第9章ー1 昭和金融恐慌
新章の開始です。
なお、次章と並びの章になる予定です。
「震災手形整理に関する法案か」
1927年2月末、林忠崇元帥は、手元にある資料に目を通していた。
林は予備役元帥ではあるが、同時に侯爵という爵位を持つ関係上、貴族院議員も務めている。
1926年12月に始まった帝国議会に出席するため、林元帥は、木更津の本宅を出て、東京に構えた別宅に議会開会中は寝泊まりをしていた。
林は、既に80歳に手が届こうとしているが、若いころから鍛え上げた身体は未だに壮健で、耳が遠く、老眼になった位の不具合しかなかった。
とはいえ、不自由なことに違いは無い、止む無く老眼鏡を掛けて、林元帥は目を通しながら、関東大震災から、事ここに至るまでの経緯も思い起こしていた。
1923年9月1日に発生した関東大震災は、日本に大打撃を与えた。
世界大戦後の戦後不況に陥っていた日本が、平和到来に伴う景気回復を味わう前に、いきなり大震災による被害に遭ったのだ。
官民を問わない震災被害の総額は、国家予算の3年分に達したとも言われるくらいだった。
これくらいの大被害となると、経済に与える副次被害も大きなものになる。
特に関東大震災は帝都に大被害を与えたものであり、企業の支払、特に支払に使われる手形処理は喫緊の課題になった。
その対策として、関東大震災後に成立した挙国一致内閣の山本権兵衛内閣が実施したのが、日本銀行震災手形割引損失補償令だった。
関東大震災で被災した地域で営業していた企業等が振り出し、関東大震災以前に銀行が割引き、1923年9月30日までに支払期限が来る手形は、日本銀行が再割引に応じることにしたのである。
そして、この手形処理で日本銀行が損失を被った時は、1億円を限度に政府が補償するというものだった。
この際には、再割引された手形の決済期限は1925年9月30日とされていたが、中々、手形の処理が進まなかったことから、1年毎の期限延長を繰り返し、現在は1927年9月30日が決済期限とされている。
しかし、一見すると妥当なこの手形処理の中身となると、とんでもない実態が秘められていた。
林は、表向きは単なる無所属の一貴族議員に過ぎないが、世界大戦の凱旋提督であり、元老の山本権兵衛や西園寺公望とも親交がある。
また、財界の一大財閥、鈴木商店とも世界大戦の物資調達を通じて、林はコネがあった。
そのため、林は政財界、軍部の裏事情にそれなりに通じていた。
その林が把握している情報だと、この手形処理には、日本経済を揺るがす大爆弾が仕掛けられていた。
この手形、震災手形は1927年初頭に、総額約2億円に達していた。
その内の約1億円が政府に関連した特殊銀行である台湾銀行関係、更にその内約7000万円が鈴木商店(鈴木商店には他の銀行絡みの手形もあり、それを併せれば約9000万円)絡みであった。
つまり、震災手形整理は、台湾銀行と鈴木商店救済に他ならないと見られても仕方なかった。
しかも、鈴木商店自身に、そんなに悪気が無かったのも、事情を複雑にしていた。
当時の鈴木商店の経営を握っていたのは、「鈴木の大番頭」と謳われた金子直吉だった。
金子にしてみれば、戦後不況に追い討ちをかける震災打撃である。
そして、戦後、陸海軍の肝いりで始めた鈴木重工の航空機や自動車製造は、初期投資が膨大で、鈴木商店の資金繰りを逼迫させる一大要因だった。
金子にしてみれば、鈴木重工存続のために必要だということで、多少怪しくとも震災手形であるとして、声高に主張し、震災手形に回すことで、資金繰りを何とかしたのである。
しかし、部外者からは、不当極まりない事をしたとみられても仕方のないことで、鈴木と台銀に対する世論の攻撃は激しくなっていた。
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