咲き誇り、枯れるは宿命の曼珠沙華。
絢爛豪華な現世の如何に儚き一時の夢の如しものなのか。
立身出世を果たし、栄華を極めし一族の未来に有るのは谷ばかり。
転がり始めた石の行き着く果ては、如何にとぞ。
驕りたる者の行き着く果ても、脆き白い水泡と同じやもしれぬ。
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「源平藤橘」と言うように代表的な姓の一つと数えられる“平”氏。
その中でも有名なのは、平大相国、六波羅殿、清盛入道と呼ばれる者では有るまいか。
数多の名で呼ばれしは、この世の栄華繁栄を極めし一族の頂点に立ちし者。
温厚篤実、傍若無人の二面性を垣間見せる者。
日宋貿易により財政基盤を作り上げ、日ノ本国内で流通させた宋銭で通貨経済を根付かせし者。
平家で非ずんば人にあらず、と一族の者が言うほどの権力を握りし者、その名を平清盛なり。
欠けた月が満ちて望月となり、再び欠けていくように……世の理とは諸行無常なものである。
聡明且つ美しく、気丈な性格ゆえに後白河法皇の寵愛を一身に受けることとなり、皇太后にまで上り詰め、建春門院の女院号を賜り女として最高の地位に上り詰めた平家一門の女、滋子。
その滋子の死を切っ掛けに後白河法皇の院政勢力は、権力を握りし清盛へと不快感をあらわにしていく。
「これ以上、清盛入道の好きにはさせぬ。」
後白河法皇は膨れあがった清盛の力を削ぐために病で没した子の荘園を没収し、摂関家嫡流の地位を平家以外の一族へと任命する。
「我が一族の荘園を奪ったばかりか、娘婿を与えられるべき地位を、松殿家の子にくれてやるとはっ!
一度は我の失脚を企みし折りは責めなんだと言うに、おのれっ後白河っっ!!」
清盛は怒りを露わに軍勢を率いて福原京より上洛し、八条殿に入ったのである。
京の都は清盛の軍勢により、物々しい雰囲気に包まれた。
「ひぃぃぃっっ!! 清盛よ、嗾されただけなのじゃ! そなたを裏切ろうなどとは考えておらぬのじゃっっ!!
そうだっ! 我が身の潔白を晴らすために、清盛へと使者を立てようぞ!!」
戦も辞さぬといった清盛の苛烈な怒りに仰天した後白河法皇は、静賢を使者に使わして政務に口を一切挟まぬことを申し入れる。
しかし、清盛は松殿基房・師家父子を手始めに、平家に反抗的な者達を役職から全て解任し、その穴を埋めるために平家に好意的な者達を取って代わらせてしまう。
「一度、二度と許しを与えたにも関わらず、仇で返すは下に愚か者の所行なり。
一度ならず、二度、三度と、我が情けをわからずに平家に徒なす者は誰で有っても許しはせぬ。
空言を嘯く口ならば、許しを請おうが幾らでも言えるであろうよ。」
後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請う。
だが、清盛は後白河法皇を許すことは無く鳥羽殿に幽閉するにいたったのだった。
高倉天皇に嫁がせた清盛の女、徳子が男児を産み、その子が東宮となり……新たな天皇となる。
誰もが平家の繁栄は続くと思っていた矢先にとうとう反撃の狼煙が上がり、落陽の如く、もしくは坂道を転がり落ちる石のように勢いよく転がり落ちていくこととなる。
その切っ掛けと言うべき反撃の狼煙は、一人の男の呼びかけだった。
「清盛入道や平家の者どもに、日ノ本を好きに蹂躙させて良いのだろうか?
驕り高ぶりし平家をのさばらせては、人の世のためになりはせぬっ!
清盛入道の血を引く安徳天皇を天皇の座から引きずり降ろし、日ノ本の武士達よっ! 世の理を正すのだっ!!」
後白河法皇血を引く、息子である以仁王の呼びかけに各地の武士達が応えることとなる。
それは、兵を挙げたものの平家の軍に敗れ去り、以仁王が命を散らした後も変わりはしなかった。
「助命の懇願があったとは言え、幼子の命を奪うは忍びない、と情けを掛けた所行が我が身を責めるとはっ!!
義朝の子など、あの時に情けを掛けずに殺しておけば良かったっっ!!!」
死した以仁王の令旨が日ノ本各地に飛び火し、蜂起した武士の中には一度は清盛に破れた源義朝の子、源頼朝がいたのだ。
次々と日ノ本各地で蜂起する者達を排除していく清盛が派遣した大軍により、興福寺・東大寺……南都の寺は紅蓮の炎に包まれる。
しかし、仏敵の汚名を着ることになった清盛も、寄る年波に勝つことは出来ずに病に伏せることとなる。
病床にありて残して逝くこととなる愛する平家一門へと想いを馳せ苦悩する清盛。
「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず。」
息子の一人へと平家を任せた清盛は、満六十三年の生涯を閉じることとなった。
清盛より平家一門の命運を託された宗盛は、「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」という清盛の遺言を胸に戦う道を選び取るのだった……。
※※※※※※※※※※
石橋山の戦い、富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦い……蜂起した武士達との戦いは激しさを増していく。
源氏の勢いに敗れた平家は都より逃れるために都落ちを余儀なくされる。
時に源氏同士で争うことはあれども、隙を突くことは敵わず平家は西へ西へと逃げ落ちていく。
一の谷の戦い、藤戸の戦い、葦屋浦の戦い、……逃げ落ちた平家の者達はとうとう孤立無援の状態となり、彦島へと立てこもる。
しかし、源氏の追撃は激しく屋島の戦いに敗れ、彦島より海上へと逃れることとなるのだった。
ぐらり、ぐらりと揺れる戦場にありて、一族の男達が集まる船上に遅れて一人の男が現れると、集まった者達の顔に笑みが浮かぶ。
「一族の命運を決める戦の前に、今まで辛苦を共にしたそなた達の顔を見ることが出来て心より嬉しく思う。
どんな英傑であろうとも、生まれ持った宿命には逆らえぬ。 だが、武士として生まれたからには最後まで潔く、侮られぬ戦いを披露したいと思わぬか。
百年、千年と時の流れに名を刻むように、命を惜しまずに一花咲かせて散って見せようぞ。」
幼い頃より病がちであったがゆえに線の細いが、戦場であれば武将としての気概や能力を花開かせる人物。
この生き残った平家一門を束ねる人物であり、入道相国最愛の息子と謳われし者、平 知盛、その人であった。
「何を仰るのですか、知盛様っ!
我らはまだまだ戦えますぞっ! 板東武者に眼にもの見せてくれましょうぞっ!!」
「そうですぞっ! 所詮は陸での戦いしか知らぬ輩なればこそ、我らにはまだ勝機が残っておりますっ!!」
「いざとなれば義経の首を鷲掴み、我が身諸共この海の底へと沈めてくれましょうぞっ!!」
窮地であると分かっていながらも、未だに勝利を諦めぬ一門の男達の頼もしい言葉に、知盛も微笑を浮かべて返す。
「如何にとぞ大軍勢で攻め上げようとも仲違いをしておる上に、潮の流れを知らぬ者に易々と負けはせぬが道理ぞ。
潮の流れが変わるまでに、我らは必ずや決着を付けねばならぬ。 それが唯一の勝利を掴む道なれば、努々(ゆめゆめ)忘れてはならぬ。」
冷静に戦場を見詰める知盛の言葉に激しく燃えさかる戦意を落ち着けて、勝利への執念を各々の胸の中で滾らせる一門の男達。
平家の命運を決める最後の戦いの幕が切っておとされたのである。
矢が戦場に降り注ぎ、怒号と絶叫が響き渡り、鮮血が船を濡らす海上戦。
最初は潮流の流れが味方して優位に戦を進めることが出来ていた平家一門。
しかし、総大将の首を上げるには至らず、徐々に潮の流れに変化が現れていく。
平家に味方していた潮の流れが、刻一刻と経つ内にとうとう源氏にとって優位な流れへと変化してしまったのである。
それを好機と捉えた旗色の悪かった源氏の軍は息を吹き返し、ジワジワと平家を追い詰め始めてしまう。
「……最早、これまでか……」
戦況を冷静に見詰めていた知盛は敵に首を奪われ、骸を晒すくらいならば、と覚悟し、戦えぬ者達の乗る女船へと小舟を出す。
「……知盛殿、戦況に変化が有ったのですか?」
戦の最中であるにも関わらず己達の乗る女船へと姿を見せた知盛に対し、覚悟を既に決めている凪いだ眼をした建礼門院が騒ぐことなく静かに問いかけた。
静かに己達の命運を悟り、騒ぐことなく受け入れている女達の様子に知盛は一度その眼を伏せて想いを馳せる。
「今はこれまでと見えました。 見苦しいものは皆、海へ捨て、船を掃き清めたく思います。
そして……これから珍しい東男を御目にかけましょうぞ。」
すぐに開かれた知盛の眼は女達と同じように宿命を受け入れ凪いでおり、柔らかな微笑みすら浮かべていた。
そして、建礼門院や二位尼らのと共に居る天皇の位を持とうとも、未だに頑是無い幼子である安徳天皇を慮り、女達にだけ分かるように言葉を紡ぐ。
「……そうですか。」
「尼前?」
覚悟を決めていたとは言え、その最期の時が近付くとなれば誰でも平静ではいられぬもの。
さめざめと涙を流し、悲壮な覚悟を表情に浮かべる女達の姿に、知盛も爪が皮膚を傷付け血が滲むほどに握り締める。
未だに周囲の女達の悲しみの理由が分からぬ幼い安徳天皇だけが、不思議そうな、不安そうな表情を浮かべて祖母である二位の尼の様子を伺っていた。
「…………。」
「……尼前?」
尼前と呼ばれる二位の尼は幼くも大人びた雰囲気を既に持ち、周囲を明るく照らすような輝きを宿した安徳天皇を万感の想いを込めてジッと見つめ続ける。
しかし、二位の尼が安徳天皇の言葉に応えることはなく、悲しそうにも見える微笑を唯々浮かべるだけであった。
「妾は女の身なれど、野蛮な源氏の手に落ちるつもりはありませぬ。 妾は安徳天皇のお供の名誉を賜ろうぞ。
ほれ、同じ心を持ちし者はお早く準備をなされませ。」
一度だけ目元を隠して俯き、か弱き女の身で敵の慰み者になるくらいならば、と再び上げた顔には悲しみの影など無く、穏やかな笑みを称えながら他の女達へと呟き、側に置いていた三つの桐の箱を引き寄せる。
一つ一つの桐の箱を丁寧に開け、その中に収められていた宝剣を腰に差し、宝鏡と神璽を手に持った。
そして、不安げに己を見上げてくる幼い孫、安徳天皇の姿に眼を細め、優しい手つきで抱き寄せる。
小さな安徳天皇の身体を優しく、そしてしっかりと抱きかかえ、知盛や女達が見守る中で船の縁へと歩んでいく。
「尼前は、私をどこへ連れて行こうとしているのですか?」
船の縁より身を乗り出す二位の尼へと不思議そうに眼を瞬かせた安徳天皇が問いかければ、二位の尼はより一層優しい微笑みを浮かべた。
「帝には未だにお伝えしてはおりませんでしたね。
この世に帝は前世の十善戒行の御力で、帝としてお生まれになったのですよ。
ですが、帝も妾達も悪縁に引かれてしまい、御力がすでに尽きてしまったので御座います。」
未だに十にもならぬ八つの頑是無い子で有れど、只ならぬ二位の尼の悲壮な覚悟だけは感じ取る。
己を抱きかかえる二位の尼の黒色の喪服をしっかりと小さな手で安徳天皇は握り締めた。
「帝、まずは東へ向かって手を合わせて下さいませ。その先にある天照大御神をお祀りする伊勢神宮に、この世からのお暇を申し上げてください。
そして、次いで西へと手を合わせて、西方浄土の迎えがいらしてくださいますようにお祈り申し上げてくださいませ。」
安徳天皇は二位の尼の言葉に従い、小さな柔らかな手を合わせ、東に向かい伊勢神宮にお暇を申し上げ、西に向かっては西方浄土のお迎えを願い念仏を透き通る幼子特有の声で唱える。
「この日ノ本の国がある現世は悲しみ、苦しみ、恨みが蔓延せし辛き世なのです。 この白波の下にこそ、誰もが辿り着きたいと願う極楽浄土という名の幸せな都が御座います。
……その極楽浄土の都へと、この婆が帝をお連れ致しましょう。」
萌黄色や山鳩色の黄色みの強い皇族の中でも天皇が纏う御衣を身に纏っている安徳天皇は、純粋無垢な光を放つ両の眼より涙を流す。
「帝、波の底にも都が御座います。」
今から辛苦など無い極楽浄土へと行くのだと、二位の尼は幼く可愛い孫の小さな身体をしっかりと抱き締め…………その身を青く深い波間に続く、海の底へと投げ出したのだった。
潔い、躊躇いなど微塵も見られない二位の尼の最期の姿に女達の両目からも涙が溢れ出る。
そして、安徳天皇と二位の尼に続くように建礼門院を筆頭に次々と何処までも広がる波間に身を投げ、深い暗い海の底へと沈んで行く。
安徳天皇と母である二位の尼の最期を見届けた知盛は暫し二人が沈んでいった海面を見詰め、船の縁を掴む手に力を込める。
「我らが都は白波の下にあり! 我らも女達に続くのだっっ!!」
海面を見詰めていた顔を上げ、周囲を見渡し叫んだ知盛の声に未だに戦っていた平家の男達は次々に深い海の波間へ飛び込む女達の姿を眼にして己達の死期を悟った。
「おおっ! 海の底の都とは風流なっ! 板東侍には勿体ない都じゃなっ!!」
「流石は平家一門の都よっ!!」
カラカラと血で汚れた身体のままで男達は笑い合い、決して浮かび上がらぬように鎧甲をしっかりと身に着けて、一人、また一人と波間へと飛び込んでいく。
しかし、一人だけ二位の尼や安徳天皇に続いて波間に飛び込んでいく女達を背に戦い続ける剛の者がいた。
「一人でも多くの源氏の兵を道連れにしてくれようぞっっ!!!」
鬼神が乗り移ったかのように源氏方の兵達を弓矢を用いて射殺し、矢が尽きれば黒塗の大太刀と白柄の大長刀をそれぞれに握り締め、散々に暴れ回る猛将を平教経と言った。
「我が夫に習い、妾も一人、二人など道連れにしてやろうぞ。」
血なまぐさい戦場に凛とした女の声が響くと同時に、女船へと近付いて来た源氏方の船に艶やかな長い髪を翻した一人の女が飛び移ると、厳めしい顔をした男達を長刀で一刀の元で切り倒す。
「教経様、妾は先に波間の下の都にてお出でをお待ちしております。」
鮮血で濡れた長刀をそのままに、夫である教経へと凛として美しい笑みを向けたまま女は躊躇うことなく海へと身を投げてしまう。
「流石は我が妻じゃ! 見事なり! 我も負けずに励もうぞっ!!!」
美しい笑みだけを残し、波間に沈んでいった妻へと教経も獰猛な笑みを返し、手に持った二振りの刃を振り回す。
それを見ていた知盛は、鮮血で身体を汚す教経に向かって言葉を送る。
「罪つくりなことをするな教経よ。
そなたが魂を燃やすほどの良き敵でもあるまいに。」
その言葉を受けて教経は、ニヤリと戦意漲る笑みを浮かべた。
「ならば、大将首を……義経の首を頂きに参ろうか!
もしくは、大将たる義経と差し違えん!!」
知盛の言葉に大将首を求めることにした教経は敵を薙ぎ払いながら進み、敵陣の奥深くへと切り込んでいく。
「見つけたぞ、義経っ! 我が欲する大将首よっっ!!」
敵陣奥深くまで船を飛び乗りながら移動した教経は、念願敵って大将である義経を発見する。
戦意漲る教経は、脂で切れ味の落ちた大太刀と大長刀を捨て、腰に差していた小長刀を抜き放ち、義経を組み敷こうと跳びかかる。
「我が首を渡すは、そなたにあらず!」
だが義経は刃を合わせることもなく飛び上がると船から船へと飛び移り、捕らえる間もなく八艘彼方へ走り去ってしまった。
「あやつの身軽さは我では敵わぬ。 最早此処までか……。」
身軽さでは敵わぬと悟った教経は義経を追いすがり討つことを諦めて覚悟を決める。
教経は義経を見つけた船から移動することなく、手に持っていた小長刀を捨て去り、兜も脱いで放り投げ、仁王立つ。
「さあ、さあっ! 我こそはと思わん強者は我が前に出でよっ!
この教経に挑み、我を生け捕りにしてみせよっ!!
我は平家一門を恐れて戦場に立たぬ、鎌倉で震えておる違いない頼朝に言いたいことがあるっっ!!!」
周囲の者達が萎縮するほどの大音声を教経は挙げ、源氏の兵たちは誰一人として恐れから誰も教経に近付こうとはしなかった。
「都から落ち延びた平家の猪武者の何が恐ろしいものかっっ!」
「貴様の首級を上げて御前へと付きだしてやるから、首だけで語ってみせるが良いっっ!!」
「兄じゃと儂が貴様の首は貰ってやろうぞっっ!!」
力持ちで知られた土佐の安芸太郎と次郎の兄弟、加えて同じく力自慢の大男が、教経を討ち取って手柄にしようと三人同時に跳びかかった。
「よく来たっ! お前達、我が死に逝く際の旅路で供をしてもらおうかっ!!」
「ぐぎゃっ」
獰猛な、しかし覚悟を決めた潔い笑顔を浮かべた教経は、まずは大男を海へ蹴り落とした。
「ふごぉっ……ぐぅぅ……」
「ひぎゃっっ……ひっ、離せっ! 離さぬかっ!!」
そして、殴り倒した安芸兄弟を逞しい腕で締め上げると両脇に抱えしっかりと話さぬように締め上げて、そのまま海に大きな水飛沫を上げて飛び込んだのだった。
ことの顛末を見届けた知盛は、穏やかな笑みを浮かべ空を見上げる。
「……これもまた我が宿命なり。」
潮の香りの混じった冷たい海風は戦で興奮している身体には心地よい。
父親の代から始まった平氏一門の栄華を思い返し、我が一門が滅び去るは天命に他ならぬと知盛は凪いだ心で受け入れる。
「知盛様、お待たせ致しました。」
「家長か。」
一点の曇りも無い空に想いを馳せる知盛の背後に一人の男の声が掛かった。
それは知盛の命で碇を担いで持って来た、すでに鎧を二重に着込んだ乳兄弟の家長であった。
「すまぬな、家長。
しかし、我とそなたで交わせし約定は違える気は誠に無いのか?」
「そのようなことを仰らないで下さい、知盛様。
知盛様と交わした約定は決して違えたりは致しませぬ。
……波の下の都で皆でまた暮らしましょうぞ。」
家長の手を借りて二重に鎧を纏い、知盛は碇を受け取り担ぎ上げ船の縁へと足をかける。
「家長よ、我は見届けねばならぬことは全て見届けた。 それゆえに、今はただ自ら命を絶つのみよ。」
その言葉を残して知盛は家長と共に波の合間に吸い込まれ、二度と浮かび上がってくることは無かったのだった。
斯くして、この世の栄華栄達を極めた平家の一門は悉く命を落とすか、捕縛されることとなる。
最期の戦場となった壇ノ浦の海は、まるで血に染まったかのように赤く彩られることとなった。
赤い波間に揺れるは平家が掲げし赤旗、赤印の揚羽蝶。
赤い血の海もしくは、咲き誇る深紅の曼珠沙華の花々の合間を舞い飛ぶ、赤き揚羽蝶の如くなりけり。
壇ノ浦に面した各地の砂浜には主を失いし空船が、ギイギイ、ギコギコ、と悲しげな音と共に流れ着く。
この世の理は白波が立てる水泡の如き脆く消え去るものなのか。
栄えては滅び、滅びては栄える。
全ては一時を咲き誇る深紅の花の如くなりけり。