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第9章ー6

 林忠崇侯爵は、敢えて金子直吉の涙に気づかないふりをして、話を続けた。

「金子さん。あんた、昔、樟脳の空売りで大失敗して、取引先で「お家さん、すみません」と叫んで、切腹しようとしたことが、あるそうやな」

「はい」

 そう言って、金子は、涙を流しながら、かつての情景を思い起こした。


 それは、日清戦争後の1896年のことだった。

 その2年前、1894年に鈴木商店の初代店主、鈴木岩治郎が病没した。

 この際、鈴木商店を清算して、店を畳むべき、という人もそれなりにいた。

 何しろ1894年当時、鈴木商店の後継者、2代目岩治郎は12歳の頑是なさである。

 この当時の鈴木商店は、神戸では名が知られた有力商店ではあったが、まだまだ神戸で名が知られた存在に過ぎない個人商店に毛が生えたと言っても過言ではない存在だった。

 だから、この際、鈴木商店を畳むべきという意見が出るのも、もっともなことだった。

 だが、「お家さん」鈴木よねが、鈴木商店を続けると決断したことで、鈴木商店は存続が決まった。

 しかし、それから2年後、鈴木商店は大番頭の金子の大しくじりで、存亡の危機にさらされた。


「金子さんが、樟脳の空売りでえらい見込み違いをしたそうな」

「樟脳100斤は40円と見込んで空売りを鈴木商店はしまくっているが、今、樟脳100斤は95円を超える。こんな値段で、樟脳を買って、100斤40円で樟脳を売ったら、鈴木商店は間違いなく破産や」

 神戸界隈は、鈴木商店が経営破たんするという噂で持ち切りになるという大騒動になった。

 金子は、「お家さん」にひたすら頭を下げると共に、腹を括った。


 金子は、当時の鈴木商店にとって樟脳の最大の取引先、シモン・エバース商会に単身乗り込み、自らの考えた取引清算条件を懸命に訴えた。

「これだけの現物と3500ドルを支払うことで、今回の取引清算をお願いします」

「冗談ではない。樟脳100斤40ドルの単位で、契約通りの量の樟脳を売るべきではないのか」

 シモン・エバース商会の支配人の返答はにべもなかった。


 次に取った金子の行動が凄まじかった。

 懐に呑んでいた匕首を取出すと共に、

「お家さん、すみません」

 と大絶叫して、その匕首を自らの腹に突き刺そうとしたのである。


「待て、落ち着け」

「何としても止めろ」

 等々、シモン・エバース商会の支配人以下、シモン・エバース商会の従業員総出で、金子から匕首を取り上げて、金子を押さえつける大騒動が起こり、シモン・エバース商会の支配人以下全員が、金子の行動に毒気を抜かれてしまった。


「それでは、これだけの現物に加え、3500ドルでは無く、4000ドルの支払いで」

 金子の再提案に、シモン・エバース商会の支配人は応じることにした。

 その後、金子は勢いに乗って、取引先を回り、全ての樟脳の空売りの取引清算に最終的に成功した。

 このおかげで、この時の鈴木商店は破産を免れることに成功することにもなる。


 その後、台湾の樟脳油の大部分の販売権を、樟脳専売化に協力した見返りに、鈴木商店は獲得し、世界の鈴木商店へと雄飛するのだが、この林の説得の言葉を聞いて、金子の脳裡に浮かんだのは、シモン・エバース商会の支配人の前で、自らが腹を切ろうとした時の情景だった。


「あの時、金子さんは、本当に腹を切るつもりだったらしいな」

「はい」

「あの時、死んだものと思って、今こそ、金子さん、自らの腹を切ってくれんか。本当に腹を切るわけやない。金子さん、鈴木商店の経営から完全に引退してくれ。そうすれば、鈴木商店は助かるんや」

 林の諄々たる説得の言葉は、金子の胸の内に響いた。

 金子の涙は今や止まらなくなり、流れる涙は熱く、頬を焦がすようだった。

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