第八話-おまけ【狼おじさんと狼幼女】
微かにカビの香りがする、暗く狭い部屋の中で小さな女の子が泣いている。
沢山の棚が並ぶ部屋の隅で座り込む少女の歳は、恐らく十を数えない程度だろう。
両目を押さえ、嗚咽を漏らし始めてから既に数時間が経過していた。
何度も涙を拭った袖はぐっしょりと濡れていて、それでも健気に瞳から零れる涙を吸い続けている。
そんな時、唐突に扉が開き、それと同じくして外の明かりが部屋の中に差し込んだ。
木の軋む音と共に、大柄な男が部屋の中に入ってきた。
「さーて、どいにすっかのう······おいは古くて熟成した奴が良かとばってん、あいどんが嫌がるもんなぁ······って、うおっ!」
大柄な男は足元に小さな影があることに気が付き、声を上げる。
「おいチビ、こがんとこで何ばしよっとか! 驚くやろうが!」
「······」
だが、少女は顔を伏せたまま何も答えない。
「ん? 何やチビ、泣きよっとか?」
「······泣いとらんっ!」
「そいで泣きよらんって流石に無理のあっぞ?」
「うちは······誇り高きボルテ・チノアの娘やけん······泣いたりせんもんっ······!」
大柄の男は返ってきた強情な言葉に、溜息を吐きながら少女の前で膝を折ると、綺麗に整えられた長い銀髪を、グシャグシャに搔き乱すよう力強く撫でた。
それと同時に少女から小さな悲鳴が上がる。
「い、いきなり何ばすっとさ!」
「がっはっは、やっと顔ば上げたばい。やっぱり泣きよったな?」
「うっ······」
乱れた髪を手櫛で直す少女は、罰が悪そうに唇を尖らせる。
「おい達の守り神、ボルテ・チノア様は、子供が泣くぐらいで怒ったりする神様じゃなかけん、安心して良かぞ?」
「ゲレルおじちゃん······そいは本当?」
「おう、おいは嘘ば吐かん。そうけん、おいちゃんに何があったか話してみい。どうせハワル辺りのヤンチャ坊主に意地悪されたとやろ?」
その問いに少女は頭を横に二度振って否定する。
「そいぎ何や?」
「······お父さんとお母さんが大喧嘩したとよ。仲直りしてって言うても、うちは関係なかけん話に入ってくるなって怒られた······もうお父さんとお母さん、仲直りせんとやろうか? ずっと喧嘩したままやろうか?」
少女は再び溢れ出てくる涙を袖で拭いながら必死に話した。それに対してゲレルは口元を強く手で押さえ、身体を震わせている。
しかし、それも長くは続かない。
ゲレルは我慢できずに噴き出すと堰を切ったようにゲラゲラと笑い始めた。
「がっはっは!あぁっくっくっはっは!」
真面目に話していた少女は、そんなゲレルの反応が不服だったのか抗議の声を上げる。
「何が可笑しかとさっ! うちは真剣かとばい!」
「くっはは······あー、悪い、悪い。夫婦喧嘩は竜も食わんってのはほんなごてばい」
どうにか笑いを止めることができたゲレルは、何度か咳払をしてようやく口を開いた。
「おいちゃんにも、チビみたいに純粋な時期が有ったとやろうな。まぁ、そがん泣くごと心配せんでよかぞ。夫婦なんて物は、喧嘩しても一発やりゃあ仲直りする生き物たい。そうけんチビは今日、いつもより早く寝ればよか。そうすれば朝にはいつも通りたい」
「一発······なんそい?」
「おっと、口が滑ったな。まだ子供のチビに教えっとは早か。そいに大人になったら分かるけん、今は忘れとけ」
「うん。じゃあ今日、うちは早うねれば良かと?」
「おう、そういう事たい。おっ、もう泣き止んだごたな」
少女はそう言われて自分が泣いていないのに気が付き、目を擦った自分の手の甲を凝視する。
手の甲に涙の痕が無いのを確認した少女は、パッと花が咲くように笑顔になって立ち上がった。
「良か事ば教えてくれて、ありがとう! うち、今日は早うねるけんね!」
「おう、良か夢ば見ろよ!」
ゲレルもゆっくりと立ち上がりながらそう言って、少女の頭を優しく撫でる。
「うん! またね、ゲレルおじちゃん!」
少女はゲレルの足元を器用にすり抜けて外に出ると、手を振って走り去ってしまった。
「ったく、ガキは元気で羨ましかのう······」
ゲレルは羨ましそうに一言呟くと、一度だけ溜息を吐いて、棚に並ぶチーズの物色を再開したのだった。
笑顔にも関わらず、目を腫らしている少女は、目的地へと真っ直ぐに全速力で走っている。
そして少女は、その勢いのままに住み慣れたゲルの幕を上げて中に入へと入った。
「お父さん、お母さん、ただいま!」
ゲルの中に居た両親は重たい空気を発しながらも、二人は帰ってきた娘にぎこちなく返事をする。
この空気が嫌で家を飛び出した少女は、今や解決方法を知っているため笑顔を崩すことはない。
そして、喧嘩を止めると自信満々な少女は、声高らかに両親へ言ったのだ。
「うち、今日は早う寝る! お利口さんにもする! そうけん、一発やって仲直りばして!」
その言葉を発した瞬間、重々しかった空気が刹那の間に凍りつく。
この場の空気の変化を敏感に感じ取った少女は、これで仲直りできるのだと、悪びれることなく二人の前で無邪気に笑った。
この後、正座をさせられ数時間もの間、激怒した二人に怒られ続けるとも知らずに。
結局、少女がその言葉の意味を知ったのは、それから数年後の事だったという。




