出し、それでも震えている声でフランツに問いかけた。
「ふ······ふ、不足分はいくら······足りんとですか?」
詰みに入ったフランツは意気揚々と口を開き、その問いの答えを述べ始めた。
「そうですねぇ······羊が七百頭、牛が百頭、それと、チーズを荷馬車満載状態で二台と言ったところでしょうか?」
手に持つ羊皮紙を読み、俺達との間に置かれたテーブルの上を滑らせてチノに提示した。
「そ、それはあんまりじゃなかですかっ! 帝国は······うちらに飢え死にしろって言うとですか!」
提示された条件に、チノは思わず抗議の声を上げる。しかし、当然ながらこの交渉とすら呼べないテーブルを支配しているフランツは、顔色一つ変えずにその抗議に返答する。
「まさか、我らの国王は愚王ではありません。我ら帝国は、あなた方モングールが保有している家畜の数を把握しています。羊は四千頭弱 牛は七百頭弱、馬は五百と十二頭と言ったところでしょうか。先ほど納めて頂いた三百頭の羊と合わせて千頭。つまり、たった四分の一をこちらへ渡して頂ければ良いのです」
「た······たった······?」
フランツが放った最後の一言で、その表情からは精気が抜け落ちていく。
「······うちら一族は三百人おる······それでも一年で増やせる羊は、千二百頭しかおらん······」
力なく顔を伏せたチノは、ポツリ、ポツリと語り始める。
「そのうちの九百頭は、どんなに切り詰めても、食べんと生きていけんとよ······それでも、せっかく増えた羊はあんたら帝国が持っていく!」
弱々しかった言葉は、徐々に強まっていき、憔悴していた表情には、新たに憎しみの感情が宿る。
「こがんことされよるけん、うちら一族は好きに子供ば増やすこともできん! 今まで食料を絞り取るために、うちらから生きる尊厳を奪ってきたあんたらは、次は生きる術すら奪うって言うとかっ!」
息を切らし肩を揺らすチノは、余裕の笑みを浮かべているフランツの瞳を睨みつける。
「はぁ······そう言われましても、これは我が国王の決定ですからねぇ。まさか、この条件を飲まないおつもりですか?」
「それば飲むぎ、うちら一族は飢えで滅んでしまう······だけん、そがん条件ば飲むことはできん!」
予想通りの返答だったのだろう。フランツは演技染みた困惑の表情を浮かべている。
「それは困りましたねぇ······このままでは、外で待つあなたのお仲間に帝国軍を差し向けねばならなくなります。同じ帝国の民であるモングールに刃を向けるのはとても辛いことだ······」
「よくも、白々しかことばペラペラと······」
チノは歯を食いしばり、その灰色の瞳は徐々に紅く染まっていく。
「我ら帝国は、あなた方に新しい土地まで手配したというのに······交渉は決裂という訳ですね······残念です」
「やってみんしゃい······あんたらには、うちがボルテ・チノアと呼ばれよる意味ば教えてやるけん······!」
見たことも無い、チノの激昂した表情。
俺は二人のやり取りをただ傍観し、チノにこんな表情をさせてしまった。
「そういうことか······」
だが、その代償に払ったおかげで、俺はフランツの狙いをどうにか読むことができた。
もう、これ以上はチノに任せておくと取り返しのつかないことになるのは明白だった。
「良いだろう、その条件を飲もう」
ここまで会話に参加して居なかった俺が、突然発言したことによって部屋の中は沈黙に包まれた。
「······どうして······どうしてさカズヒサ?」
紅く輝いていた瞳は灰色に戻り、絶望に塗りつぶされたような表情で、チノは俺を見つめている。
心が締め付けられる。俺が選べる最善の選択は、チノをこんな表情にしかできないのだから。
始めからフランツはもちろん、帝国すらも、モングールのカースド大森林への移住が成功するとは考えていない。
帝都に来る途中の麦畑を見て、どう足掻こうと数年置きに凶作に見舞われるのは予測できていた。
結局のところ凶作に見舞われた帝国の狙いは、モングールが所有する食糧なのだ。
モングールがこの条件を飲まなければ大量の食糧を巻き上げることができ、条件を飲まれたとしても未開拓の土地を、飢えて死ぬまで耕させることができる。
その後に農業経験のある正規の帝国民を住まわせれば、更なる収益を見込めるのだから、フランツは内心笑いが止まらないだろう。
俺は命を救ってくれたチノを守ると誓った。つまり、ここで俺が取るべき行動はたった一つしかない。
「座れチノ! お前ら獣人風情が、純粋な人間様に失礼な態度をとるんじゃない! 」
「ひっ······」
その目を溺れさせる涙によって、ゆっくりとチノの瞳から光が消えいく。
力を失った両足は折れ、ソファに座りこんだチノは両手で顔を覆い、子供のように声を押し殺して静かに泣き始めた。
自分が放った言葉の意味を考えると、既に心は折れそうだった。
それでも、こうでもしてチノを止めなければ確実にモングールは滅ぼされてしまうだろう。それだけはチノのためにも絶対に阻止しなければならない。
「すみませんね、うちの族長が取り乱してしまいまして······」
「いえいえ、モングールの存亡がかかっているのですから仕方がありませんよ。しかし、あなたは純粋な人のようですが何故モングールの族長と一緒に?」
「それが、盗賊か何かに襲われて行き倒れているところを助けられましてね······その際に頭を強く打ったのか、以前の記憶を失ってしまったのです。今は助けて貰った恩を返すために、彼らの仕事の手伝いをしているんですよ」
「それは災難でしたな。何か思い出されたら、元の領地に帰れるようお手伝いしますよ」
「本当ですか? それは助かります。その時が来たら、どうかよろしくお願い致します」
掴みは悪くないはずだ。散々訛りが強いチノと会話した後に話すことで、俺の標準語の印象は強くなっているはず。
「ところで、先ほどは族長殿を酷く罵ってらした様子でしたが······?」
「お見苦しい所をすみません、僕にも良く分からないのですが、チノの態度を見ていたら無性に腹が立ちまして······」
「なるほど······どうやら記憶を失う前のあなたは、さぞ立派な帝国民だったようですねぇ」
分からない言葉があった時の、通訳のために雇われた人間程度にしか思っていなかった俺に対し、今の質問を投げかけたフランツからは、強い警戒心が伺えた。
「さて、あなたはモングールの族長を差し置いて、帝国が提示した条件を飲むと発言されましたが、これはどういった意味があるのですかな?」
これでも、フランツはさぞ我慢したのだろう。一番聞きたかった話の核心にようやく触れて来たその顔は、様々な疑念が心中で渦巻いているのが見て取れた。
「そのままの意味ですよ。生憎、今の僕は身寄りがありませんからね。残念ながら頼れるのはこの少女が率いるモングールの民だけなんですよ。それに、チノは僕に受けた恩がありましてね、モングールの掟には恩人の言う事を一つ、必ず実行するという物があるんです。だから、それを使わせて貰ったんですよ」
こんなもの、口からのでまかせでしかない。しかし、家畜の数を知っていようと、言葉すら嫌う帝国の人間が、興味も無いモングールの風習など知る由も無いはずだ。
「ここでモングールが滅びると、僕はの垂れ死ぬしかありませんからね。それだけは回避したい訳です」
「なるほど、そういう訳があったのですな」
ハッタリだと気が付かなかった様子のフランツは、納得したように頷いて、再度、口を開こうとしていた。
しかし、俺はそれをあえて遮った。
「フランツ殿、もう腹の探り合いはやめにしませんか?」
突然の申し出に面食らったのか、フランツは一瞬目を見開き、即座に鋭い眼光となって聞き返す。
「はて、腹の探り合いとは、何のことですかな?」
「御冗談を······どちらに転ぼうと構わない······こう言えば、お分かりになりますか?」
俺の答えにフランツは顔を伏せて、クツクツと不気味に笑う。そして、その笑みを浮かべたまま頭を上げ、俺と正面から顔を合わせた。
「どうやら警戒すべきはあなたの方だったようだ······」
「僕は警戒が必要なほど大層な人間じゃない。ただ、生きるために交渉がしたい······それだけの話ですよ」
「ふふっ、良いでしょう。ただし、既に提示した条件に温情を求めることは認めませんので悪しからず」
「もちろんですよ」
こんな策略を用意したフランツは読み通り、どこまでも利益を追求するタイプの人間だった。それを読んだからこそ、俺は交渉という名のテーブルを無理やり用意することができたのだ。
「僕達はこれから、カースド大森林を開拓しなければなりません」
「もちろん、それは存じ上げていますよ」
「開拓をしていくにあたって、牛は最も重要な道具となります。それを税として取られてしまうのは些か困りましてね······」
「つまり、税として納めるべき牛を免除してくれと?」
「そうではありませんよ。これは交渉ですからね、何かを得ようとするには、他の何かを代償として差し出さなければなりません」
「ほう······よくお分かりでのようで。それで、あなたが望む条件とは?」
フランツは両手を組み、両膝の上に肘を置いて口元に手の甲を当てる。
どうせ、俺が出す提案を聞いて、その反応を悟られないようにするのが目的なのだろう。どこまでも食えない人間というのは、こういう男を指すのだろうと考えながら俺は新たな条件を述べた。
「牛百頭の代わりに、新たに羊を三百頭増やすというのはいかがでしょうか?」
「何を言い出すかと思えば······期待外れも良い所ですね。あなたは、牛と羊の価値の違いがお分かりになっていないのでは?」
フランツは溜息交じりにそう答え、先程までのギラギラした瞳は、乞食を見るような眼差しに変わっていた。だが、これはまだ想定の範囲内であり、寧ろ俺が狙って作り出した展開だった。
「果たして本当にそうでしょうか?」
「・・・・・どういうですかな?」
俺の思わせぶりな言葉に、フランツは怪訝そうな表情で聞き返す。
「包み隠さず言ってしまえば、帝国の狙いは未開拓の地であるカースド大森林が開拓される······ということですよね?」
「あなたは······何が言いたいのかね?」
「おや、言わないと分かりませんか? さっきから僕は、こう言っているんですよ。流浪の民であるモングールがカースド大森林で定住できると、帝国が本気で考えてるようには思えないってね」
今の俺の発言を皮切りに、フランツの瞳には再びギラギラとした光が宿り始める。
「今の発言は、帝国への批判と受け取っても構わないのですかな?」
「まさか、今の僕の発言は帝国を思ってこその物ですよ」
「どういう意味ですかな?」
フランツの表情から微かな苛立ちを感じ取り、この交渉の流れは俺の手が掴み始めていると確信した。
「今現在、帝国は酷い凶作に悩まされている。そこでモングールにカースド大森林を切り開かせようって訳だ。そこまでは素晴らしい考えだと僕も思います。ただ、そこで重要になってくるのは、いかにモングールの民に森を開拓させて、最終的に残った収益を獲得するかという点のはずです」
「つまり?」
「牛を取ってしまうと、帝国が新たに得られる農地は大きく減少し、モングールは貴重な食料を無駄に消費するだけ······つまり効率が悪いのです」
「なるほど······確かにその通りだ。しかし、今の話をモングールの族長が聞いてしまっている。その点はどうするのですかな?」
「どうする必要もありませんよ。見ての通りこの者はまだ年端も行かぬ少女です。先ほどは大口を叩いていましたが、仲間の死が直面している今、定住に成功するという僅かな希望に縋りつくほかに選択は無いはずですから」
自分でも吐き気がする答え。それは紛れも無い事実であり、最もチノに聞かせたくない言葉だった。
「素晴らしい。あなたの考えは無駄がなく洗練されている」
まんまと俺の口車に乗ったフランツの口の両端は、みっともなく上へと釣り上がっている。
「いえ、帝国の策略も素晴らしいものでした······ですが時期が悪い」
「ほう······と、言いますと?」
「もし、城壁の外に居るモングールを皆殺しにでもしてみてください。馬に長けた民族であるモングールを完全に根絶やしにするのは恐らく不可能でしょう。その生き残りが、次はどのような行動に出るかお分かりになりますか?」
その問いかけにフランツは深く考え込み、中々返答が帰ってこなかった。そして十数秒ほど考えた後、ひらめいた表情で顔を上げ答え始める。
「······なるほど、他の亜人族の元へ駆け込み、助けを求めるわけですな」
「その通り、帝国がモングールを滅ぼしたという情報は瞬く間に亜人族の間に知れ渡るでしょう。おそらく、亜人族の中には滅ぼされる前に戦いを挑む者も出てくるはずです。その亜人族に触発された他の部族達も、共に戦う事を望むでしょうね。しかし、今の帝国には食料が足りない······つまり兵糧が持たないのです」
俺が話す内容に、フランツの顔は完全に引き攣ってしまっていた。だが、これぐらいの釘を刺しておかなければ、次はいつ軍を差し向けてモングールを滅ぼさんとするか分かったもんじゃない。
「······今のあなたの話は、大変参考になりました」
「それは良かった。僕は家族がいるかもしれない帝国の繁栄を切に願ってますからね」
「しかし、私としましても上からの命があります。牛百頭を羊三百五十頭で免除したと知れれば、私の首が飛びかねません」
そう来ることは想定の範囲内だ。だから俺は、予め牛の対価としての羊の頭数を少なめに提示していたのだ。
俺はフランツに習って困った表情を作り出して質問する。
「では······羊はあと、どれくらい必要なのですか?」
「そうですねぇ、牛百頭ですから······最低でも五百は必要かと」
流石、一国の財布の一端を預かっているだけあって、俺の話を踏まえた上で際どい数字を出してくる。
「三百九十」
「四百八十です」
「四百」
「駄目です四百七十」
「四百十五」
「いえ、四百五十」
「四百三十······これでどうでしょうかフランツ殿?」
少し早い気もしたが、ここで交渉の余地が無いことを先に示し、フランツの出方を見る。
「······良いでしょう。ただし条件があります」
「条件とは?」
「モングールが定住に失敗した場合、あなたには私と共に働いて頂きたい」
突然の申し入れに面を食らったが、それはすぐに怒りの感情が沸き起こる。
俺をどう評価したのかは興味はない。ただ許せないのは、フランツがモングールが滅ぶことを前提にして俺に条件を突きつけて来たことだった。
だが、俺は今、帝国の発展を願う帝国民として話しているのだから。ここで断れば全てが水の泡になる。
「良いでしょう······それでは四百三十頭で構いませんね?」
「えぇ、その条件で飲みましょう」
フランツは交渉が纏まって安堵したのか、溜息を吐きながら立ち上がり、部屋の奥にある作業机に移ると、机上に置かれていた羽ペンを手に取って、羊皮紙に何かを記入して印を押した。
「これが新たな納税の取り決め文書になります。お受け取りください」
戻ってきたフランツは、何が書いてあるのか読めない文字で記入された羊皮紙を、テーブルの上を滑らせて俺に渡してきた。
「確かに······では引き渡しは明日の昼頃には済ませます。それが終了次第、カースド大森林までの案内人と引き合わせて頂けますか?」
この世界の文字が読めないことを悟られないようにするため、俺は確認する素振りを見せながら羊皮紙を受け取り、話題を逸らすためにチノが言っていた案内人についての質問を投げかけた。
「もちろんです。案内人の手配は済ませておきますのでご安心ください。では、明日の昼にまたここでお会いしましょう」
「分かりました。今日はご無礼と無理を言って申し訳ありませんでした」
「いえ、有益な情報を頂きましたので、それは水に流しましょう」
フランツはそう言って笑うと、右手を差し出して来た。
「今日は有益な時間を過ごせました。このような肝を冷やした交渉事は、他国との貿易を任されていた頃でも、そう多くはありませんでしたよ。あなたがそんなところで燻ぶっているのは帝国にとって大きな損失でしょうな」
「僕には勿体ないお言葉です」
俺は躊躇う事無く、その良く脂が乗っている掌を握り返す。
平静を装っているものの、既に俺の腸は煮えくり返っており、強く握り締めないようにするのは酷く精神が消耗した。
「では、族長がこの状態ですし······今日の所はこれで失礼させていただきます」
羊皮紙をチノが持ってきていた木箱の中に納めて懐にしまい、未だに顔を手で覆って震えているチノを無理やり背中に抱えて立ち上がった。
「ではまた明日、お待ちしてますよ」
「はい、では僕達はこれで······」
一刻も早くこの空間から出たかった俺は、フランツの見送りの言葉に短く返事をして部屋を後にした。
泣いているチノを背負ってきた俺を見て、真っ先にゲレルが俺に掴みかかって来た。
「答えろ小僧! これはどういうことや!」
「増税だよ······従わねえと皆殺しだそうだ。それでチノが役人に食ってかかりそうだったから無理矢理に止めた。泣いてるのは俺のせいだ」
「ちっ······詳しか話は後で聞くたい。お前らの荷馬車はおいが動かすけん、荷台にチノと一緒に早う乗れっ!」
胸倉から手を離したゲレルは、深刻な面持ちでそう言うと、俺の返事も聞かずに馬車の方へと不機嫌そうに歩いて行った。
「······・・・・・」
チノと一緒に空になった荷台に乗り込むと、荷馬車はゆっくりと動き始めた。日はすでに沈み、城壁の外の道はどこも仕事を終えた人々が騒がしく行き交っている。
数十分ほどで俺達は、閉まる寸前だった関所を抜け市壁の外へと出ることができた。
その間チノはずっと両膝を抱えて座り、顔を伏せ続けていた。もちろん会話は一度も成立していないし、俺も話しかける気にはなれなかった。
あの時、俺は他の言葉でチノを止めることはできなかったのだろうか、もっと交渉の余地はなかったのだろうか、と頭の中で何度も自問自答が繰り返される。しかし、何度答えを導き出したところでそれ以上の最善の回答は出てこないのだ。
あの状況を納めるには、チノを完全に黙らせる必要があった。黙らせるには酷い言葉をぶつけるしかなかった。フランツと交渉するには俺が帝国寄りの人間であると思わせる他なかった。チノを守るためにはあの条件を飲む他なかった。
だけど、その選択の全てが、この華奢な少女を傷つけると理解していた。それを知っていながら、俺はその結果を選んだのだ。
この少女は、今の俺をどう思っているのだろうか。そう思う度に、酷く胸が締め付けられていく。
しかし、隣で震えている少女を、抱きしめる資格なんて俺にはもう無い。
なぜなら、初めてチノと出会ったあの夜のように、その震える身体を抱きしめる勇気を、俺は自ら投げ捨ててしまったのだから。