第9章ー5
金子直吉は、ほっとしていた。
鈴木商店存続のために必要不可欠と考えて、自ら東京に詰めてまで陣頭指揮を執っていた震災手形整理法が成立したからである。
「これでよし、鈴木商店は不滅だ。また、どんどん新規事業に投資して、この不況を吹っ飛ばしてやる」
金子はそう独り言を呟いていた。
そこに、後藤新平の紹介状を持って、金子の知人の林忠崇侯爵が訪ねてきた。
後藤と金子は、深いつながりがある。
そもそもの発端は、後藤が台湾の民政長官だった時代に行おうとした樟脳の専売化だった。
この時、民間の樟脳関係業者は軒並み樟脳の専売に反対したが、金子は後藤に味方して、樟脳の専売化を成功させた。
それ以来、後藤と金子は親密な関係を築いていた。
その後藤の紹介状を持って、林が金子を訪ねてきたのである。
以前から知人ではあった者が、わざわざ紹介状を持参してというのを奇異に思って、金子がその紹介状に目を通すと、林は元老でもある山本権兵衛元首相の使者として来たことが分かった。
だが、その使者の役目が紹介状には全く書かれていない。
金子はいぶかりながら、林に面会した。
「金子さん。単刀直入に言う。できる限り急いで、わしと一緒に神戸まで行ってくれ。そして、「お家さん」の鈴木よねさんと金子さんとわしの3人で膝を交えて、あることを話し合いたい」
林は、金子と顔を会わせるといきなりそう言った。
金子の内心に、嫌な予感が湧いた。
「いきなり、そう言われても」
とりあえず、金子は難色を示した。
だが、林は金子を睨み据えて、言葉を継いだ。
「ともかく事は急ぐのだ。明日、朝一番の列車で神戸までわしと一緒に行こう。「お家さん」には、電報でわしが同行して行く旨を伝えておいてくれ」
金子もそれなりに商売の修羅場をかいくぐった男ではあったが、戦場の狂気に長年触れていた林の気迫には到底及ばない。
金子は、林の気迫に押されて、林と共に神戸へ行くことになった。
東京から神戸までは、標準軌に既に改軌されていたこともあり、東京駅朝7時発の特急が15時前に神戸駅まで到着する。
金子と林は、鈴木商店が差し向けていた車で、鈴木よねのいる本宅に神戸駅から向かい、その日の夕方までには本宅に着いていた。
「いきなり何事ですか。山本元首相の使者として、林忠崇侯爵が、金子と一緒に来るとは」
使用人に案内されて、応接間に現れた鈴木よねは、開口一番に林に問いただした。
林は取りあえず、頭を下げたが、その後に出た口調は厳しいものがあった。
「鈴木さん、金子さんを鈴木商店から完全退職させて、鈴木商店の経営から手を引かさせてください」
「それはお断りします。幾ら、林侯爵の言葉と言えど聞けません。金子は鈴木の大恩人です」
鈴木よねは、即答した。
「山本元首相も、鈴木商店存続のために金子のクビを斬れ、そうすれば何とか鈴木商店を存続させてやる、わしが身命を賭してもよい、とまで言われています。どうか、金子さんを引退させてください」
「お断りします」
林と鈴木よねは、押し問答をした。
林は、少し沈黙をした後、金子の方を向いて、言葉を発した。
「金子さん、あんたは果報者や。大名家が潰れ、多くの家中の者が路頭に迷うことが目の前に迫っているのに、大名家の当主が、筆頭家老の切腹はまかりならんと言って、筆頭家老を庇ってくれているようなものや。筆頭家老が腹を切ったら、確実に大名家が救われるのにや。元大名家の当主のわしが知る限り、そんな大名家の当主は見た事も聞いたこともない。あんたが、筆頭家老の立場なら、どうやって大名家を守る。そして、大名家の当主の言葉に報いる」
林の言葉は、その場に響き渡った。
その言葉を聞いた金子は落涙した。
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