第9章ー7
「林侯爵殿、私の切腹の見届け人をお願いいたします」
金子直吉は声を詰まらせながら、頭を下げた。
「うむ、確と承知した」
林忠崇は芝居がかった口調で承知した。
その言葉を理解した「お家さん」鈴木よねは、思わず叫んだ。
「いけません。金子さんあっての鈴木や」
「「お家さん」、そのお言葉、却って私の決意を辛くさせます。どうか、黙って、私の切腹を見届けてください。商家の番頭の切腹を、大名が見届ける。こんな前代未聞の晴れ舞台を踏むことが出来る、私は本当の果報者や」
金子は泣き笑いの表情を浮かべ、声を詰まらせて言った。
林も貰い泣きをしながら言った。
「わしが切腹の介錯人を務めてもいいぞ」
「そりゃ、凄過ぎる。商家の番頭の切腹の介錯から見届け人まで大名がしてくれる」
金子の泣き笑いは、激しさをました。
「待ちや。金子さんだけに腹を切らせては、「お家さん」失格や」
鈴木よねは、叫んだ。
「高畑誠一に、すぐに来るようにいいなされ。後、うちの息子共もすぐに来るように言いなされ。それまで、切腹を金子さん待ちや」
鈴木よねは、使用人にそう命じた。
高畑は、何事かと訝りながら、鈴木よねの私邸へと駆け付けたが、そこの応接間に入るや否や、自分の眼前に広がる光景に仰天した。
鈴木よねとその息子たち、金子直吉が止めどなく涙をこぼしている。
後、林侯爵も落涙していた。
思わず絶句していた高畑に、鈴木よねは声を掛けた。
「よう来てくれた。至急、伝えたいことがある」
「鈴木商店の経営から、私と息子たちは完全に身を引き、全ての権利をあんたに譲る。それから、金子さんも完全に鈴木商店の経営から身を引く。今後の鈴木商店を、高畑さん、どうか頼みます」
鈴木よねは、声を詰まらせながら言った。
高畑は、思い切り動揺しながらも言った。
「不肖不才の身ですが、身命を賭して、鈴木商店を守り抜きます。どうか、ご安心を」
「よう言ってくれた。さすが、私の孫の婿や」
鈴木よねは肯きながら言った後、更に続けた。
「林殿、鈴木商店を護っていただけますか」
「サムライの名に懸けて、山本元首相を説得し、鈴木商店を護り抜きましょう」
林は落涙しながらも、明確に答えた。
「それなら、安心できる。鈴木商店は絶対に安泰や」
鈴木よねは、号泣した。
一しきり、修羅場が落ち着いた後、林は山本元首相に一通の至急電報を打った。
「カネコ、セツフク、ヨネラインキヨ、ススキノソンソクヲ」
その電文に目を通した山本元首相は落涙しながら呟いた。
「よし、何としても鈴木を存続させる。ついでに、三井に地獄を見せてやる」
三井の翳働きに怒っていた山本元首相は陰謀を巡らせていた。
三井銀行は、コール市場から急速に資金を引き揚げていた。
その目的は言うまでもなく台湾銀行と鈴木商店に対する資金攻めである。
経営が悪化した台湾銀行は、コール市場に資金調達を依存していたのだ。
従って、コール市場に資金が無くなれば、台湾銀行は破綻し、鈴木商店も潰れる。
山本元首相はそれを逆用することを決断した。
「伏見宮家から、三井銀行への全預金を下ろしたいと」
「ええ、三井銀行の経営が危ないので、コール市場から三井銀行が資金を引き揚げているという話を聞き、預金に不安を覚えたのですぐに全額下したいと」
「そんなすぐには下せないとお伝えして、伏見宮家の預金全額を下せる現金の準備がすぐできるわけがない。予め言っていただかないと」
三井銀行の某支店長が、そう答えた瞬間、山本元首相の罠に三井銀行は嵌った。
翌日の新聞の朝刊第一面に
「三井銀行、宮家の預金封鎖を宣告。三井銀行が経営破たんの危機」
という記事が躍り、実際に預金が下せなかったという伏見宮家の談話が乗ったのだ。
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