第四話【ゆびきりげんまん】
家に帰ると、チノがお湯を沸かして待っていてくれた。
「おかえり、カズヒサ。今日も疲れたやろ? うちが夕飯の準備ばしよる間にそっちの部屋で身体ば拭いて、さっぱりしんしゃい」
疲労の色が見える目元。それを隠すようにチノは笑ってみせた。
自分も酷く疲れているくせに、いつも俺を労って、何事も優先してくれる。
その理由も俺は理解している。俺が突然いなくなってしまうのではないかと、気丈に振舞う少女は不安で仕方ないのだ。
だからこそ、少しでもここが居心地の良い場所であるように尽くそうとする。
この家に引っ越した最初の夜。俺はモングール族の皆を見捨てないと約束したはずなのに。
それでもきっと、チノは恐ろしいのだろう。
信じていないわけではない。だがそれは単なる口約束でしかない。チノやゲレル達と違って、この地に俺を縛り付ける物が一切ないのだから。
勝手な想像になるが、チノから見た俺は、開け放たれた鳥籠の中に居る鳥なんだと思う。
このままでは、チノの心は擦り切れてしまうかもしれない。
チノは俺を労ってくれる。他の者は家族が労ってくれる。ならばチノ誰が?
そう考えた時、料理を始めようとしていたチノの手を掴んでいた。
「今日は俺が飯を作るから、先に身体を拭いて休んだらどうだ?」
「えっ? いきなり、どがんしたと?」
キョトンとした表情でチノは俺に問いかける。
「もう何か月一緒に居ると思ってんだ? 流石にチノが疲れていることくらい分かるようになるさ。だから、今日は俺が作るから寛いでろよ」
「えっと、その、うち、そがん疲れとらんけん大丈夫ばい?」
チノは竈の前から動くまいと、俺の手を振りほどこうとするが、筋力差のせいでそれは叶わなかったようだ。
「美味い飯作ってやっから今日は休め······な?」
「うん······ありがと」
不服そうではありながらも、俺が引かないと察した様子で返事をすると、目を逸らすようにして顔を背け、チノは土間から部屋の中へと入って扉を閉めた。
これから身体を拭くのだろう。俺は足りない材料を集めに外に出る事にした。
食料庫からは、僅かに残ったオリーブ油と小麦粉を拝借することにした。量も微量だったため、帳簿には記載されてはいない。
それらを手に家へと戻り、早速調理に取り掛かる。
食糧として残していた白芋と一緒に、羊の干し肉を茹で戻す。そして、肉をオリーブオイルで薄く焦げ目が付く程度に焼き目を入れる。
茹でて柔らかくなった白芋を、羊肉が入っている平たい鍋の中に入れて小麦を振りかける。
火を弱めて具と小麦粉をよく混ぜ合わせ、強い粘り気が出たら牛の乳で伸ばしていく
その際にチーズを加え、塩で味を調えれば完成となる。
具材の種類も少ない上、胡椒も無いため、出来上がったのは何とも味気ないシチューだった。
「人参と、玉葱と、蕪が欲しいな······うし、決めた。今年の冬は絶対に植えよう」
激しく自分勝手な決定を下し、扉をノックしてチノに声をかける。
「飯できたけど、入って良いか?」
しかし、待てども返事は返ってこない。
何度かノックと声掛けを繰り返したが、返答の気配が無かったため、そっと扉を開けて中の様子を窺い見る。すると、寝巻に着替えたチノが、ベットの上で可愛らしい寝息を立てて眠っていた。
「何だ、寝てたのか」
俺は使ったまま放置されている桶と手拭いを後片付けを済ませ、気持ちよさそうに眠るチノの細い肩を、心を鬼にして揺する。
「ん······ごめん、寝とった」
目を擦りながら身体を起こすチノ。緩やかに肩から流れ堕ちる髪は、微かに湿っていた。
「寝てんのに悪いな。飯ができたから起きてくれ」
「ううん、ありがとう。そいぎ桶ば片付けんぎいかんね」
「それなら俺が片付けたぞ。手拭いも洗って干しといたから気にしなくて良い」
「えっ?」
俺の返答を聞いた瞬間、チノの髪が逆立ったのかのように微かに膨らみ、茹でダコのように頬が赤く染まると、手元にあった毛布で顔を隠した。
「やっぱりさ······自分の身体ば拭いたものやけん······カズヒサに片付けられるぎ、その······恥ずかしかばい······」
まぁ、そうなるようなぁ。と、疲労のせいで、チノに言われて初めて気が付く程に、配慮ができなくなっている自分を笑いそうになる。
そういえば、洗濯の時に出されていた妹の洋服や下着を、一緒に洗った時に怒られた事があった。
普段のチノは、使ったものをすぐ片付ける事ができる子だ。
口調には気を付けていたつもりだが、飯を作ると言った時の俺の声色が少し怖くなっていたかもしれない。
だからチノは、俺が居る土間に行きづらくて、桶を片付ける事ができなかったのだ。
「そうだよな、ごめん。今度からは気を付けるよ」
「ううん······すぐに片付けんやったうちが悪かけん」
項垂れながら言葉を紡ぐチノの姿は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
これ以上この話題に居続けるのは不味いと感じた俺は、空気が読めていないと自覚しながらも、食事ができた事をチノに伝えて、テーブルの上に食事を並べる。
シチューと、小麦粉の余りで作った無発酵パン。それが今夜の俺達の夕食だった。
「あんまり、パッとしないけど食べてくれ」
「すごかねぇ。帝国ん者が作る料理んごたたい」
「そうか? それより、冷める前に食っちまおうぜ」
「うん。そいぎ、頂きます」
俺の言葉に一度だけ頷いたチノは、一度会釈しながらそう言うと、手に取った匙でシチューを掬って口へと運んだ。
「美味しかねえ······こがんと、うちには作れんばい」
震える声。その瞳からは涙が零れ落ちる。
「え、ちょ、どうしたんだよ?」
「だって······カズヒサが作るご飯······美味しかっちゃもん」
両目をゴシゴシと擦る少女は、涙声になりながら答えた。
「そんな、泣くほど美味しいもんじゃねえだろ」
「泣くくさん······うちは、こがん美味しかご飯ば作りきらん。そがんなっぎ······うちがカズヒサにしてやれる事なんて、何もなかやんっ······!」
そんなことは当然だった。何故なら、生肉が手に入らないから。
現在のモングール族の食糧事情は芳しくない。
家畜に食べさせるために頭数を減らした結果、屠殺した羊たちの肉は長期保存のため、干し肉に加工されている。
ここに来るまでの間は、少なくはあったが料理の幅はあった。
元々、モングールの食事は肉と乳が中心。かつて貿易を扱っていた頃に使用していた香辛料が底を付いた今、生肉が無くては料理のレパートリーなど無いに等しい。
もちろん、こうなることは予想できていたし、不満も無く理解もしている。
だが、チノはそれを俺に食べさせるのが我慢ならなかったのだろう。
知恵を絞り、少しでも美味しく食べられるようにと、チノは食事を作ってくれていた。それでも似通った食事しか作れない状況。
それなのに、俺が普段食べないような食事を作ったことで、チノのプライドを傷つけてしまったのだと理解する。
「はぁ······そんなこと気にしてたのか?」
「そんなことって!」
俺の反応に、本気で悩んでいるチノは声を荒げるも、前に乗り出して来たチノに掌を出して黙らせる。
「はぁ······俺が疲れ切って、食欲が湧かない時は、食べやすいように細かく肉を切って、蒸かして潰した芋の中に混ぜて出してくれたよな。それでも食えない時は、身体が冷えないように羊の出汁が利いたスープを作ってくれた」
チノは依然として俯いて黙っている。
「料理ってのはさ、味や、見た目や、種類なんかよりも、食べる相手の事を思う気持ちが大切なんじゃないかって俺は思う。どんなに美味い料理を作ったって、食欲や、食べる体力も気力も無い時はどうしたって食べれない」
髪の走行にそって優しく頭を撫で、俯いたチノに顔を上げるように促す。
「知らない事をやるのってすごく難しい事なんだよ。料理もだし、文字だってそうだ。この世界の文字をチノに教えて貰えなかったら、俺は読み書きを覚える事もできなかった」
顔を上げたチノの潤んだ瞳と目が合う。
「知らないことは、教えて貰えば良いんだよ。俺が知ってる料理ならチノに教えてやれる。料理が上手いチノのことだ、工夫すれば俺より美味い飯が作れるさ」
「······本当に?」
チノは手の甲で強めに涙を拭い問いかける。
「あぁ、本当だ。俺は家庭科の成績が二だったからな。保証するよ」
「家庭科? 成績蟹?」
「あー、そこは気にしなくて良い」
微かに首を傾げるチノから、目を逸らして言葉を濁す。
「まぁ、その、何だ。何度も言ってるけどさ、俺はチノに助けられた。だから俺が今やってることに恩を感じたりする必要はないんだ」
「でも······」
口を開きかけたチノを遮るように言葉を続ける。
「ギブアンドテイク。俺の元居た世界の言葉だ。もっとも、俺の国の言葉じゃないけどな」
「ぎぶあどてく?」
「ギブアンドテイク。お互い様って意味だ。チノは、俺が困っている時に助けてくれた。だから今、困っているチノを俺が助けるよ。だから、もう泣くなよ」
「······うん」
小指を差し出すと、チノはキョトンとした顔をこちらに向ける。
「同じように小指を出してくれ」
良く分からないという表情だが、言われた通りに小指が出される。
俺は自分の小指をチノの小指を強引に結ぶ。
「これは俺の生まれた国で、最も固い約束の結び方だ。約束を破ったら酷い罰が与えられる事になる」
「え、呪い?」
真剣な表情で聞いてきたので、きっとこの世界にも呪いの概念があるのだろう。いや、魔法があるのだからマジな奴があるのか?
「違う違う、覚悟を決めるだけだよ。俺の国では普通、約束を破ったら、小指を切って、一万回拳で殴られて、裁縫針を千本を飲み込むだったな」
「そこまでせんでも······そがんことしたら、死ぬばい?」
流石のチノも日本の制裁には呆れた様子······いや若干、引いていた。
「そう、だから絶対に約束を破らないだろ?」
「う、うん······」
依然として真剣な面持ちであるため、ここはアレンジを加えてみるとしよう。
「じゃあ、針千本はやめにして、モングール風にしよう。そうだ、よく悪戯なチビッ子たちに言ってるのがあるだろ? どこに逃げても隠れても、鼻が良いボルテ・チノア様が見つけ出して食べてしまうって話」
「うちはカズヒサば食べたりせんし、食べさせん!」
俺に案に血相を変えたチノが反論してきたため、誤解だと説明する。
「食べるのはチノの方じゃなくて守り神のボルテ・チノアだって。白い狼の方だよ」
「そ、そうばってん······」
どこか不服そうなチノ。まぁ、取り合えず小指も痺れてきたので早く終わらせるとしよう。
「モングールの皆が農業で食べていけるようになるまで、俺はチノの傍に居る」
「······うん」
「約束だ。指切り拳万嘘ついたら······ボルテ・チノアに食われる。指切った」
敢て言葉をリズムには乗せず、普通の口調で淡々と文言を言い終え、指を離した。
「これで約束は結ばれた。もしも俺が、皆にちゃんと農業を教えずに出て行ったら、ボルテ・チノアに食われる」
「······うちは、そがんことせんもん」
「おいおい、まだ言ってんのかよ······」
どこか不貞腐れた様子のチノさん。卓上の食事に目を向けると、先程まで昇っていた湯気は消え去っていた。
「温くなってんな。さっさと食っちまおうぜ?」
「うん。ごめん、カズヒサ、せっかく作ってくれたとけ」
「いや、チノが悩んでいることに気が付かなかった俺も悪いさ。さっき言ったろ、お互い様だって」
「······ありがとね」
チノは匙でシチューを掬い、口へと運ぶ。
「美味しかぁ······こいは、作り方ばちゃんと教えて貰わんぎいかんねぇ」
「ちゃんと材料が揃えば教えてやるよ」
「約束ばい?」
そう言って、小さな小指が差し出される。
「ゆびきり」
赤く腫れた瞳で、はにかむ少女。
俺は笑いそうになるのを堪えて。小指どうしを絡める。
それを見た少女は、嬉しそうな笑顔で言った。
「ゆびきりげんまん」




