第二話【ボルテ・チノア】
第二話【ボルテ・チノア】
結局、俺の腕の中にいた狼の耳を持つ少女は、泣き疲れたのか、いつの間にか眠ってしまっていた。
「初対面の相手に、警戒心無さすぎだろ······ったく······」
しかし、少女の警戒心が弱い訳ではない。むしろ強い方だと俺は思う。
少女がこうして身を預けているのもひとえに、俺という存在が少女の先祖達が言い伝えてきた【稀人】という存在と合致するからだった。
このままでは埒が明かないと思った俺は、眠っている少女を抱きかかえ、建物の中にあるベットの上に眠らせたのだった。
少女が起きるまで手持ち無沙汰ということもあり、少女の家の周辺を散策してみる。
外に出て建物を見ると、やはり元の世界のモンゴル人が使うゲルという住居に酷似していた。
その傍らでは、長い木の棒で作られた簡易な物干しに、俺の服が干されていることに気が付く。
毛皮のコート一枚では心もとないと感じた俺は、既に乾いている下着とTシャツとズボンを手に取り、長靴を履いた。
雨合羽は必要無いため、折り畳んでその場に放置し、家の裏手に回ることにした。
「何だこいつ? ウシ······なのか?」
家の裏には柵があり、その中には羊のような風貌をした、毛むくじゃらな牛の姿があった。
『モォー』
「あ、牛だなこいつ」
泣き方は確かに牛、数は少ないがちらほらと角の生えた個体も存在した。その隣にある小さめの柵の中には数頭の馬が入れられている。
「ん······?」
その馬達の中に、月明りに照らされて輝く白い塊を見つけたため、目を凝らして凝視する。
「コロ丸······なのか?」
俺の呟きに、その白い塊は耳をピンと立て、細長い顔を此方へと向けられる。
『ワン!』
白い塊はスクリと立ち上がり、聞き慣れた鳴き声を上げると一直線にこちらへと走り出した。
「うおっ!」
コロ丸は高い柵を軽々と跳び越え、俺目がけてダイブをかましてきたのだった。
「お前もこっちに来てたんだな······っておい、舐め過ぎだっての! お座り!」
馬乗りになって顔を舐め続けるコロ丸を制止し、傍らに座らせる。
「いやぁ、まさか一緒に来てたとはな······だが、お前が居れば百人力だ。頼りにしてるぜ、コロ丸?」
尻尾を振りながら息を荒くするコロ丸の頭を一頻り撫でて、柵の中に戻したコロ丸に、ここで待機するように命じた。
「他は特に何もねえな。戻るか」
空は微かに白み始め、夜明けが近いことを示していた。
ゲルの中に戻った俺は用水路に落ちた際に、持っいた懐中電灯とスマートフォンが簡易的な台の上に置かれていることに気が付いた。
「おぉ! 壊れてねえ! あぁ······やっぱり圏外だよな······」
防水仕様だったため壊れてはいなかったが、電波のアンテナは立っておらず圏外と表示されたままだ。
使えないことは分かったため、電源を落としてポケットに入れる。
「懐中電灯は······生きてるな。まぁ、何かの役には立つだろ。あとは······」
最後に手に取ったのは、亡くなった祖母さんからもらったお守りだった。
「用水路に落ちた件は不問にしてやる······だから、次はちゃんと守ってくれよ?」
祈るように赤い布袋を握り締め、革紐を首に通して胸元に仕舞い込んだ。
「ん······んぅ······」
それと同時に、背後から悩ましい声が聞こえてくる。
目を覚ましたようなので、寝ぼけ眼の少女の前に立って声をかける。
「もう大丈夫なのか?」
「良かったぁ······夢じゃなかったとね。うち、目を開けるのが怖かったけん、声ばかけてくれて助かったばい」
少女は目をこすりながら、俺の方を見てクスリと笑った。
「その恰好······うち達の草原はどがんやった?」
「すっげえ綺麗だったよ。ただ、畑にするには骨が折れそうだけどな」
「そうやろう、だからうち達は家畜を育てよっとよ」
少女はベットから起き上がり、座った状態で神妙な面持ちでこちらを見つめる。
「あんたに、モングール一族の長、ボルテ・チノアとして頼みがある」
「どうしたんだ、いきなり?」
少女は一度だけ頷き、固く結ばれていた口を開き話し始めた。
「昨日、うちが泣いたこと······一族の皆に言わんでくれん? うち、一応族長やけん、皆が心配すると思うけんさ······」
頬を赤らめ、真剣な表情で頼んでくる少女の姿に、思わず吹き出してしまう。
「はっははっ、そんなこと心配してたのか。安心しろ、お前が俺に抱かれて泣いただなんて誰にも言ったりしねえからさ」
「わ、笑わんでさ! それに何か言い方が厭らしかっ! もう、お願いするこっちも恥ずかしかとよ······?」
頬を膨らませて抗議する少女には、族長という雰囲気や威厳といった物を欠片も感じることは無く、ただの女の子にしか見えなかった。
「それに私の名前は、お前じゃなか。誇り高きボルテ・チノアっていう名前ば持っとるとよ!」
「ボル······何だって?」
「ボルテ・チノア! 一族の皆は、うちのことチノって呼びよる。あんたもそう呼びんしゃい」
「あ、あぁ、分かったよ······じゃあ、俺もあんたって名前じゃねえし、和久って呼んでくれ」
「カズヒサ······分かった。そうするけん」
何が嬉しいのか、チノは少しだけ微笑んでそう答えると、ベットから立ち上がった。
「カズヒサ、ずっと食べとらんけんお腹空いたやろ? ご飯ば食べようか?」
『グ、グゥゥゥ······』
その一言によって、今まで感じてすらいなかった空腹が蘇り、腹の虫が鳴き声を上げる。
「ふふっ、すぐ用意するけん、ちょっと待っときんしゃい」
チノはそう言い残し、部屋の壁際においてある大きな箱の中から干し肉の塊を取り出すと、昨晩、俺が目覚めた途端に突きつけた巨大な包丁と共に、外へと出て行ってしまった。
『ガンッ! ガンッ! バキッ!』
ゲルの外から聞こえる何かの砕ける音。
何が行われているのかを容易に想像でき、下手していたら自分があの大きな刃で真っ二つにされていたのかもしれないと考えると、背筋が一気に凍り付いた。
音が止み、少女が重そうな様子で鍋を抱えて中に戻ってきた。
「呆けた顔ばしてどがんしたと? 眠たかとやったら外に水瓶があるけん、顔ば洗って来んしゃい」
そう言いながらチノは、天井まで煙突を伸ばす暖房器具の上に鍋を乗せた。
「いや、何でもない」
そう、これがこの地に生きる人々の生活なんだと改めて実感しながら、作業に戻るチノの姿を眺めた。
暖房器具の横に付けられた蓋を開け、コロコロとした黒い球体を隣に置いてある箱の中からスコップのような物で掬い取って火の中にくべる。
「なぁ、それって何だ? 石炭か?」
遊牧民が何を燃料に火を起こしているのか気になった俺は、蓋を閉じるのを見計らって問いかけてみた。
「これ? 羊の糞を乾燥させたやつばい? どげんかした?」
「羊の糞?」
問い直した俺の言葉に頷き、チノは頷きながらこう続けた。
「木に比べて煙も出らんし、匂いも少なかけん、家の中でも燃やせるとよ。便利かやろ?」
チノはニコッと笑いながら、暖房器具の上部の蓋を開け、持ってきた鍋を設置して火にかけた。
「そ、そうだな······!」
元の世界にも色々な風習がある。何事も否定から入るのは良くない。牛糞だって畑の肥料になるのだから糞を燃やすことなど何の問題も無い! などと訳の分からないことを考えながら、料理が出来上がるのを待つことにした。
「さぁ、できたばい。お腹いっぱい食べんしゃい!」
そう言って出されたのは、木の器に山盛りにされた干し肉を茹でて柔らかくした物と、素焼きの茶碗に並々と注がれた乳白色の液体だった。
「えっと······朝からこんなに食べるのか?」
俺の口から零れる素朴な疑問に、チノはハッとしたように頬を赤らめて反論を開始する。
「ち、ちがうとよ! お客さんとご飯ば食べる時は、満足してもらえるごと沢山出すのが、うちらのならわしったい! いつもはこがん沢山食べたりせんけん勘違いせんで!」
「へぇ······で、この飲み物は?」
俺の反応に釈然としないと言いたげな表情を見せるチノは、恥ずかしさからか若干顔を顰めながら次の問いに答えてくれた。
「うぅ······これは、馬乳酒。うちら一族はずっと同じ場所で暮らす訳じゃなかけん、水に困るとよ。そうけん水の変わりに飲みよると。でも、お酒と言っても酔うほどのもんじゃなかけん心配せんで良かよ」
「そうなのか······」
よく考えれば起きてから飲まず食わずだったため、気が付いた時には器を両手で持ち、一気に中身を飲み干していた。
外気のおかげで程よく冷やされた馬乳酒という飲み物は、夏の日に飲んだあの国民的乳酸菌飲料を思い出させる味だった。
「ごくっ、んぐっ······ぷはっぁ、うっめぇ! おかわり貰えるか?」
「まだ沢山あっけん、そがん慌てて飲まんでよかばい?」
そう言ってチノは、注ぎ口の付いた陶器製のピッチャーを傾けて、再び器に馬乳酒を注いでくれた。
「ありがとな。肉も食べて良いか?」
「遠慮は要らんけん、冷める前に早う食べんしゃい」
「それじゃ、これを貰おうかな」
取り皿の上に箸が無く、一本のナイフが置かれていたことから素手で肉を食べるのだと察した俺は、器に盛りつけられた肉を取り皿に取る。
そしてナイフで肉を切り、恐る恐る口に運んだ。
口に入れた肉を噛み締めたその瞬間。干し肉の程よい塩加減と、熟成された肉のうまみが口いっぱいに広がった。
寒冷地のせいか、香辛料の類は使われてはいない。しかし、解体が上手いのか獣臭さなどは一切感じられなかった。
「うちらの食べ物、カズヒサの口に合うやろうか?」
チノは恐る恐るといった様子で、そう問いかけてきた。
その問いに対して俺は腕を振り上げ、肉を飲み込んで思いの丈を伝える。
「めっちゃくちゃうまい! これなら二、三個はペロリだぞ!」
「それだけしか食べんとね?」
「いや、かなり肉が大きいからな。それで十分お腹いっぱいになるだろ?」
「そ、そうばいね! 普通お腹いっぱいになるもんね!」
チノは焦ったようにそう答え、ぼそりとこう付け加えた。
「でも、今日は忙しかけん。無理してでも食べとった方がよかばい?」
「何かあるのか?」
「うん、馬も牛も羊も十分草ば食べとるけん、次の草原に移動するとよ」
「へぇ、いきなり流浪の民っぽい話になってきたな」
肉を口に運びながらチノの話を聞くと、どうやらこれから、次の草原までの長距離移動が始まるらしい。
大変な肉体労働になるということだったが、話半分に聞いていた俺は結局肉の塊を三つ食べた所で腹がいっぱいになり、それ以上は手を付けなかった。
そして数時間後、その選択が誤りであったことを思い知らされることになるのだった。
食事が終り、一息を吐いた頃、急に外から騒がしい喧騒が聞こえてきた。
「移動の準備ば始めたみたいやね。丁度良か機会やし、一族の皆にカズヒサば紹介しに行こうかな」
「お、おう、分かった。行こうぜ」
こうして俺はチノに連れられて、挨拶に向かうことにした。
昨日の夜は気が付かなかったが、家畜を囲う広い柵の向こう側には多くのゲルが点在していた。
すでにゲルの外皮ははぎ取られ、骨組みだけにされている物もあり、その周囲では忙しなく人々が働いていた。
俺は一軒ずつチノとゲルを回り、モングールの民に挨拶していった。
皆を集めて一度にやらないのは、おそらくチノなりの配慮なのだろう。
挨拶した人々の顔を見た俺は、前を歩く少女の昨日の反応を思い出して納得してしまった。
どうにか滞りなく一族全員に挨拶を済ませ、チノのゲルに戻ることができた。
「意外と大変やったね。馬乳酒ば飲むね?」
「サンキュー。有難く頂戴するよ」
器に注がれた馬乳酒を受け取り、一気に飲み干した。
「でも、休んでいる暇は無かよ。うちらも早うゲルば畳んで、移動する準備ばせんぎいかんけん」
「そうだったな。じゃ、俺は何をすれば良いんだ?」
······こうして俺の猛烈な肉体労働タイムが幕を開けた。
ゲルの外皮を剥ぎ、骨組みを順序良く畳み、大きな車輪が付いた荷台に詰め込む。
それが終れば家畜達の柵の解体と回収、全ての作業が終る頃には、日が大きく傾いていた。
「これぐらいで弱音ば吐かれたら困るばい、今から牛と羊ば追いながら三日間移動するとやけん」
「マ、マジでか······?」
聞いていなかった三日間という数字に、俺は驚愕した。
「マジデカ? なんば言いよっとか分からんばってん、早う荷台に乗りんしゃい。もう出発するばい」
「お、おう······そういえばコロ丸は? 俺が連れてた白い犬なんだけど」
「あの子なら心配いらん。あんたの犬は働きもんたい。羊ば散らさんごと追い込むとの上手かけん、羊番ばしてもらいよるとよ」
そういえば、祖父さんが牛を放牧するときに、コロ丸を使って敷地内から牛を出さないようにしていたっけ······。
「農機具小屋の番犬が、牧羊犬ねぇ······」
俺は眼下に広がる草原を走り回っているコロ丸を見つけ、祖父さんの躾とコロ丸の賢さに感嘆し、無意識にそう呟いていた。
他の荷馬車と打ち合わせが終ったのか、戻ってきたチノは颯爽と御者台に乗り込み、慣れた手つきで手綱を振るう。すると、繋がれていた馬はゆっくりと歩き出し、荷馬車の車輪はギギギと音を立てて回転を始めた。
こうして、夕焼けが草原を燃やすように照らし出す中、俺とモングールの民はゆっくりと南へ進みだしたのだった。
拝啓、家族のみんなへ
馬乳酒は国民的乳酸飲料にそっくりな味でした。
健康にも良いらしいのでぜひ飲んでみてください。
あと、コロ丸は無事です。今は牧羊犬としてお仕事を頑張ってくれています。
広い草原を走ることができるので、こちらの世界の方がイキイキして居るようです。
しばらくは生きるのに困らないようなので、ご安心ください。
そちらは、夏の暑さが厳しいと思いますが、お体にご自愛ください。
敬具
山口 和久