第9章ー10
「わしの読みが甘すぎた。ここまで、三井が追いつめられるとはな。とはいえ、空軍を筆頭に軍幹部が激怒して暴走した気持ちも分かる。国産初の陸上戦闘機が量産寸前に三井のエゴで潰されては国防の一大事だ。三井ももう少し柔軟に対応して、鈴木商店に塩を送ってくれていればな」
元老の山本権兵衛元首相は、6月初め、訪問してきた林忠崇侯爵にぼやいていた。
「仕方ありません。全ての物事を先読みできるのは神様だけです。事を謀るは人にあり、事を成すは天にあり、とも言います」
林侯爵は達観したような口ぶりで話した。
「全くだな」
山本元首相の口調はほろ苦かった。
昭和金融恐慌は、先日、完全に収束したと言っても良かった。
日本国内の金融機関は、平常に店を開いている、台湾銀行等、経営危機を噂された金融機関は、一行を除いて今のところ日本銀行特融等により持ち直した。
だが、一行、三井銀行だけは、事実上は日本の金融機関ではなくなっていた。
三井銀行は、米国の金融資本の買収により、その傘下に収まってしまったのだ。
三井銀行が米国金融資本の傘下に入ったことにつき、日本の国粋主義者の一部は激怒しているらしいが、大部分の国粋主義者が、この事態について一時は止むを得ないと静観している。
日本初の国産陸上戦闘機開発を潰そうとした売国奴、三井にとっては、いいお灸だという意見が国粋主義者の間では強いのだ。
「何れは三井銀行を日本の銀行に戻さねばな。鈴木商店の新当主、高畑誠一とか、やってくれないものか」
山本元首相は更に言った。
「やってくれるかもしれませんが。極めて皮肉な話になりますな。鈴木商店を潰そうとした三井財閥の基幹銀行が鈴木商店の機関銀行になることになります。むしろ、三井財閥に期待を掛けるべきでは」
林侯爵は口先では言ったが、内心では無理だと思っていた。
昭和金融恐慌は、三井財閥に大打撃を与えた。
三井銀行を手放し、三菱や鈴木の後塵を拝する存在に三井を転落させたのだ。
大正デモクラシーにより発達した世論が暴走した際の恐ろしさを、山本元首相や林侯爵は痛感していた。
その後の事を少し語る。
鈴木商店は、高畑誠一の陣頭指揮と、GM等の支援(主に役立ったのは、資金援助よりも経営のノウハウだったという)により、立て直しに成功する。
皮肉なことに金子直吉がスカウトして育てた人材が、立て直しの中心になった。
また、鈴木商店は、株式鈴木を中心とする財閥体制に完全に組織を改編した。
そして、高畑は、これまでの教訓から、鈴木財閥にも機関銀行が必要と考え、昭和金融恐慌により経営が揺らいでいた地場の兵庫県内の幾つかの銀行を買収して再編し、神戸銀行を設立して、鈴木商店の機関銀行として育てた。
その後、第二次世界大戦で膨大な利潤を上げた鈴木財閥は、米国資本に買収されていた旧三井銀行をあらためて買収し、神戸銀行と合併させて、桜銀行を設立する。
この時、ようやく、旧三井銀行を米国から日本の手に取り戻せたと高畑をはじめ、当時の日本の財界関係者は、挙って喜んだという。
一方、金子直吉は、鈴木から引退後、もらった退職金を元手に相場で儲け、その資金で幾つかの会社を買収して、再度、経営の荒波に漕ぎ出す。
「わしは死ぬまで、経営を止めん。「お家さん」によう頑張った、と言われるんや」
を口癖に頑張り抜き、亡くなる寸前まで奮闘した。
1938年に「お家さん」が亡くなると、金子はあの世で再会することを願った。
そして、1944年に金子は亡くなった。
それを看取った1人が高畑だった。
「わしの会社は、鈴木に全部譲る。後を頼む」
「金子さん、ご安心を」
この金子と高畑のやり取りが、金子の最期の言葉になった。
第9章の終わりです。
次から第10章ー南京事件に移ります。
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