第五話【砕猪の黒き角、白狼の鋭牙 上 】
視界に入るのは、その身に葉を纏わない木々と、枝の隙間から姿を覗かせる蒼穹の月。
全身に点在する関節は軋むように痛み、四肢や背中の至る所で痛覚が呻き声を上げている。
崖から滑落して半日。どうにか動かない身体に無理を言わせて、なだらかな土の壁に背を預けることが出来たが、これ以上動くのは無理そうだった。
寒い。毛皮を身に纏っているとは言え、風も防げず、火も無いこの環境では外気に体温を根こそぎ持っていかれるのは当然だった。
「コロ丸の奴・・・・・・無事に逃げきったかな・・・・・・」
黒く染まっていく視界の中、崖の上で生き別れた愛犬の事を思う。
しかし、霞んでいく意識に抗う術は無く、全身の力が抜け落ちていくと同時に、微睡の中へと引き込まれて行った。
決起集会を終え、俺が最初に出した指示は、約三千頭もの羊の中から、子羊とは別に若く健康な三百頭を選び、その枠の中に入れなかった全ての羊を解体することだった。
この指示に対して批判は多く出たが、食べさせることのできる草の量も限られているため、羊が痩せる前に解体した方が良いという、チノとゲレルの賛成意見に皆は納得した様子だった。
二人と同じように解体する理由を説明したはずなのだが、自分一人では全くと言っていいほど同意が得られなかった。つまり、頼るべきは権威であるのだと再認識させられたのである。
モングール族全員が力を合わせ、彼等の歴史の中で、史上類を見ない規模の解体作業に取り掛かってる間、俺はコロ丸を連れてカースド大森林の調査に出ることにした。
なぜ一人でカースド大森林に入るのかというと、大人数のメリットはもちろんあるが危機的状況に陥った際の損失もまた大きい。
それに今後、開拓を進めていく際にリーダーシップが必要となってくる。そのためには、危険をかって出て行い、モングールの男達のみならず、一族全員に一目置かれる存在にならなくてはならないのだ。
カースド大森林の調査ルートは、拠点の傍にある坂を下ると崖の亀裂から水が噴き出して、小さい泉と川を形成していたため、その流れに沿って歩くことにした。
亀裂から噴出する水は、恐らく上の湖から地下を通って流出している物であるため、残留物の検査を行って安全だと判断した今、非常時に飲み水として使えるのはありがたい。
今回はカースド大森林を三日で進める所まで歩き、三日で拠点に戻るという計画を立てて出発した。
服装は、こちらの世界に来てから身に着けている毛織物の服とズボン、その上に毛皮の羽織りを一枚。足元はチノに貰った牛皮の靴を脱ぎ、この世界に来た時の長靴に変更した。
手持ちの装備は、以下の通り。
火石を先端に付けた杖。魔法石を大量に購入したことで、火石を固定する金具を主人に貰ったため、丁度良い棒の先端に取り付けた物。
馬乳酒の入った革水筒。
干し肉、チーズなどの食料と小鍋。
毛織物と革紐で作ったハンモック。
懐中電灯。
羊の糞。
それらをまとめて入れる革製の鞄。
武器は大きめのナイフを腰に差し、肩に短弓、背中に矢を納めた矢筒を背負った。
調査に出る際、チノとゲレルに猛反対を受けたが、毎朝と毎夕に狼煙を上げる事を条件に許してもらうことが出来た。
今、目の前で上空へと昇っていく煙が五度目の狼煙。感覚では一日で二十キロ弱歩いているため、拠点に居るチノ達はもう煙を目視できていないかもしれない。
煙が空へと立ち昇っている間に湯で戻した干し肉をコロ丸に与え、樹上に設置したハンモックを回収する。
身支度を整え、足りないと言いたげな様子のコロ丸の視線を受けつつ朝食を取り、出発することにした。
「どうせここまで開拓することも無いだろうし・・・・・・コロ丸、昼頃になったら引き返そうか?」
『ハッ、ハッ・・・・・・?』
普段すぐ隣に話し相手が居るため、ついその癖で話しかけてしまった俺に対し、コロ丸は名を呼ばれたことでこちらを向いて、出される指示を待っている。
「あぁ、ごめんコロ丸、今のは気にしないで良い。先に進もう」
コロ丸は、俺が指示を出さずに歩き出したことで、すぐに隣を歩き始めた。
基本的にコロ丸は首輪を必要としない犬だった。法律的にアウトなため、俺は着装してから散歩させていたが、祖父さんがコロ丸に首輪を付けているところは一度も見たことが無かった。
祖父さんから厳しい訓練を受けたからか、首輪が無くとも自分から離れようともせず、逆に首輪があっても強く引っ張ったりすることも無い。見た目に反してとても散歩が楽な犬だった。
ここに来る間に、様々な収穫があった。
一つ目は、拠点の近くに竹林を見つけたことだ。現代日本での竹林問題は深刻だが、こちらの世界では道具や燃料に使用できるため、非常に嬉しい収穫となった。
二つ目は、ここまでの間にいくつかの落差のある段差があったのだが、これをよく観察したところ、横一直線に段差が続いており、ボーリング検査をした訳ではないため確定ではないが、正断層であると推測した。草木が生えていた痕跡が多くあったため、ここ数年で出現した物ではないと思われるが、この地にで地震が起きたことを表す大きな手掛かりとなった。
三つ目は、カースド大森林の広さ。多少の曲折はあったものの、すぐに海とつながると考えていた川は、森の奥へ奥へと続いている。この先、モングール族が耕す土地で困ることはしばらく無いだろう。
その他にも色々とあるが、大きなものはこの三つだった。
川を下って二日間は、獣の痕跡を見つけることはあれど、腰に使うナイフを血でよごしたり、弓の弦を震わせるといった事は一度も無かった。
魔獣との遭遇も覚悟はしていたが、分岐した川の細い支流の先で、一頭の普通のイノシシを見ただけであったため、出発の頃に比べれば気分はだいぶ楽になっている。
緩やかな傾斜を下り切った所で再び断層と思われる、高さ五メートル程の切り立った崖が正面に現れた。
常に隣で流れていた川は滝となって、激しい水の音を立てている。
「ふー、調査はここまでだな。タイミングよく昼だし、飯食ったら帰るとするか」
太陽が頂点に到達し、出発した朝の日の出を七時にセットした腕時計が正午を迎えた時、コロ丸が今まで歩いてきた経路へと振り返り、眉間に皺を寄せて低い唸り声を上げ始めた。
『グルゥゥヴゥゥゥゥ・・・・・・」
「どうしたコロ丸? 何か居るのか?」
突然走る緊張感に、腰に差すナイフの柄を握る手に汗が滲むのが自分でも分かった。
「・・・・・・」
静まり返った森の中、聞こえるのは滝の音と、コロ丸の唸り声だけ。
だが、コロ丸が警戒する方向からは、鈍感な俺の第六感が感知する程の、強烈な威圧感が放たれていた。
そして奴は斜面の向こう側から姿を現した。
鋭く巨大な牙を持つ白毛の大猪。その額には一本の角が生えており、その姿はまるで不細工なユニコーンのようだった。
だが、侮れる雰囲気は一切ない。体高はゆうに二メートルを超え、体長は三メートルにも及ぶだろう。
その威風堂々たる立ち姿を目にした瞬間、これがイノシシの魔獣、砕猪と呼ばれる存在なのだと確信した。
「マジかよ・・・・・・完全に乙●主様じゃねえか」
人間はあまりにも危機的な状況になると笑いが込み上げてくるらしいが、どうやらそれは本当らしい。ちなみに、隣に居るコロ丸は勇敢にも威嚇し、砕猪へと吠え続けている。
こちらの存在に完全に気が付いている砕猪は、身体をのけ反らせて牙を天に掲げると、凄まじい声量で咆哮を放った。
『プギィィィィィィィィィィィィィ!』
耳を劈く咆哮に威圧され、流石のコロ丸も吠えるのを止めてしまう。
背後には崖があり、まさに絶体絶命。
どこぞの石の鏃を使う勇猛な蝦夷の一族のように、持っている弓であのイノシシの両目を矢で射る事など不可能だ。
どうするなどと、考える暇を砕猪は与えてくれない。右前足で地面を何度も抉り、今にもこちらへと突進を開始する雰囲気だ。
だが次の瞬間、砕猪の身体に目を疑う変化が現れた。
「黒く・・・・・・?」
地面を抉っていた前足が黒く染まり、徐々に上へ上へと広がっていく。そして、最終的に砕猪の前半分の身体が黒く染まり、それはまるで鎧のような厚みをもたらしている。
特に額にある角の変化は顕著で、黒光りするそれは元の長さの二倍以上にまで伸び、太くなっていた。
この十秒足らずで起きた変化で、砕猪の見た目以外に何が変わったのかは分からない。だが、状況が悪くなったと確かに思えた。
「逃げるぞ、コロ丸・・・・・・!」
そうコロ丸に告げて、恐怖で拘縮した身体に鞭を打ち、一歩目の足を踏み出す。だが、その動きを見逃してくれるはずもなく、それを皮切りにして砕猪は凄まじい勢いで突進を開始した。
「クソッ、こっちだコロ丸!」
このような状況下でできることなど一つしかない、木を盾にして突進を避けその間に逃げる事だ。運よく傍にブナの大木が生えていたため、迷うことなくその陰に入った。
突進を受ける前に大きな障害物の裏に逃げ込むことができたため、安心したのだろう。いつの間にか右手が腰に差していたナイフを抜いていた事に気が付く。
しかし、安堵の束の間。頑丈であるはずのブナの木は凄まじい衝撃と共に、折られた枝の如く横から真っ二つに粉砕されてしまう。
「う・・・・・・そ・・・・・・だろ?」
走馬燈は見えなかったが、世界が急激にゆっくりと動く感覚に襲われる。
折れた大木を払い除けて、すぐそこにまで突きつけられた砕猪の角。
どう考えても、避けられる距離ではない。迫りくる角に対して俺は無意識にも近い感覚でナイフの側面を盾変わりに突き出していた。
が、角の先端とナイフの側面が触れた瞬間、衝撃は無く微かに触れた感覚と共にナイフに風穴が開き、その穴が一気に広がって刀身は砕けるように割れてしまった。
しかし、どうにかナイフのおかげで角の軌道が変化し、直撃は辛うじて免れることができた。
だが、鎧のような何かに覆われた鼻先と衝突するのは避けようがない。
「コロ丸、逃げ―――」
口に出たものの、コロ丸の姿を確認する余裕など無かった。
腹部に走る凄まじい衝撃と共に浮遊感が襲う。
それによって意識は、いとも簡単に身体から切り離されたのであった。




