第10章ー3
事前にワシントン条約の席で話がまとまっていたことや、米国も対中関係が緊迫していることから日英同盟の復活に積極的に賛成したこともあり、1927年3月1日、日英同盟再締結が公式にロンドンと東京で同時に発表された。
このことは、周囲に様々な波紋を広げた。
「日英同盟が復活し、米国も日英に味方している。幾ら中国国民党と言えど、日英に対して何らかの行動を差し控えるだろう」
という見方が、この時の世界では大勢だったが、それを逆用しようと考える者も極少数だったがいた。
「この際、中国国民党右派を率いる蒋介石と日英を戦わさせて、お互いに消耗させる。それによって、中国共産党による中国国民党乗っ取り計画を実現するのだ」
中国共産党の一部の幹部は、そう考えて、謀略を巡らせた。
そういった幹部達が目を付けたのが、南京だった。
「南京には多数の日英米の市民が居住し、急な退避も中々できない。少数の工作員で、南京市民を煽って、南京市民と日英米の居留民を衝突させると共に、中国国民党軍を巻き込もう。それによって、日英米軍により、中国国民党軍を消耗させ、蒋介石の支持基盤を崩してしまい、蒋介石を失脚させるのだ」
中国共産党幹部達の謀略はうごめいた。
実際、中国共産党の幹部の謀略が効果を発揮するのに絶好の条件に当時の南京はなりつつあった。
漢口の日英租界が閉鎖に追い込まれたという情報は、当時の南京市民を勇気づけ、排外主義に火をつけていたのである。
「漢口に続き、南京からも日英米の奴らを追い出そう」
「追い出すだけでは生ぬるい。これまで散々、日英米に搾取されてきたのだ。奪われた物を取り返そう」
南京市民の間では、そういった会話が日常になりつつあった。
1927年3月21日、蒋介石直卒の中国国民党軍は上海に無事、入城した。
そして、蒋介石自身も、中国共産党の動向に不穏な動きを覚え、自らが上海に入り次第、上海で日英米の暗黙の支持を受けたうえで、共産党を粛清しようと考えていた。
(なお、この時の蒋介石の考えについては、諸説ある。上記は、蒋介石の後世の自らの主張に基づく。しかし、当時の蒋介石は、中国国民党右派として、中華民族主義を唱え、反日英米を唱えていた。そんな当時の蒋介石が、日英米の支持を求めるというのは不自然であり、独力による共産党粛清を考えていたという説等も根強くささやかれている)
だが、中国共産党の謀略の方が先に発動していた。
3月23日、既に上海を占領した中国国民党軍は勢いに乗じて、南京を包囲した。
当時、南京市には万が一に備え、呉鎮守府海兵隊から分遣された1個海兵中隊が警備のために駐屯しており、更に駆逐艦「檜」等も海兵隊の援護に当たるべく南京市の近くの揚子江を遊弋していた。
これまでの万県、漢口事件の経緯から、日本側も油断していなかったのである。
なお、英米も日本の行動を支持していた。
この時、中国国民党軍に対峙していた奉天派系の張宗昌は直魯聯合軍8万人を率いて南京周辺にいた。
張宗昌は、日本海兵隊が南京市にいることに難色を示していたが、英米が日本を支持していることもあり、結果的に黙認という態度を執っていた。
張宗昌は、自らの軍兵の士気が低いことから、南京周辺からの撤退を決断し、直魯聯合軍全てを北へ向かわせた。
このために翌日の3月24日、中国国民党軍は無血で南京市街に入城した。
そして、南京が中国国民党の支配下にあることを、この時、南京に入城する中国国民党軍を率いていた程潜は宣言した。
(この時に、程潜が中国共産党の謀略に加担していたか否かについても諸説ある。)
そして、南京市民と中国国民党軍の一部は共同して南京事件を起こした。
小説なのだから、(小説上の)真実を明言してもいいのですが、歴史と言うものは、自分が言うのが真実で、他人が言うのは虚構と言うのが横行するので、歴史小説として、真実は敢えてぼかして描きます。
この世界での通説に基づいて、この小説は描きますが、実は違うと言う人も多々いて、その人からの反論等があるということで、この小説は進みます。
(私としては、仮想歴史を描くのに、その方が真実の歴史っぽいと想うのです。)
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