第一話【流された先は異世界でした】
第一話【流された先は異世界でした】
暑い夏。麦わら帽子を被せてくれる皺だらけの手の平。
俺はその働き者の手が大好きだった。
「和久、祖父ちゃんはあがん言いよらすばってん、あんたは好きなことばして良かとやっけんね?」
「うん! おいは楽しかことのいっぱいある東京に出て働きたか! そいで祖母ちゃんと面白かことに溢れとる東京で遊ぶっちゃん!」
少年は、キラキラとした屈託の無い笑顔で老婆に答える。
「そいで良か。ばぁちゃん楽しみにしとっけんね?」
そう言って老婆は、少年の首に革紐の先に布袋を付けた物をかけた。
「お守り。あんたがどこに行っても、この土地の神様が守ってくれるけんね」
そう言って老婆は、麦わら帽子の上から頭を撫るのだった。
「さぁ、友達と遊ぶとやろ? 待たせたら悪かけん早う行きんしゃい」
「うん! 行ってくるけん!」
少年は照れくさそうに頷き、元気に走り去ってしまった。
あっ、このガキ······子供の頃の俺だわ。
そう気が付いた瞬間、世界は暗転し、周囲で何か揉めているような声が聞こえてきた。
「ん······っ······」
体が横になっている感覚と共に、今まで自分が夢を見ていたことに気が付く。
そして、足を滑らせて用水路に落ちた記憶がフラッシュバックした。
「はっ!······はぁ、はぁ」
横になっていた身体を起こし、光に慣れていない目で周囲を見渡した。空が見えないことと、明かりがあることから、どうやらここは屋内らしい。
どうにかあの危機的状況で、死ぬことは免れたことに感謝しつつ、このあと祖父さんからこっぴどく叱られるのかと溜息を吐きかけた時だった。
「ここ······どこだ?」
鮮明になっていく景色は、端的に言って普通ではなかった。
見たことの無い模様の絨毯。見たことの無い形をした円形状の部屋。そして何より、狼の毛皮を被った一人の少女が、驚いた表情でこちらを見つめていた居たのだ。
「お、お、起きたぁぁぁ!」
少女は悲鳴に近い声を上げながら、傍らに置いてあった大きな刃物を手に取り、鈍く光るその切っ先をこちらに向けた。
「お、お、お、落ち着けぇぇ!」
下手な事をしたら死ぬと察知し、速やかに両手を上げる。
「う、う、動かんで!······う、うちの質問に答えんしゃい!」
「あ、あぁ······分かった。分かったから刃物を下ろしてくれ」
その刃物を握る少女の手に籠められている物が敵意ではなく、恐怖であることを俺は悟った。
「そがんことできん! うちが包丁を下ろした途端に襲い掛かるつもりやろ! その手には乗らんばい!」
「襲わねーよ! 刃物持ってる奴を相手に俺が何をできるってんだ!」
「そ、そうばってん······何を根拠に信じろって言うとさ?」
少女は神妙な面持ちで、俺を見定めているようだった。変に動揺しても不味いと感じた俺は、一度溜息を付いて、なるべく落ち着いた声で答えるよう努力した。
「俺の目を見て聞いてくれ。危害を加える気は断じて無い。それどころかお前は命の恩人だ。まず、お礼を言いたいんだが······」
少女はこちらを睨みつけ、暫しの間をあけてゆっくりと包丁を下ろしたのだった。
「忘れんでよ、こっちには刃物があるっちゃけんね?」
「あぁ、わかった」
少女の言葉に何度も頷き、敵意が無いことをアピールしたところで、少女も溜息をついた。
「あんた、帝国の人ね? うちらば監視しよったとやろ?」
「て、帝国?」
唐突に飛び出てきた、帝国という単語に俺は目を丸めながら聞き替えした。すると、少女は一目でわかるほど激怒した表情になり、堰を切ったように俺を捲し立て始める。
「誤魔化さんでっ! あんたは見たことも無か服ば着とった! そいで何よりも、綺麗か言葉ば話すのがその証拠たい!」
涙目になりながら、少女はさらに続ける。
「確かにうちら一族は流浪の民さ! 馬と牛に食べさせるため、草原ば追って生きる民たい! 百年前に帝国にうちら一族が敗れてからは、言われた通りに重たか荷運びばしよった! それでもうちらは草原で生きることに誇りば持っとった! そいとけ、海路で荷を運べるようになったけんって言うて、あんたらが食べるおまんまが無かけん、草原ば捨てて南で持ったことも無か鍬で畑ば耕せって、あんたらはを脅して来たとばい! うちらは力が無かけん従うしかなか! そうけん言うことば聞いて南に移動もしよる! そいとけ帝国は百年間仕事を全うしたうちらば疑っとるとかっ!」
言葉を吐きつくした少女は、息を切らしながら肩を揺らしている。そしてその瞳に溜まっていた涙は一滴の雫となって零れ落ちた。
「言葉······なんば言いよっとか分からんばってん、おいは帝国とかいうとこの人間じゃなかばい?」
とりあえず、言葉について咎められたので、口調をもどして声をかけてみた。すると、少女は目を見開いて戸惑いの表情を見せる。
「あんた······その訛りばどこで覚えたとね? 帝国の人間はうちらの言葉ば汚かって罵るはずばい······?」
「いや、最近都会では九州弁女子は人気だろ?」
「九州弁······? なんば言いよるとか分らんばってん、あんた帝国人じゃなかと?」
「何回も言いよるたい、帝国とかいうとこの人間じゃなかって」
俺の答えを聞いて、少女は腰を抜かしたように座り込み、大きく溜息を吐いた。
「······言いがかりば付けて、攻め滅ぼしに来たのかと思ったたい······帝国人でもなかし、うちら一族とも違う······言葉ば二つも操るとかあんた一体、何者ね?」
「······俺の名前は和久」
「カズヒサ······? この辺じゃ聞かん名前やね。あんたはどこの国の民ね?」
「どこって、お前と同じ日本だろ」
「日本······? 聞いたことが無か国やね。海の方から来たと?」
少女の話を聞いて、随分と前から嫌な予感がしていた。
そしてその答えは今、確信へと変わっていく。
襲い来る動悸に、思わず胃の中の物が全部吐き出してしまいそうになる。
だが聞かずには居られない。どうにか恐怖で閉じられた口をこじ開け、少女に恐る恐る問いかけた。
「なぁ······ここって、いったいどこなんだ?」
「どこって、天を支える柱、大ハルツァガ山の麓たい。あんたは、山から流れる川の中で倒れ取ったとばい? まさか、覚えとらんとね?」
少女は首を傾けながらそう答え、その表情に嘘が混じっていないことを悟る。そして、自分でも解るほど困惑に顔を歪めていた。
そして、自分にかけられていた毛布を投げ出して、この建物の外へと駆け抜けた。
「ちょ、ちょっと待ちんしゃい!」
背後から聞こえる少女の声を振り払って外に飛び出た俺は、目の前に広がる光景に絶句する他なかった。
「おい、冗談だろ······」
見慣れた田んぼと畑だらけの景色も、手入れがなされていない山々もそこにはない。目の前にあるのは、数倍の大きさの月に照らされる広大な草原と、その光を降り積もった雪に反射させる巨大な山々が聳え立っていた。
「いきなり飛び出して行かんでさ! それに、そんな恰好じゃ風邪ば引くやろ!」
気が動転していたのだろう。後ろから少女の声が聞こえるまで全く気が付くことができなかった。
そして、気が付いたと同時に突然襲い来る身を貫くような寒さ。
あの茹だるような暑さは一片も存在しない。もはや言い逃れできないところまで現実は差し迫っていた。
「あぁ······ここ、異世界だわ」
自分でも驚いてしまうほど、落ち着いた声でそう呟いていた。
「こがん寒か中で、なんば考え事しよっと! そ、それに······は、早う前ば隠さんね!」
「えっ?」
背後から俺に、毛皮でできた衣服を差し出す少女。それに疑問を感じた俺は 自分の恰好を省みる。
「なっ······」
下を向いた俺は、寒さで縮こまっている我が息子と目が合った。当然、一枚の衣類さえ身に付けられてない、生まれたままの姿という奴だ。
「わ、悪いな······」
恥ずかしいながらも、平静を装い衣類を受け取ろうと振り返る。すると、少女は茹でダコのように頬を紅潮させ、手に持つ衣服を俺に力いっぱい投げつけたのだ。
「馬鹿っ、こっち向かんでよ!」
「へぶっ―――!」
顔面に直撃した衣服を何とかキャッチし、これ以上の被害を出す前に衣服を広げて少女との間に壁を作る。
広げて分かったが、渡されたのは毛皮のロングコートだった。
「は、早く着んしゃい! 風邪ひいても知らんばい!」
ロングコートの向こう側で、赤面しているのが丸分かりな声を上げる少女にクスリと笑いそうになりながら、その袖に腕を通す。
前を閉じるために付けられた革紐を結ぶと、今までと比べ物いならないほど暖かくなった。
「全く······寒か中に飛び出して、いきなりどがんしたとね?」
「······信じて貰えないかもしれないんだが······俺、どうもこの世界の人間じゃないみたいだ」
「じゃあ、あんたは稀人たいね。うちは見るとは初めてばってん」
「そうだよな、やっぱり信じて······えっ?」
嘘だという罵声を浴びる覚悟をしていた俺は、少女の言葉を理解するのに少し時間がかかってしまった。
「今、お前は俺を何と言ったんだ?」
「ん? うちは、あんたの事を稀人って言うたとよ」
言葉の意味が分からなかった俺は、さらに少女に聞き返す。
「何だよ、その稀人って?」
その問いに、少女は唐突に腕を伸ばして指差した。
「鷹が天に嘴を伸ばし、両翼を広げた神の山。うちらは、ご先祖様の言葉を使って、大ハルツァガ山と呼びよる。ご先祖様の言い伝えで、あんたみたいなどこから来たかも分からん人間が、山からこの草原に舞い降りるっていう昔話があるとよ」
「つまり、俺がそれだと?」
「そういう事やね」
少女は腕を下ろして一度頷く。
「ちなみに、帰る方法はあるのか?」
「うちは知らんよ。言い伝えに帰ったっていう話は無かけんねぇ」
その言葉に、全身の力が抜けた俺はその場に座り込み、仰向けに倒れ込んだ。
「そいで、稀人のあんたはどがんすっとね?」
「どうするって、帰る方法を探すだけだろ······」
「思い当たることのあると?」
「············」
その問いに答える事など、出来るはずがなかった。
「なら、うちの一族と一緒について来るぎよかたい」
「え、良いのか?」
「稀人と出会った者は、幸せになるって言い伝えもあるし、それに困った者を見捨てるんは白き狼の一族であるモングールの族長、ボルテ・チノアの名に恥やけん」
少女は照れくさそうにそう笑うと、急に吹き抜けた突風によって深く頭に被っていた狼の毛皮が飛ばされてしまった。
「なっ······」
月明りに照らされる少女は、その白い髪を靡かせる。しかし、目を奪われたのはそこではない。
「やっぱり······稀人も、うちの事が醜く見えるんやろうか?」
少女は悲しい笑みを浮かべて俺に問いかける。
頭に立つ二つの耳は、髪と同じ色をしたフワフワな毛に覆われ、被っていた狼と毛皮に付いているものと同じ形をしていた。
「うちらは、白き狼の血を引く一族モングール。帝国人は、うちらの事を······人狼族と呼びよるよ······」
口を開けなかった俺に、少女はゆっくりと問いかけてきた。
「うちのこと怖かやろ? そいが普通の反応たい。うちらはあんたのことば襲ったりせん。ちゃんと帝国の近くまで送ってやるけん、それまで我慢してくれんやろうか?」
その言葉の中に、様々な思いが籠められているのは明白だった。
どう答えて良いのか分からなかった俺は、オブラートに包むことなど諦め、身体を起こして胸の思いをそのまま少女にぶつけることにした。
「関······係ねえだろ······たかが、耳の位置が違うだけで、自分が怖い存在みたいに言うんじゃねえ!」
予想だにしなかった言葉に、少女は目を見開き驚愕の表情を浮かべた。
「帰る方法はもちろん探す。だけどな、俺は助けて貰った恩人に、砂かけて逃げ出すような、恥知らずな人間じゃねえ! 話聞いてりゃ、お前ら畑を耕すんだろ? それだったら俺に任せとけ!」
そこまで言って俺は大きく息を吸い、覚悟を決めて少女にこう言ってのけたのだ。
「なんたって俺は、農家の息子なんだからな!」
少女はその瞳に涙を浮かべて座り込み、大粒の涙をポロポロと溢し始めた。
「言い伝えは本当やった······」
涙が流れ続ける瞳を、少女は両手で押さえる。
「うち······怖かった······知らん土地で一族の皆に手綱じゃなくて、使い方も分らん鍬ば握らせるとが、すごく怖かった······。皆ば飢え死にさせてしまうとやろうかってずっと不安やったとよ······」
少女は、嗚咽を漏らしながら俺に話続けた。
「でも、稀人が私の前に現れてくれた······ねぇ、本当にうちら一族を助けてくれると?」
「あぁ、俺が居るからには、お前らに凶作の二文字は無いぜ?」
その言葉を聞いた少女は、その顔をクシャクシャにして俺に飛び掛かってきた。
「お願い······うちら一族を助けて······」
俺の胸に縋りついた少女は、祈るようにそう囁いた。
「あぁ、助けるさ」
少女の身体を抱きしめ、俺はその白い髪を優しく撫でる。
縋りつく少女の身体は思っていたよりも華奢で、強く抱きしめれば崩れ落ちてしまいそうだ。
そして、いつの間にか震えているその少女を守ってあげたいと考えている自分が居ることに気が付く。
こうなってはしかたないと、俺は諦めたように溜息を吐きながら、腕の中の少女を救うと決意したのだった。
拝啓、家族のみんなへ
台風という忙しい日に、突然消えてしまってすみません。
心配していると思いますが安心してください。水門は開いてましたし、僕もどうにか生きています。
いつ帰れるかはさっぱり分かりませんが、そっちの世界に帰る方法を探して帰りたいと思いますので、
どうか失踪届で踏みとどまって、死亡届は出さないで下さい。
それと、大学に休学届を出してくださると助かります。
敬具
山口 和久




