第9章ー3
林忠崇侯爵は、顔色一つ変えず、元老の山本権兵衛元首相に問い返した。
「分かりました。いつ、御前に金子直吉のクビを持参すればよろしいでしょうか。私が最後に実際に人に向かって刀を振るったのは、20年以上前の旅順要塞攻防戦、203高地でのことになりますが。年老い、腕は弱ったとはいえ、今でも人のクビを斬ることはできます」
この林侯爵の答えに、山本元首相は笑ってしまった。
「そう真面目に答えるな。却って返答に困るではないか」
山本元首相は、深刻な状況にあるにも関わらず、思わずそう言ってしまった。
林侯爵も笑い返した。
林侯爵も、本当に金子のクビを斬って欲しい、と山本元首相が言っているのではないのは分かっている。
深刻な状況にあるほど、笑いたくなることがあるのだ、今はそういう時だった。
「今回の震災手形の処理について、どのような落としどころが妥当だと思う」
山本元首相は、林侯爵に尋ねた。
「震災手形をきちんと処理し、鈴木商店の経営を正常化させ、台湾銀行を立て直すといった辺りが落としどころでしょうな」
林侯爵は答えた。
「ですが、それは難しいですよ」
「ほう、どうしてそう考える。老中殿」
山本元首相は、林侯爵にそう言った。
林侯爵は、元譜代大名であり、将来は老中になれる、と若き日々に、幕閣内で言われていた逸材だった。
皮肉なことに徳川幕府が倒れたことから、軍人の道を歩み、名提督と謳われるようになったが、政治家としての見識は今でも一流のものがある。
そうしたことから、山本元首相が、林侯爵(元帥)に政治的意見を求める際には、老中殿と呼びかけるのだった。
「鈴木商店も台湾銀行も今は世論の攻撃の的になっています。世論を無視して、鈴木商店と台湾銀行を救済するわけには行きますまい」
林侯爵はそう答えた。
「全くだな」
山本元首相は肯きながら言った。
「だが、鈴木商店と台湾銀行を潰すと影響が大きい。かといって、単に救済する訳にもいかん。世間に示しがつかんからな」
山本元首相は、林侯爵を見据えながら言った。
林侯爵は黙って肯いた。
「震災手形は、わしが首相時代に蒔いた種でもある。きちんと整理をしないわけにはいかん。それで考えたのだが、震災手形整理法を成立させ、金子を鈴木商店の経営から完全に引退させることで、世間的な手打ちをし、整理をつけようと思うのだが、どうだろうか。わしの周囲、斎藤実とかも、それが妥当な落としどころだろう、と言ってくれている」
山本元首相は、林侯爵に半分、頭を下げながら言った。
「分かりました。私もそれが妥当な落としどころだろうとは思いますが。一つだけ、何故、私をそこまで頼りにするのです」
林元帥は、山本元首相の言葉に肯きながら、疑問を呈した。
「君が、元大名だからだ。そして、戊辰の戦野等、多くの戦場を駆け巡った経験者だからだ」
山本元首相はそう言った後、更に続けた。
「今の鈴木商店は、わしの見るところ、末期の豊臣家だ。大坂城の明け渡しを拒否し、勝算が立たないのに徳川との戦に挑もうとしているようなものだ。勝海舟が江戸城の無血開城を行ったように、君には鈴木商店の幹部を納得させ、鈴木商店に金子を斬らせることで、震災手形処理に伴う破局回避を行ってほしいのだ」
「何とも難しいことを言われるものだ」
林侯爵は頭を振りながら言った。
「80歳近い老人の私がするのにはきつい仕事ですが、若い者では鈴木商店の幹部の説得が却ってできない可能性が高いですな。よろしいでしょう。最後の御奉公と思ってやりましょう」
「よろしく頼む。中国情勢もきな臭いしな」
山本元首相は更に言った。
「全く内憂外患ですな」
林侯爵は、苦笑いをし、山本元首相の前を辞去した。
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